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Last-modified: 2008-03-23 (日) 14:31:09

381 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:17:27 ID:xnFSmvBU
「ねえねえニュース、大ニュースよ!」
 と、広報担当のパティが大騒ぎしながら夕暮れの生徒会室に駆け込んできたのは、その
日の仕事を終えたセリスたちが帰り支度をしているときのことであった。
「また出たんだって、あの痴漢!」
 セリスは鞄に物を入れる手を休め、眉をひそめて訊いた。
「痴漢って、例の、黒衣の?」
「もち。今度はね、フリージの辺りに出たんだって」
「本当ですか」
 気遣わしげに口元に手を添えるのは、生徒会の一員であるティニーだった。彼女の家は、
その痴漢が現れたというフリージの辺りにあるのだ。
「どうしましょう、なんだか怖いわ」
 怯えた様子で呟くティニーに対し、パティの方は気楽そうにぴらぴらと手を振ってみせる。
「大丈夫よ、その痴漢、ティルテュさんを狙ったらしくてね。怒りのトローンで黒焦げに
なって逃げ出したらしいから。しばらくは出ないでしょ」
 パティは楽観的に決め付ける。他の面々もそれぞれほっとした面持ちを見せたが、セリ
スはまだ安心しきれず、手を広げてその場の全員に呼びかけた。
「それはまだ分からないよ。今日は出来るだけ一人では帰らないで、何人かでまとまって
帰るようにしよう。女の子だけだと危ないから、男の子はちょっと遠回りになっても女の
子たちについていってあげてね」
 はーい、と、すぐに素直な返事が返ってくる。だが、その中で一人だけ、眉根を寄せて
いる少年がいる。ユリウスである。
「待て。その場合、お前はどうする?」
「僕?」
 セリスはきょとんとして自分を指差した。ユリウスが腕を組んで頷く。
「そうだ。お前の家の方向に帰る奴、お前一人だけだろ」
「ああ、そう言えばそうだね」
「どうするんだ」
「どうするんだ、って」
 ユリウスの言おうとしていることがよく分からず、セリスは首を傾げる。
「一人で帰るけど」
「それは危ないですわ、セリスさま」
「そうですよ」
 反論したのは、ユリウスではなく、ユリアとラナだった。二人は互いに牽制し合うよう
に視線を交わしながら、セリスのそばに寄ってくる。
「わたしがお供します」
「いえ、わたしが」
 二人は互いを押しのけるようにして詰め寄ってくる。セリスは慌てて両手の平を向けて、
二人を制した。
「待ってよ二人とも。僕についてきちゃったりしたら、二人ともずいぶん遠回りになっ
ちゃうよ」
「構いません」
「ご心配なく」
「ダメだよ。そんなことしたら、二人とも帰りは女の子だけになっちゃうし。危ないよ」
「いや、そいつらは一人でも大丈夫だろ」
 誰かがぼそっと呟く声を無視して、セリスは断固として首を振った。
「ダメダメ。ユリアはユリウスと、ラナはレスターと一緒に真っ直ぐ家に帰るんだ。僕の
ことは気にしないで」
「そんな」
「危険です、セリスさま」
 なおもしつこく食い下がる二人に、セリスはすっかり困ってしまった。何故二人がここ
まで自分を一人で帰したがらないのか、さっぱり分からない。
「あのね二人とも。危険って言ったって、僕は男だよ? 痴漢っていうのは女の子を狙う
ものなんだし、僕は一人でも狙われたりしないよ」
「いえ、そんなことはありません」
「そうです。セリスさまの場合は性別なんて関係なく、いつだって危険なんですから」
「ラナ、君が何を言ってるのか、僕には全く分からないよ」
「他の皆さんは分かっていらっしゃると思いますよ。ねえ、皆さん?」
 ユリアが同意を求めると、周囲の生徒達は皆顔を見交わしあい、曖昧な微笑を浮かべた。
「その通りだとは思うが、本人の手前同意する訳にも……」とでも言いたげな、困った顔
である。セリスは唇を尖らせる。
