より詳しく記念艦三笠を知りたい方へ。
記念艦三笠の特徴
世界三大記念艦の一つ*1。
日露戦争で日本海海戦にて旗艦をつとめ、東郷平八郎司令長官と共に日本を勝利に導いた。
一時荒廃していたが、三笠保存会の手により修復が進んでいる。
現在艦内は当時の戦艦の姿を伝える博物館となっている。
記念艦三笠の歴史
明治時代
明治31年(1898年)
9月26日に英国ヴィッカーズ社へ第四号甲鉄艦(三笠)を発注。
船体88万ポンド、武器32万ポンド、計120万ポンド。当時の日本円で約1,200万円、国家予算の4%。
明治32年(1899年)
1月23日に第四号甲鉄艦を「三笠」と命名。
1月24日に起工。建造はバロー・イン・ファーネス工場で行われた。
明治33年(1900年)
11月8日に進水。
明治35年(1902年)
3月1日に竣工。
3月13日に日本へ向けて出発。
5月18日に横須賀へ到着。
7月21日に常備艦隊に編入。
11月5日に常備艦隊の旗艦に選ばれた。
明治36年(1903年)
12月28日に連合艦隊旗艦に選ばれた。
明治37年(1904年)
8月10日に黄海海戦で旅順艦隊と戦闘。
後部砲塔やメインマストを損傷。戦死33名、負傷83名。
明治38年(1905年)
5月27日に日本海海戦でバルチック艦隊と戦闘。海戦史上例を見ない大勝利を収めた。
被弾30余個、戦死8名、負傷105名。
9月11日に佐世保港内で火薬庫の大爆発が発生。殉職者339名。
明治39年(1906年)
8月8日、浮揚し修理開始。
明治41年(1908年)
4月1日に連合艦隊旗艦へ復帰。
大正時代
大正10年(1921年)
9月1日に一等海防艦へと格下げされる。
9月16日にアスコルド水道で座礁*2。ウラジオストクの工廠で応急修理をした。
大正11年(1922年)
ワシントン軍縮会議の決定に沿って廃棄艦リストを作成。その中に三笠も載る。
しかし、何とか三笠を残せないかという声が各方面から上がり、記念艦として残す運動に発展した。
大正12年(1923年)
9月1日に関東大震災の被害に遭う。
係留岸壁に衝突し前部進水。沈没を防ぐために白浜海岸に曳航して着底させた。
9月20日に除籍処分となり、軍艦としての歴史に幕を閉じる。
大正13年(1924年)
2月*3に東郷平八郎元帥を名誉会長、阪谷芳郎東京市長を会長として三笠保存会が結成された。
外務省を通じてワシントン軍縮条約の調印国である米英仏伊から三笠保存の合意をとりつけた。
横須賀鎮守府では三笠保存に関する具体的計画を立案する三笠保存会が組織された。
大正14年(1925年)
6月25日*4に三笠保存会の準備会にて阪谷会長から保存維持のための寄付金を全国から募る方針を発表。
東郷名誉会長が真っ先に50銭銀貨を寄付した。この出来事がマスコミを通して国民に宣伝され、寄付が集まった。
9月20日に保存工事が開始される。
大正15年(1926年)
11月10日に保存工事のすべてが完了。
11月12日に皇太子*5のご臨席を賜り、三笠保存記念式典が行われた。
昭和時代
昭和20年(1945年)
8月20日に連合国軍の横須賀進駐が始まり、海軍急速設営隊や海兵隊が三笠公園付近に展開した。
三笠は男女の交遊の場と化し、一気に荒廃が進んだ。
昭和21年(1946年)
4月にデッカー大佐が米海軍横須賀基地司令官に赴任。
三笠の管理と保存に積極的に取り組み、米兵が汚した三笠を綺麗に直した。
また、ソ連からの三笠解体の要求を拒否した。
昭和23年(1948年)
1月9日に以前から横須賀市が提出していた水族館設置に伴う三笠の貸下を米海軍が認めた。
米海軍は条件に砲塔、煙突、マストなどの撤去を求めた。
昭和24年(1949年)
4月1日に遊園地「三笠園」として開園。2月29日の神奈川新聞に以下の記事が載った。
マストをはじめ煙突、大砲などいっさいの武装を解除された三笠はノッペラボー、舷側に釣り堀をつくったり、ここでひとたび艦内を入ると、これはまた海洋動物の標本室から三浦半島の貝類、古代土器などズラリとならびなかなかもって興味深い。アザラシ魚族どもに占拠されて、地下に眠る東郷提督の感慨やいかに。
昭和29年(1954年)
6月に元海軍大佐の中村虎猪が国に働きかけ、大蔵省に三笠を固有財産と認めるように要求し、実現した。
昭和30年(1955年)
三笠建造時の乗組員と親交があったイギリスのジョン・ルービン氏が来日。
三笠の荒廃に慨嘆し、ジャパンタイムスにその惨状を寄稿した。
この記事が大きな反響を巻き起こした。
昭和33年(1958年)
11月4日*6に渋沢敬三を会長として新三笠保存会が発足した。
三笠保存に必要な金額を2億円と見積もり、うち5000万円を国が保存修理費として計上した。
ニミッツ元帥の計らいで米海軍から費用の一部にと3000トン級戦車揚陸艦が寄贈され、売上金額の3000万円が募金に充当された。
昭和34年(1959年)
10月7日に復元工事着工。
昭和36年(1961年)
5月20日に浦賀船渠株式会社の協力を得て三笠の復元が完了した。
復元の際、三笠の備砲は解体済みだったチリ海軍の戦艦「アルミラント・ラトーレ」の物が使われた。
アルミラント・ラトーレは三笠と同じくイギリスで建造された艦だったため、チリ政府が寄贈した。
5月27日に復元記念式が行われた。
平成時代
平成4年(1992年)
6月8日に英国の世界船舶基金から国際海事遺産賞が贈呈された。日本では初。
平成18年(2006年)
東郷平八郎司令長官の公室や居室が復元され、一般公開された。
平成28年(2016年)
4月2日、講堂にてTVアニメ「ハイスクール・フリート」の第一話先行上映会が開かれた。
令和時代
令和元年(2019年)
12月14日に記念艦三笠前の広場にて劇場版の主題歌「Free Turn」のミュージックビデオが公開。
また、記念艦三笠がTrySailのイメージカラーにライトアップされた。
令和2年(2020年)
1月12日、講堂にて劇場版ハイスクール・フリートの先行上映会が開かれた。
その他
名前の由来
「三笠」の名前の由来は奈良県にある三笠山。
当時の戦艦の姿が残る場所
リベットにより接合された船体、チーク材が使用された甲板など当時の戦艦の姿を知れる貴重な場所である。
艦内展示には、かつて三笠の艦首についていた菊花紋章も展示されている。
艦首の向く先
現在三笠の艦首が向く先には皇居がある。主砲を向け、戦艦としての敬礼の状態を保っている。
参考文献
- 記念館「三笠」 発行:公益財団法人 三笠保存会
- 新横須賀市史 別編 軍事 編:横須賀市
- 新横須賀市史 通史編 近現代 編:横須賀市
- 三笠ガイドツアー
- 新横須賀市史 別編 年表 編:横須賀市
- はいふり通信 【はいふり】3周年なのでちょこっと「はいふり公式サイト」の歴史を振返ってみた
- 写真が語る横須賀・三浦の100年 監修:辻井善彌
- 新聞が語る戦後三浦半島史 編:毛塚五郎
- 記念艦三笠内展示:戦艦「三笠」就役120年