千島総合振興局

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幽仙湖?に浮かぶ黒石山?温禰古丹村?)
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阿頼渡島?親子場山?(通称阿頼渡富士)
千島総合振興局(ちしまそうごうしんこうきょく)
日本国
地方北海道地方
面積10,355.61km2
総人口166,141
(2040年住民基本台帳人口)
人口密度未測定人/km2
隣接する支庁振興局包瀬支庁勘察加庁、根室総合振興局(北海道)
所在地010-0001-6451
北海道千島柏原市柏原二丁目1番5号

概要

千島総合振興局は北海道にある行政区画で
千島列島全ての島々が範囲となっている。
島々には火山が多く、冬の寒さは厳しい。周辺の海には魚類が豊富である。
千島列島は海域の境界線になっており、千島列島より北西側の海がオホーツク海、南東側の海が太平洋である。

歴史

室町時代(15世紀)までにアイヌが進出。彼らは主に道東アイヌの領域の南千島と得撫郡以南、千島アイヌの領域の新知郡の羅処和島や占守郡の幌筵(パラムシル)島、占守島などに居住していた。
第二次世界大戦まで
千島アイヌの領域
江戸時代には、チュプカ諸島と呼ばれた。占守郡および新知郡に相当する地域である。日露和親条約や樺太・千島交換条約などの条約で定義されるクリル列島に含まれる。ロシア帝国侵出(南下政策)による領有以前には、千島アイヌが先住していた。

1643年 オランダ東インド会社所属の地理学者マルチン・ゲルリッツエン・フリースが上陸。得撫島においては千島アイヌと交流する。
1711年  ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から占守郡の占守島に侵攻。占守島では千島アイヌとの交戦があった。
1713年  ロシア人のダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフとイワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキー(ロシア語版)が、占守郡の幌筵島に上陸して激しく抵抗する千島アイヌを武力で制圧し、幌筵島を占領した。その後、過酷な毛皮税が課された。
1745年(延享2年)5月、竹内徳兵衛ら多賀丸の漂流民11名が占守郡の温禰古丹島に漂着。
1766年(明和3年) - ハンガリー人のモーリツ・ベニョヴスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる。
1804年(文化元年)旧暦7月18日、継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名がの占守郡の幌筵島東浦に漂着。
1872年(明治5年) - 占守郡・捨子古丹島の火山が噴火し、出猟中の千島アイヌ13名が死亡。
1872年(明治5年)以降 - イギリスなどの船が入り込み、ラッコやオットセイの狩猟を開始する。
1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約によって樺太全島とクリル諸島(得撫島以北)が交換され、日本領となる。
1884年(明治17年) - イギリス人H.J.スノーが千島列島の測量を行い地図を作製する。同年、生活物資の補給が困難であることと国防上の問題があることから、日本の官吏が説得の上千島アイヌを無人島色丹島に移住させた(『千島巡航日記』)。ただし、慣れない生活と風土のため、千島アイヌの人口は激減した。
1893年(明治26年) - 千島報效義会の会員が占守郡の占守島、幌筵島、捨子古丹島にて越年。幌筵島1名、捨子古丹島9名全員が死亡。
1922年(大正11年)から1936年(昭和11年)、ワシントン海軍軍縮条約により要塞化は禁止された。
1875年(明治8年)から日本領となっていたが、とりわけて防備は行われていなかった
1940年(昭和15年)、日本陸軍によって占守郡の幌筵島に北千島臨時要塞が建設され、海軍も幌筵島、新知郡の松輪島に逐次、飛行場を整備していった。
1941年(昭和16年)6月以降、陸軍は占守郡に展開する兵力を1個連隊規模へ増強し、新知郡にも部隊を配備した。海軍は第五艦隊を改めて編成し、千島列島から小笠原諸島までの日本本土東海の警備を担当させた。

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昭和初期の紗那村?