382 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:18:06 ID:xnFSmvBU
「もう。変だよ、みんな。僕をからかってるの?」
「いや、純粋に心配しているんじゃないかと」
「とにかく」
 セリスはユリウスの声を遮って、勉強道具などを入れ終わった鞄を持ち上げた。
「僕は、一人で帰るからね」

 そうやって意地を張ったまま、セリスは校門までやって来た。後ろには苦笑気味の生徒
会員たちと、オロオロした様子で必死にセリスを説得するユリアとラナがくっついている。
「セリスさま、お待ちください」
「そうです、やはり危険ですから」
「大丈夫だったら。君達こそ、僕についてきたりしないで、真っ直ぐ家に帰らなくちゃダ
メだよ」
 こんな問答が、既に十数回ほども繰り返されている。双方一歩も引かず、このままでは
誰も家路につけそうにない。
 ユリウスがセリスの肩を叩いたのは、そのときだった。
「おい、セリス。あれ、お前の兄さんじゃないか」
 言われてセリスが校門の方を見ると、確かに、何やら見覚えのある影が見えた。
「エフラム兄さん」
「ああ」
 門柱に寄りかかっていたエフラムが、ゆっくりと体を離す。セリスは兄に歩み寄った。
「どうしたの、兄さん。こんなところで」
「お前を待ってたんだ」
「え、僕を? どうして?」
 訊ねると、エフラムは一瞬迷うように視線を泳がせてから答えた。
「別に、理由なんかないさ。たまには弟と一緒に帰ろうと思っただけだ」
「一緒に帰ろうと思った、って」
 セリスは疑わしげに兄を見る。
「兄さんの学校、こことは僕らの家を挟んで反対側じゃない」
「細かいことは気にするな」
 強引にばっさりと会話を断ち切り、エフラムは踵を返す。
「さあ、家に帰るぞ」
 そう言いつつ、エフラムは先に立って歩き出す。セリスは慌てて兄の背中に呼びかけた。
「ちょっと、待ってよエフラム兄さん」
「どうした」
「まだ、みんなに帰りの挨拶をしてなくて」
「みんな?」
 エフラムは、セリスから視線を離して弟の後ろ見やった。そして、ついてきていたセリ
スの友人達に軽く会釈した。
「すまない、気がつかなかった。じゃあ、ここで待ってるから挨拶を済ませてくれ」
 エフラムは腕を組んでその場に立ち止まる。セリスは困惑しながらも振り返り、ユリア
たちに向き直った。兄の視線を背中に感じて、どうにも居心地が悪かった。
「ごめん、なんだかよく分からないけど、あそこのエフラム兄さんと一緒に帰ることに
なったみたいだから、僕はここで」
 軽く頭を下げつつ、セリスはユリアとラナに念を押しておくことにした。
「いいかい二人とも、ちゃんと、ユリウスやレスターと一緒に帰らないとダメだからね。
絶対だよ」
 セリスとしては、これでも二人がしつこく食い下がってくるようなら、彼女らの兄たち
に担いででも帰ってもらおう、などと考えていたのだが。
「はい、分かりました」
「それではセリスさま、また明日お会いしましょう」
 ユリアとラナは、揃って淑やかに頭を下げる。先程まで必死でセリスについていくと主
張していたのが嘘のようである。予期せぬ事態に、セリスは数秒、その場で立ち尽くして
しまう。
「あら、どうなさいましたセリスさま」
「何か、お忘れになった物でも」
「いや、そういうのじゃなくて」
 セリスは必死に頭を整理しながら、首を傾げた。
「君達、さっきまであんなに僕についてくるって言ってたのに」
「ああ、そのことでしたら」
「エフラムさまがご一緒でしたら、きっと安心でしょうし」
383 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:18:33 ID:xnFSmvBU
 二人は揃ってにっこりと微笑む。先程までの焦った表情とは打って変わって、安心し
きった笑顔である。
(僕一人だと心配なのに、エフラム兄さんが一緒なら安心ってこと?)
