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Last-modified: 2020-12-27 (日) 11:03:21

より詳しく衣笠山公園を知りたい方へ。

衣笠山公園の特徴

「さくらの名所100選」に名を連ねている県内屈指の桜の名所。
約2000本の桜は元々日露戦争で戦死した三浦半島出身者を慰霊するために植えられたもの。
衣笠山がちょうど三浦半島の中心にあることから、横須賀市と三浦郡が当時の衣笠村に話を通して作られた。
かつては慰霊塔もあったが、第二次世界大戦終戦後に取り払われており、今では見ることができない。

桜が咲かない季節であってもウォーキングやストレッチをする人が訪れている。

山の容姿が馬の背に鞍を置いた形に似ているところから正しくは「鞍掛山(くらかけやま)」と呼ぶが、
広く「衣笠山」の名称で親しまれている。

衣笠山公園の歴史

明治時代

明治40年(1907年)

4月18日に開園。当時の名前は「衣笠公園」だった。
開園と同時に慰霊塔の除幕式も行われている。

この慰霊塔に至る公園の通路は二百三高地を模して造られたとされる。
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大正時代

大正3年(1914年)

9月に従五位小川君碑が建立された。
小川茂周は初代三浦郡長であり、教育問題に熱心に取り組んだ。
また、横浜・東京への旅客の玄関口を確保するため、白浜の埋め立てを主唱し、現在の小川町となった。
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大正8年(1919年)

4月18日に慰霊塔前で三浦半島出身戦没者招魂祭が行われた。

大正11年(1922年)

8月に東京湾の海堡建設に尽力した功労者として西田明則君之碑が公園に建立された。
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昭和時代

昭和11年(1936年)

9月23日。忠犬タマ公の碑が衣笠公園*1裏道入口付近に建立された。
石碑の文字は小泉又次郎の筆によるもの。
タマは2回の雪崩から主人を救った新潟県の犬で、話に感動した横須賀在住で新潟出身の海軍関係者が碑を建てたとのこと。

昭和23年(1948年)

10月ごろに慰霊塔が撤去された。

昭和25年(1950年)

2月10日。慰霊塔撤去跡に観桜台を建設することになり、起工式が行われた。

2月12日。神奈川新聞に観桜台建設の記事と設計図が掲載される。
花見の季節までには完成すると記載がある。

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実際に神奈川新聞に載った設計図

昭和34年(1959年)

3月27日。慰霊塔跡に平和観音像を安置した展望台の落成式が行われた。
(上記観桜台が取り払われたのか、完成にまで至らなかったかは不明)
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4月1日。公園の呼称が「衣笠公園」から「衣笠山公園」に変更。

昭和58年(1983年)

9月11日。衣笠山公園裏道入口から今の下の広場に忠犬タマ公の碑が転移され、除幕式が行われた。
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平成時代

平成2年(1990年)

3月1日。衣笠山公園が「日本さくら名所100選」に選出。

9月9日。松尾芭蕉の句碑が完成。

平成6年(1994年)

4月29日。ふるさとの森整備事業の一環として「わんぱくの森」と「わんぱく広場」が完成

平成29年(2017年)

3月23日。忠犬タマ公の碑の近くに忠犬タマ公の像が建立される。
石碑の文字は小泉進次郎の筆によるもの。
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その他

慰霊塔

現在の平和観音像の場所にあったとされる。現在は台座だけしか存在しない。
長浦兵器廠の鋳造によって、長さ30尺の大砲に形どられていたという。
砲身には「芳名不朽」と文字が書かれ、これは当時の海軍中将上村彦之亟(ひこのじょう)によるものだという。

参考文献



*1 現在の衣笠山公園