より詳しく猿島を知りたい方へ。
猿島の特徴
横須賀沖1.7kmに位置する、東京湾唯一の自然島。
面積は約55,500㎡で、横浜スタジアムの約4倍ほどである。
かつては軍の要塞として使われ、現在でもその跡を見ることができる。
猿島の歴史
縄文時代~弥生時代
5000年前の縄文時代~弥生時代にかけて、猿島で人が生活していたことが分かっている。
古墳時代~江戸時代
猿島は江戸時代の後期に至るまで「人が住んではいけない、神の宿る島」であった。
何の神様が祀られていたかは不明だが、「豊島大明神」「地主神」「春日大明神」などの説がある。
江戸時代 後期
弘化3年(1846年)
ビットル提督率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀に来航。
ビットル提督の来航騒ぎの中、当時の大津陣屋は急遽猿島に大砲を配備した。
旗艦コロンバス号の大砲92門、ビンセント号の大砲18門は当時江戸湾各地に配備していた合計73門の大砲を上回っており、日本は海防強化を進めることとなる。
異国船が観音崎と富津を結ぶ打ち沈めの線を越えた場合、猿島が攻撃を加えるのに適切と考えられ、台場として整備されることとなった。
弘化4年(1847年)
猿島の卯の崎*1に3門の大砲が作られている、という記録が残っている。
卯の崎からの景色。左の写真の左奥に小さく見える島が第二海堡。右側の写真に見えているのは観音崎。
慶応3年(1868年)
明治維新後、新政府樹立と共に江戸時代での防備は終了した。
明治時代
明治10年(1877年)
9月1日に横須賀湾内に海軍港を指定するに当たり、猿島は海軍省の所轄となった。
明治14年(1881年)
切通し(塁道)が作られる。
切通しの中の設備は明治の中でも様々な年代に分かれ、レンガの焼かれた時代や積み方が異なっている。
左の写真のようにレンガの長い方と短い方を交互に並べて積む方式が「フランス積み」、右の写真のように長い方のみの段と短い方のみの段で積む方式が「イギリス積み」となる。
初期の建造物にはフランス積みが使われ、明治20年頃からイギリス積みが主流になった。
明治17年(1884年)
陸軍省が猿島に砲台を築くに当たり、陸軍省の所轄下となった。
8月にフランス製のカノン砲台が3つ配備された*2。
この年、猿島にあった春日神社を横須賀の三春町に移転した。
明治25年(1892年)
中央部の第二砲台に24cmカノン砲が4基据えられた。
明治26年(1893年)
北側の第一砲台に27cmカノン砲が2基据えられた。
大正時代
大正12年(1923年)
関東大震災により、猿島砲台が被害を受ける。
大正14年(1925年)
関東大震災の被害と時代の趨勢により砲台の必要性が低下したため除籍。
猿島は再び海軍省の所轄となった*3。
昭和時代
昭和16年(1941年)
このころより、鉄筋コンクリート製の砲座が5座*4作られ、高射砲が配備された。
写真はこの時作られた砲座の一つ。かつて8cm単装高角砲が備え付けられていた。
昭和19年(1944年)
12.7cm高角砲が配備される。
配備の理由は当時における最大の敵標的「B29」の飛行高度に8cm単装高角砲だと届かないため。
昭和20年(1945年)
太平洋戦争の終戦にあたり、連合国軍の手によって猿島の施設は破壊された。
その後大蔵省管財局の所轄となる。
昭和22年(1947年)
進駐軍により、猿島への上陸許可が出た。
平成時代
平成19年(2007年)
国より横須賀市へ譲渡された。
その他
名前の由来
猿島は元は「豊島(としま)」と呼ばれていた。
横須賀市が市政を施く前にあった「豊島町(としままち)」がその由来であると言われる。
かつて猿島の周りには十個の浅瀬や岩礁があったことから十の島で「十島(としま)」と呼ばれ、験を担いで「豊島(としま)」とした説もある。
豊島は信仰伝承により以前から「さるしま」と呼ばれていたが、その理由は諸説ある。
最も有力なのは日蓮上人が鎌倉へ向かう途中にこの島に漂着し、その際に一匹の白猿が島の奥へ案内した、というものである。
ラピュタの世界
猿島はその雰囲気からスタジオジブリの作品「天空の城ラピュタ」のラピュタに来たようだと言われることもある。
参考文献
- ここはヨコスカ:猿島公園
- 横須賀市史No.7 猿島 編:横須賀郷土文化研究室
- 三浦半島 その風土と歴史を訪ねて 文:辻井善弥、絵:北原礼子
- 猿島遺跡群 編:横須賀市緑政部、横須賀市教育委員会
- 神奈川県の戦争遺跡 編:神奈川県歴史教育者協議会
- 三浦半島の史跡みち 著:鈴木かほる
- 新横須賀市史 別編 軍事 編:横須賀市
- 新横須賀市史 別編 文化遺産 編:横須賀市
- 写真が語る横須賀・三浦の100年 監修:辻井善彌