 要するに、そういうことなのだろう。セリスはちらりと後ろを振り返る。エフラムは微
動だにせず立ったまま、こちらをじっと見つめて待っている。
「分かった。それじゃ、また明日ね」
 釈然としないものを感じはしたものの、表情に出ないよう努力して、セリスは笑顔でユ
リアとラナに別れを告げた。
「挨拶は終わったか、セリス」
 エフラムが声をかけてくる。いつもならば「うん。待たせてごめんね」などと答えると
ころだ。だが、今のセリスはどうも面白くないものを感じていたので、ただ小さく頷き返
すのが精一杯だった。そんな微妙な変化に、エフラムもすぐに気がついたらしい。セリス
の歩幅に合わせて歩きながら、困ったように訊いてくる。
「どうした。何故、そんな風に不機嫌そうな顔をしているんだ」
「別に、何でもないよ」
「だが、その顔は明らかに」
「何でもないったら」
 そんな問答を繰り返しつつ、二人は家路を辿る。
 結局、家に帰り着くまで、おかしな事態は特に何も起こらなかった。

 その日、エフラムと共に帰宅したセリスは、何となく不機嫌に見えた。最初は気のせい
かとも思ったのだが、そうではなかったらしい。
 ヘクトルが自分の推測に確信を抱いたのは、セリスが木剣を持って自分の前に立ったと
きである。
「ヘクトル兄さん。ご飯の前に、ちょっと訓練に付き合ってくれないかな」
 セリスの唇は真一文字に引き結ばれている。こいつは間違いなく様子がおかしいぞ、と
思いながらも、ヘクトルはにやりと笑って頷いた。
「ずいぶん元気がいいじゃねえか。よし、庭に出て待ってろ。俺も部屋から訓練用の斧
持ってくっからよ」
 二階の自分の部屋から刃を潰した斧を持って戻ってくると、セリスは既に木剣を構えて
待っていた。隣には、審判役のリーフも困惑顔で立っている。
(やる気満々だな、オイ)
 内心危ういものを感じつつも、ヘクトルはセリスの前に立つ。
「ルールはいつも通りだけど……なんか、ずいぶん急だね今回の手合わせは」
 ライブの杖を握りながら、リーフが困ったようにヘクトルとセリスの顔を見比べる。
「まあいいか。それじゃ、始め!」
 リーフがライブの杖を地面に突き立てるのと同時に、ヘクトルとセリスは動き出した。
 いつごろからかは忘れてしまったが、兄弟家では日常的にこうした訓練というか、手合
わせが行われている。ルールは極めて単純で、「こりゃ実戦なら死んでるだろ」と、審判
が判断したところで終わり、である。得物はそれぞれの得意武器を用いるが、もちろん本
物ではない。木剣やら刃を潰した斧やらである。もう一つ重要なルールは、治療の杖が使
える者が、必ず一人審判役としてつかねばならない、というもの。
「そうでなくては危険だからな」
 とは長兄シグルドの弁だが、安全を考えるなら、そもそもこんな危険なことをするべき
ではない。それでもこういった手合わせが日常的に行われている背景には、様々な理由がある。
 それは、今でも十分人外なのにさらに上を目指そうとする次男の向上心だったり、弟達
を健全な肉体を持つ男に育てようという次女の欲望だったり、少しでも余分な肉を落とそ
うとする四女の涙ぐましい努力だったりする。
 だが、そういった諸々以上に重要で、単純な理由もある。
「強くなりたい」
 それは、兄弟全員……特に男性陣に共通した願いだった。その願いの源はそれぞれ微妙
に違っているが。とにかく、そんな訳だから、ヘクトルがセリスと手合わせをするのは、
これが初めてのことではない。
 しかし、セリスの鋭い斬撃を寸でのところで避けるたび、ヘクトルは内心口笛を吹かず
にはいられないのだった。
(今日は、ずいぶん気合が入ってるじゃねえか)
 根が真面目なセリスだから、手合わせのときに真剣な表情になるのは当たり前のことだ。
だが、今日はいつも以上に、剣に気迫が篭っているように思える。手数が多いし、積極的
に前に出て、相手を倒そうとする動きも多い。
384 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:19:13 ID:xnFSmvBU
(やっぱ、怒ってやがるな。これは)
 弟の感情について確信を深めつつ、ヘクトルは唇の端を吊り上げる。
(それにしても、なかなか強くなってるみてえじゃねえか)
 剣の才に関してだけ言えば、セリスはなかなか光るものを持っている、とヘクトルは
思っている。
 まだまだ成長途上だから、今は上の兄弟達にはなかなか勝てないでいるが、将来はかな
りの使い手になるだろう。
 実際、今こうして戦っていても、一年前や半年前と比較して、確かな成長を感じるのだ。
(だが、まだ足りねえな)
 セリスが大きく前に踏み込み、鋭い突きを放つ。それを予期していたヘクトルはあっさ
りと避け、慌てて腕を引き戻そうとするセリスに斧を叩きつけた。セリスの小柄な体が
吹っ飛ばされて地面を転がる。
「そこまで!」
 ライブの杖を地面から引き抜いたリーフが、慌ててセリスのところに向かう。ヘクトル
は斧を地面に立てると、
長く息を吐いた。
「惜しかった、と言いてえとこだが、まだまだだな」
「相変わらず容赦ないねヘクトル兄さんは。せめて寸止めしようとする意思ぐらいは持とうよ」
 セリスにライブの杖を向けながら、窘めるように言うリーフを、ヘクトルは鼻で笑った。
「死にはしねえよ。大体な、俺が寸止めしようとすると、どうやったって手加減が過剰に
なるんだぜ。んなことしたらリン辺りはかえって怒り出すっての」
「そりゃそうかもしれないけどさ」
「僕は大丈夫だよ、リーフ」
