より詳しく諏訪公園を知りたい方へ。
諏訪公園の特徴
諏訪大神社から続く階段を上ったさきにある公園。
東宮殿下(のちの大正天皇)のご成婚記念として作られた。かつては園内に動物が飼われていた。
諏訪公園の歴史
明治時代
明治33年(1900年)
東宮殿下(のちの大正天皇)のご成婚記念として公園を作ることを決定
明治45年(1912年)
5月27日に開園。同時に海軍工廠の殉職者をまつった招魂塔の除幕式が行われた。
開園日は日本海海戦の日付にならったものとした。
大正時代
大正6年(1917年)
1月に江頭正五郎の頌徳碑が建てられた。
江頭正五郎は横須賀町の初代助役・二代目町長を務めた人物で、横須賀市成立のため当時の豊島村と浦郷村と交渉し、合併のきっかけを作った。
碑文は当時の横須賀高等女学校の校長、北村包直の筆によるもの。
9月21日日付の横浜貿易新報にて以下の記事が載る。
既にヴェルニーの胸像の作成が決まっていたが、小栗上野介の胸像も作るべきではないかという内容である。
横須賀海軍工廠の前身たる幕府時代の横須賀造船所技師長仏人ウエルニー氏の銅像を市内諏訪公園に建設すべく門下生なる工学博士桜井省三山口辰弥氏十数名発起にて計画中なる由は数々報道せるが、元来横須賀造船所の創設者は有名なる幕吏小栗上野介及び栗本鋤雲等にして、ウエルニー氏は当時傭人に過ぎず、然るに我工廠の創設者たる小栗上野介の銅像すら建設せられざる今日、却って外人の銅像を軍港地の公園に見るが如きは軍人精神の教育上甚だ面白からざる結果を生ずべしと、市の有力者間に右の計画に異論を唱ふるも多し
この後、胸像作成の計画は一時中断した。
大正7年(1918年)
9月に手水鉢が奉納される。
「青島攻略参加工作艦関東丸工作部一同」と記載されているが、詳細不明。
大正10年(1921年)
1月14日日付の横浜貿易新報にて奥宮市長から、以下の理由で諏訪公園に動物園を作る計画が打ち出される。
- 横須賀市は道路が狭く、交通が多く、学校の運動場も狭いため子供たちが遊べる場所がない
- 財政上の関係で新しい公園を作る余裕がない
- 現在の諏訪公園は高丘上に在って運動施設などがないため、市民を吸収する力が足りない
- 横須賀市は他と比べて海外の動物を収集できる便宜が多い
大正11年(1922年)
7月に小栗・ヴェルニー両名の銅像建設のための募金活動が開始された。
9月15日に小栗上野介とフランソワ・レオンス・ヴェルニーの胸像が設置された。
制作は彫刻家の朝倉文夫。
(現在ヴェルニー公園にある胸像はこの胸像を改鋳したもの)
9月29日に小栗上野介とフランソワ・レオンス・ヴェルニーの胸像除幕式が挙行された。
午後2時半から午後4時半まで除幕式が開催され。その後、7時から10時まで市民の大提灯行列が行われた。
また、諏訪公園には「除幕式を祝す」とイルミネーションで照らし出された。
昭和時代
昭和17年(1942年)
2月6日に諏訪公園内の物件(小栗、ヴェルニー胸像含む)の移転が決定。
移転の補償者は横須賀海軍建築部長。戦争のための金属供出。
昭和60年(1985年)
6月1日に動物愛護の碑が横須賀市動物愛護協会によって設置される。
その他
謎の鉄板
諏訪公園には出自不明な鉄板がある。
撃ち抜かれたような跡があるため戦艦三笠のものではないかと言われているが詳細不明。
しかし、はいふりのOVAではしっかりと戦艦三笠のものと断定されている。
満期記念の碑
はいふりOVAでも背景に出ていた碑。
大正3年度に徴兵された人たちが満期を記念して桜の木を200本植えた、という意味と思われる碑文が刻まれているが詳細不明。
参考文献
- 横須賀こども風土記 上巻 編:横須賀市民文化財団
- 三浦半島の史跡みち 著:鈴木かほる
- 新横須賀市史 通史編 近現代 編:横須賀市
- 新横須賀市史 資料編 近現代Ⅱ 編:横須賀市
- 新横須賀市史 資料編 近現代Ⅲ 編:横須賀市
- 新横須賀市史 別編 年表 編:横須賀市
- ふるさと横須賀 上 著:石井昭