 小さく咳をしながら、セリスが上半身を起こす。そして、「あーあ」と肩を落とした。
「やっぱり、まだまだ敵わないか」
「そりゃそうだろ。今のお前に負けてたら、自信なくすぜ俺は」
「……そんなに弱いかな、僕」
 気落ちしたように俯きながら、セリスが呟く。ヘクトルは片眉を上げた。
「どうしたお前、ずいぶん自信なくしてるみてえじゃねえか。なんかあったのかよ」
「うん。実はさ」
 セリスが説明を始めようかというとき、家の縁側から声がかかった。
「ごめんなさい。誰か、お使いに行ってくれないかしら」
 見ると、エプロンをつけたエリンシアが、口に手を添えてこちらに呼びかけてきている。
「調味料を少し、切らしてしまって」
 こういうことを言われると、まず真っ先に「面倒くせえな」と思うのがヘクトルである。
リーフもお駄賃がなければまず食指を動かさない。
 そういう訳だから、返事をしたのはセリスだった。
「僕が行くよ、エリンシア姉さん」
「まあ、セリスちゃんが」
 エリンシアが、若干不安げに顔を曇らせる。
「でも、もうお外も暗くなってきているし。危ないわ」
 心配するエリンシアに、セリスは不満げに眉根を寄せる。
「大丈夫だよ。僕だって、小さな子供じゃないんだから」
 セリスの主張に、エリンシアはまだ少し躊躇う様子だった。が、やがて小さく頷いて、
セリスにメモと買い物籠を手渡した。
「それじゃ、お願いねセリスちゃん。くれぐれも、人のいないところには行かないように」
「大丈夫だったら。もう、みんなして心配しすぎだよ」
 少々うんざりしたような口調で呟きながら、セリスは庭を横切って歩道に出て行く。そ
の歩調も、やはりセリスらしくなく荒々しい。
「何があったんだかな」
 呟くヘクトルの耳に、誰かが慌しく階段を駆け下りる音が聞こえてきた。

「重いだろう。俺が持ってやる」
「だから、このぐらいは平気だってば」
 スーパーからの帰り道、何度もしつこく繰り返される問答に、さすがのセリスもうんざ
りし始めていた。
「無理はしなくてもいいんだぞ。そもそもこういう力仕事は、俺やヘクトルの役割なんだ
からな」
 あれこれと理屈をつけてセリスから買い物籠を奪おうとしているのは、言うまでもなく
エフラムである。
385 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:19:38 ID:xnFSmvBU
 エフラムはセリスが家を出て数分もしない内に追いかけてきて、「俺も一緒に行く」と
買い物についてきたのだ。
 それ自体は特に問題ない。が、エフラムがやたらと警戒するように周囲に視線を走らせ
ていたり、今もこうして自分から買い物籠を奪いたがったりしていると、さすがに多少気
にもなる。
(エフラム兄さんは、僕をお姫様か何かと勘違いしてるのかな)
 あまりのしつこさに、そんなことも考えてしまう。
 エフラムがセリスのことをこんな風にやたらと大事に扱うのは、これが初めてのことで
はない。
 どこかへ出かけようとすればやたらと心配して行先を聞いてくるし、町で変な事件が起
きるたび、外出するのを禁じようとしたりもする。
 エリンシアやミカヤ辺りもそういう傾向があるが、エフラムは姉たち以上にしつこい。
 それだけならまだいいのだが、どうしても納得できないことがある。それは、エフラム
のそういった過保護が、ほぼ自分だけに向けられているという点である。
 たとえばロイに対して、エフラムが「危ないから外に出るな」だのと言っているのは見
たことがない。
 そういった扱いについて、セリスは少し前までは特に気にしていなかった。
 兄が弟を心配するのは当たり前のことだと思っていたし、その気持ち自体は基本的に嬉
しかったからだ。
 だが、中学に入り成長期を迎え、生徒会長に選ばれたりと様々な出来事を経るに従って、
セリスの内面も変化しつつある。
 シグルドやアイクなど、それぞれのやり方で立派に家族を守っている兄達の背中を見て
育ったのも、大きく影響しているのだろう。
 「みんなを守るために強くなりたい」という思いが胸の中に芽生え、時を経るごとに大
きくなりつつある。
 そんな風に考えるようになって以降、家族の自分に対する扱い、特にエフラムの過保護
が少しずつ気になり始めた。
(僕はもう、エフラム兄さんに守ってもらわなくても大丈夫だよ)
 セリスの偽らざる本心である。それを口に出して言ったことは、今まで一度もなかったが。
「だからセリス、その買い物籠を俺に渡してだな」
「あのね兄さん、そもそもこれしょうゆのボトルが入ってるだけで、あとはほとんど重い
ものなんかないんだから」
「しかし……ん?」
 不意に、エフラムが眉をひそめた。あらぬ方を見て耳を澄まし、鋭く視線を細める。
「今、なにか女性の悲鳴が聞こえたような」
「本当? もしかして、例の痴漢じゃ……」
「分からんが、見過ごすわけにはいかないだろう」
「そうだね。今すぐ助けに……」
 駆け出そうとしたセリスを、エフラムは「待て」と手で制した。
「危険だ。お前はここで待っていろ」
「そんな。僕だって」
「いいから。俺一人で十分だ。お前が危険を冒す必要はない。いいか、絶対にここから動
くんじゃないぞ。十分もすれば戻る」
 一方的に言い置いて、エフラムは槍を片手に駆け出していく。セリスは買い物籠を片手
に、去り行く兄の姿を見守ることしか出来ない。
「僕だって、戦えるのに」
 不満と共に呟き、腰にぶら下げた剣を撫でる。
 そのとき、セリスの耳にかすかな悲鳴が聞こえてきた。
(さっきの人?)
 だが、悲鳴が聞こえてきたのは、先ほどエフラムが向かったのとは間逆の方向のようだった。
 セリスは少し迷ったあと、そちらに向かって駆け出した。
(僕だって戦えるんだ。困ってる人がいるのなら、兄さんたちみたいに助けてあげなくちゃ)
 自然と足が速まった。

 段々と近づいてくる悲鳴を頼りに、路地裏を駆け抜ける。人通りのあまりない、寂しい
道である。近くにはいくつか民家があるが、外の様子を窺おうと窓から顔を覗かせている
人影は見当たらない。巻き添えになるのを恐れているのだろう。
 甲高い悲鳴が響く以外、しんと静まり返っている道を、セリスは足早に駆け抜ける。そ
していくつか角を曲がったとき、道の向こうに二つの背中が見えた。
386 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:20:05 ID:xnFSmvBU
「誰か、誰か、助けてください!」
「ふふふ……叫んだって誰も来ぬわ。お前の黒髪はワシのものよ」
「イヤーッ! 助けてーっ!」
 黒衣に身を包んだ男が、小柄な少女にじりじりと迫っている。明らかに悲鳴を上げさせ
て楽しんでいるその様子に、セリスは激しい怒りを覚えた。買い物籠を道に置きつつ、剣
を抜いて二人に駆け寄る。
「そこまでだ!」
「ん?」
「あ、セリスさま!」
 二人が同時に振り向き、男は困惑したように眉をひそめ、少女の方は希望に顔を輝かせ
た。こちらに逃げてくる少女の顔には、見覚えがある。生徒会の一員でもあり、同級生の
ラナに仕えている使用人でもある少女、マナだった。
「あれ、マナじゃないか。どうしてこんなところに」
「ええと、ラナさまのお使いで少しこちらに用事があって……でも、刻限が迫っていたの
で近道しようとしたら、あの人が……」
 セリスの影に隠れながら、マナが小さく身を震わせる。よほど怖い思いをしたのだろう、
黒い瞳には涙が滲んでいた。セリスは剣を握る手に力を込め、目の前に立つ黒衣の男を出
来る限り強く睨みつける。男はその視線を余裕で受け止めつつも、低く唸った。
「ううむ、美しい黒髪の娘がいたので、これは黒髪フェチとして放ってはおけんと追い掛
け回してみたが」
 驚嘆の吐息が漏れる。
「まさか、その餌にかかってこれほどの美少女が現れるとはな! 黒髪でないのは残念だ
が、お前もワシのコレクションに加えてやろう、グフフフフ……」
 男の髭面に浮かんだいやらしい笑みに、セリスの背中が粟立った。これほどまでにおぞ
ましい笑みを浮かべる男がいようとは。剣を握る手に汗が滲むのが分かる。
「セリスさま……」
「大丈夫だよ、マナ。僕のそばから離れないで」
 不安げなマナに、出来る限り落ち着いた声でそう言ってやる。そんなセリスの姿を見て、
黒衣の男の笑みがさらに深くなった。
「ほう、お前は僕っ娘か! この界隈ではなかなか珍しい属性だな、うん」
 訳の分からないことを言ってしきりに頷きながら、男が剣を引き抜いた。禍々しい黒い
剣身が、夕陽を照り返して不気味に輝いた。
「グフフフ、怖かろう。このロプトの剣を前にしては、どのような剣士であろうとワシの
身に傷一つ負わせること適わん。大人しくワシのコレクションに加わるのなら、怪我をせ
ずにすぬのだぞ」
 男がゆらりと近づいてくる。その不気味でおぞましい迫力に、セリスは若干気圧されつ
つあった。
(心を強く持つんだ。僕だってシグルド兄さんやアイク兄さんの弟、こんな奴なんかに負
けるもんか)
「さあ美少女たちよ、このワシ、テロ集団ベルクローゼン三幹部の一人、レイドリックの
コレクションにして……」
「そこまでだ」
 怒りを孕んだ声が、静かに響き渡る。はっとして振り返ると、槍を片手に下げた人影が、
ゆっくりとこちらに歩いてくるところだった。レイドリックと名乗った黒衣の男も、「き、
貴様は……!」と何やら焦ったように一歩下がる。
「またお前か、変態男爵め。最近学院に現れないと思ったら、こんなところで痴漢行為を
働いているとはな……昨日黒焦げにされたらしいというのに、まだ懲りていないらしい」
 淡々と侮蔑の言葉を吐き出しながら、エフラムがセリスとマナを庇うように前に出て、
槍の穂先をレイドリックに向けた。
「さあ、どうする。俺の実力は多少なりとも知っているはずだ。串刺しになりたくなけれ
ば、大人しく退散した方が懸命だと思うがな」
 自信に満ちた揺るぎない言葉である。レイドリックの方も明らかに怯んだようで、歯噛
みしながらじりじりと後ろに下がる。だが、ふと思い出したように、その顔に余裕の笑み
が広がった。
「グフフ、馬鹿な奴め! ワシが昨日までのワシだと思うたか」
「ほう。何か違いがあると?」
「これを見よ!」
 レイドリックが、己の体を覆っていた黒いマントをバッと跳ね上げる。何か嫌なものを
想像してしまったのか、セリスの後ろでマナが「キャッ」と短い悲鳴を上げながら、両手
で顔を覆い隠す。
387 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:20:33 ID:xnFSmvBU
 だが、黒いマントの下にあったのはレイドリックの汚い裸などではなく、不気味に輝く
漆黒の鎧であった。どこか、見覚えのある鎧だった。
「どうだ、あの漆黒の騎士が愛用している女神の鎧を模して、我がテロ集団ベルクローゼ
ンの天才科学者、アーヴ殿が作り上げたレプリカよ! さすがに本物ほどではないにせよ、
貴様の槍では傷一つつかぬほどの強度を」
「そうか、それはよかったな」
 長口上を遮って、エフラムが一歩前へ出た。凄まじい神速で槍が突き出され、レイド
リックが得意げな顔のまま大きく吹き飛ばされて塀にめり込む。
「で、制作費いくらだ」
 ぱらぱらと砕けたコンクリートの欠片が落ちてくる中、得意げな顔のまま固まっている
レイドリックを見て、エフラムが淡々と呟いた。
「どれだけ鎧が立派だろうが、中身が鍛えられていないんだ。当然の結果だ。まあもっと
も、その鎧自体大したことはなかったようだが」
 エフラムの言葉どおり、レイドリックが自慢していた鎧は、槍に突かれた部分から放射
状にひび割れが広がっていた。もちろん、誰がやってもそんな風になるというわけではあ
るまい。
(僕が戦っていたとしたら、あんな風に一瞬で片をつけることができただろうか)
 息を飲むセリスの前で、レイドリックが呻きながら起き上がった。
「ええい、またしても邪魔を……! あの仮面の騎士同様、忌々しい男だ! 覚えておれ、
テロ集団ベルクローゼンを敵に回したこと、必ず後悔させてやるぞ!」
 捨て台詞を残して、レイドリックの姿がかき消える。
「リターンリングか」
 エフラムが一つ舌打ちをして、こちらを振り返った。
「二人とも、怪我はないか」
 油断なく周囲に目を配りながら、エフラムがこちらに向かって歩いてくる。マナがセリ
スの背中から飛び出して、勢いよく頭を下げた。
「危ないところを助けていただいて、ありがとうございました」
「いや、気にしなくていい。だが、今後はこういう場所には一人で来ない方がいいな」
「はい、本当に……まさか、あんな人に襲われるだなんて……紋章町も物騒になりましたね」
 いつものように穏やかな口調で話すマナを見て、セリスはほっとするのと同時に複雑な
思いを抱いていた。彼女の目に、今日の自分はどんな風に映っていただろう。
 そんなことを考えていると、彼女がぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた。
「セリスさまも、ありがとうございました。あのとき来て下さらなかったら、わたし、今
頃どうなっていたか」
「うん、怪我がなくてよかったよ。まあ、あの人を倒したのはエフラム兄さんだけど」
「はい。セリスさまのお兄様、とってもお強い方なんですね」
 そしてマナは、邪気のない笑みを浮かべてこう付け加えた。
「こんな方が守ってくださるんですもの、セリスさまも安心ですね」
 笑顔を作ることすら出来ずに硬直するセリスの前で、マナはちょこんと頭を下げると、
「それでは失礼いたします」と言い残して、足早にその場を去っていった。
「さて、俺たちも帰ろうか」
 マナを見送ったあと、エフラムが近づいてきた。セリスは無言で買い物籠を拾い上げる
と、振り返って言った。
「兄さん、家に帰ったあと、ちょっと付き合ってもらえないかな」

 そうして数十分ほど経ったあと、エフラムはセリスと庭で対峙していた。周囲はかなり
暗くなっており、肌寒い風が容赦なく吹き付けてくる。そんな中、セリスは少し距離を置
いて、剣を片手に立っている。顔には厳しい表情が浮かんでいた。
「セリス……考え直してくれないか」
 エフラムは困惑しながらいった。
「何をそんなに怒っているのか知らんが、兄弟で争うことに何の意味が」
「それがおかしいんだよ!」
 セリスが顔を赤くして怒鳴った。エフラムは首を傾げる。
「おかしいって、なにが?」
「エフラム兄さん、ヘクトル兄さんやアイク兄さん相手にするときはそんなこと言わない
じゃない!?」
「そりゃそうだろう、アイク兄上やヘクトル相手にそんなことを言っても気持ち悪いだけだ」
「僕ならいいって言うの?」
「もちろんだ。お前相手に戦ってもあまり意味がない。だから剣を収めてくれないか。怪
我をさせたくはない」
388 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:21:03 ID:xnFSmvBU
 誠意を込めて言ったのだが、セリスはさらに怒りを募らせたようだった。こめかみに青
筋が立っているのが見えるような気すらする。
「そう。兄さんはそこまで僕のことを見くびっているんだね」
「見くびる? なんのことだ? 俺はただ」
「いいから、黙って僕と戦ってよ! 兄さんの認識が間違ってるってこと、証明してみせ
るからね!」
 セリスが剣を構える。エフラムは慌てて手を突き出した。
「待てセリス、落ち着いて俺の話を聞け」
「兄さんこそ、早く武器を構えてよ。訓練なんて、いつもやってることじゃない」
「それはそうだが……そうだ、訓練には回復役が必要だぞ」
 苦し紛れにそう言ったとき、縁側の方から声がかかった。
「なら、俺がやってやるよ」
 聞き慣れた声に、エフラムは頬を引きつらせる。縁側の方から、にやにや笑いを浮かべ
たヘクトルが、小瓶を片手に歩いてきた。
「ライブは使えねーが、特効薬があれば十分だろ。存分にやれ、二人とも」
「ヘクトル……お前という奴は!」
「ありがとう、ヘクトル兄さん! さあ、早く始めようよ、エフラム兄さん!」
 必要以上に戦意を滾らせているセリスを見て、エフラムは溜息をついた。
(仕方がないか。なんとか、あまり痛くない程度に打撃を与えて、さっさと終わらせるこ
とにしよう)
 エフラムとしてはあまりやる気がなかったが、その態度はすぐに改まることになった。
「始め!」
 鋭い声でヘクトルが宣言するのと同時に、セリスが予想以上に鋭く踏み込んできた。
(これは……!)
 次々に繰り出される斬撃を寸でのところで避けながら、エフラムは全身が緊張するのを
感じ取った。牽制の意図を込めて数度槍を突き出すが、セリスはそのことごとくを避け、
的確に突きを返し、隙あらば鋭く打ち込んできた。内心舌を巻くほどの華麗な剣技だった。
(アイク兄上ほど力強くはないし、シグルド兄上ほど技が優れているわけではない……だ
が、少しでも油断すれば取られる……!)
 セリスの攻撃を一撃受け止めるたび、エフラムの中でこの華奢な弟に対する認識が少し
ずつ改まっていった。確かに、思っていたよりはずっと強い。そもそも、本来不利なはず
の槍相手にここまで健闘している時点で、その力量の高さが窺えるというものだ。
(だが、まだ甘い)
 密度の高い攻防の最中、エフラムは不意に大きく空振りし、わざと隙を作った。機を逃
さず、セリスが全力で打ち込んでくる。紙一重で避けながら、エフラムは素早く引き戻し
た槍の石突きを勢いよく打ち出す。その一撃は狙い過たずセリスの腹部を捕え、華奢な体
を大きく吹き飛ばした。
「それまで!」
 片手を上げたヘクトルが、素早くセリスに駆け寄る。彼の状態を確認して、肩をすくめた。
「気を失ってるぜ。容赦ねえな、お前」
「馬鹿言え、そんな余裕がなかっただけだ」
 エフラムは頬を手の甲で拭った。全身汗まみれになっている。
(まだまだだな、俺も)
 ヘクトルがセリスを縁側に運ぶのを眺めながら、立てた槍に身を預けて深く息をつく。
「っつーか、お前よー」
 戻ってきたヘクトルが、皮肉っぽい口調で声をかけてきた。
「なんでセリスが怒ってたのか、全然分かってねえだろ」
「お前は分かるのか」
 息を整えながら問うと、ヘクトルはやれやれと言わんばかりに深く息をついた。
「あのな、あいつだって男なんだぜ? だってのにか弱い女みたいに扱われたら、そりゃ
ムカツクだろうよ。それともお前、まさか本気でセリスが妹だと勘違いしてんじゃねえだ
ろうな?」
「似たようなものだ」
「なに?」
 目を見張るヘクトルに、エフラムは淡々と告げた。
389 名前: 我が家のバカ兄貴 [sage] 投稿日: 2008/03/23(日) 14:21:27 ID:xnFSmvBU
「別に、女性が戦うのを否定するわけじゃないが、同様に男ならばみな戦わなければなら
ない、というわけでもないだろう。たびたび騒ぎが起こっても、基本的に平和なこの町な
らば尚更な。誰にだって向き不向きがあるんだ。戦うのは俺やお前に任せて、あいつはそ
んなことなど考えずに平和に過ごしてほしい。人望も厚いし、家庭的なことでも優れた才
能を発揮しているようだしな。なにより、不必要な力を持つことで、余計な争いに巻き込
まれる可能性だってあるんだ。優しいセリスがそのせいで心を痛めるところなど、俺は見
たくない」
「なるほどね。まあお前の理屈も分かんねーとは言わねーけどよ、だからって強くなりた
いっていうセリスの気持ちまで否定するこたねーだろ。あいつだって男で、その上アイク
兄貴やら俺やらお前やらの背中を見て育ったんだぜ。男は強くならなきゃいけない、弱い
者を守らなければならない、って考えるのは当然だろ。それに、たとえばあいつ一人で弱
い連中を守ってやらなきゃいけない場面に立たされたとき、力を持ってることは悪いこと
じゃねえだろうしな」
「あいつをそういう場面に立たせないようにするのが俺たちの役目じゃないのか」
「限界ってもんがあるだろ」
「いや、ことこの問題に関して、俺は遠慮するつもりは一切ない。あいつだけでなく、エ
イリークやセリカ、リンに関してもだ。戦いは俺たちの役目だ。あいつらには絶対にやらせん」
「ケッ、過保護なバカ兄貴だぜ。そんなだからシスコンのロリコンって言われるんだぜテメエは」
「兄としては当然の義務だ……というかシスコンはともかくロリコンとはなんだ。関係な
いだろうが」
「お前の態度はちっちゃい子供に対するのと大して変わりねーっつってんだよ。ちっとは
あいつらを信用してやれ、いつまでも弱い子供みたいに扱うんじゃねえよ」
「フン、お前こそずいぶん無責任なんじゃないのか? 仮にそういう考えで半端に鍛錬を
積ませた結果、あいつらが中途半端な実力を頼みに敵に立ち向かっていって、大怪我でも
したらどうするんだ? とても兄の言うことだとは思えないな」
「じゃあ、あいつらをいつまでも守られる立場に甘んじさせろっつーのか? 最近さらに
物騒になってきた、混乱が絶えないこの町で?」
「ああそうだ。あいつらにはそういう生き方の方が似合ってる。戦いなんてしなくてもいい」
「押し付けがましいバカ兄貴め」
「思慮の足りない猪デブが」
「なんだとテメエ!?」
「やるか!?」
 二人は同時に武器を取り、審判役もいないというのに激しい戦いを繰り広げ始めた。

 その戦いを遠くから眺めながら、縁側に腰掛けたセリスは溜息をついた。
「やっぱり、まだまだ兄さんたちには遠く及ばない、か」
 自分の手の平をじっと見つめる。
「強くなりたいな。エフラム兄さんに子ども扱いされないぐらいに」
 ぎゅっと拳を握り締める。
「そうだ、やっぱり強くなろう。本当にみんなを守れるぐらいに強くなって、いつかエフ
ラム兄さんにも僕のことを認めてもらうんだ、うん」
 深く頷き、セリスは一人闘志を燃やす。

 守るべき弟が、半ば自分のせいでますます強くなるという決意を固めつつあることに、
どこぞのバカ兄貴は少しも気がつかないままなのであった。