道東アイヌの領域
得撫郡と北方領土(国後島、択捉島)に相当する地域。得撫郡は日露和親条約や樺太・千島交換条約などの条約で定義されるクリル列島に区分され、択捉島以南は北方四島に区分される。和人社会には室町時代からラッコ皮の産地として知られ、江戸時代には松前藩領や幕府直轄領となり、本州以南に準じ郷村制が敷かれ、アイヌの有力者はオムシャで役蝦夷に任命され村政を担っていた([[江戸時代の日本の人口統計も参照> https://ja.m.wikipedia.org/wiki/江戸時代の日本の人口統計]])。
1643年 オランダ東インド会社所属の地理学者マルチン・ゲルリッツエン・フリース上陸。測量図を作る。
1661年 - 択捉島に伊勢国の七郎兵衛の船が漂流した。アイヌ人たちの助けで国後島を経て蝦夷(北海道)へ渡り、1662年(寛文元年)に江戸へ帰った。
1700年(元禄13年) - 松前藩は千島列島を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出
この郷帳には北海道本島から勘察加半島までが記載されている
1715年(正徳5年) - 幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
1731年(享保16年) - 国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る(城下交易、ウイマムとも)。
1754年(宝暦4年) - 松前藩は国後・択捉・得撫の三島を版図とする国後場所を開いた(場所請負制も参照)。
1766年(明和3年) - ロシア人が初めて得撫島以南に到達した。得撫島ではイワン・チョールヌイ(ロシア語版)が率いる一団が一時的に居住を始め、多数のアイヌ女性を集めハーレムを作り現地のアイヌを酷使しラッコ猟を行うようになる。数年後撤退。
1770年代 - ロシア人が通商を求め得撫島や択捉島、国後島などに、さらには1778年(安永7年)北海道・霧多布にまで来航する。
1772年(明和9年) - 得撫郡で道東アイヌと得撫島に逃れた千島アイヌが蜂起。ロシア人21名を討取り、勘察加へ追放。
1786年(天明6年) - 幕府が最上徳内を派遣し、国後場所の択捉島と得撫島の調査を実施。その結果、択捉島には帰国できなくなった3名の在留ロシア人が滞在しアイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが分かった。、1791年(寛政3年)在留ロシア人、択捉島から帰国。同年、最上徳内は再度択捉島と得撫島を訪れている。
1789年(寛政元年) - 労働環境と商取引に不満を抱いた国後場所のアイヌが蜂起する(クナシリ・メナシの戦い)。後に乱の平定に尽力したアイヌ乙名(お味方蝦夷)を題材とする夷酋列像が描かれた。
1798年(寛政10年) - 幕府による北方探検が大規模に実施され、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
1799年(寛政11年) - 幕府が千島を含む東蝦夷地を上知、幕府直轄の公議御料とする。高田屋嘉兵衛が択捉航路(北前船)を開拓する。
1801年(享和元年) - 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。
この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、千島方面における国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人の在留ロシア人が居住していたため、幕府は標柱を建てるとともに退去を求めている。
1805年 - 在留ロシア人、得撫島から帰国。
1806年(文化3年)
この年以降、幕吏たちが南部・津軽の足軽、通辞、番人、アイヌたちとともに毎年得撫島の警固を実施。
文化露寇。ロシア人ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・フヴォストフ(ロシア語版)が樺太や択捉島などを襲撃・略奪する。
1811年(文化8年) - 国後島でロシア艦を拿捕、ヴァシーリー・ゴロヴニーンを捕え、松前で拘禁する(ゴローニン事件)。
 1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「[[改正蝦夷全図>]](加陽・豊島 毅作)。
1855年(安政元年) - 日露和親条約が締結され、択捉島以南を日本領として画定。得撫郡を喪失。樺太については国境を定めず、先送りとした。
1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約によって得撫郡が日本領に復帰する。
1940年(昭和15年)、海軍は、択捉島に逐次、飛行場を整備していった。
1941年(昭和16年)6月の独ソ戦開戦以降、陸海軍共に実質的な部隊配備を始める。陸軍は択捉島などにも部隊を配備した。海軍は第五艦隊を改めて編成し、千島列島から小笠原諸島までの日本本土東海の警備を担当させた。
11月、択捉島単冠湾?に海軍の空母6隻を含め軍艦30隻からなる機動部隊が秘密裏に集結し、真珠湾攻撃のためハワイへ向け出港した。
太平洋戦争戦中と終戦後
1943年(昭和18年)のアッツ島守備隊の玉砕とキスカ島守備隊の撤退により占守郡は対米防衛の最前線となり、既配置部隊にキスカ島撤退部隊及び内地からの増強部隊を合わせて、陸軍の北千島守備隊は師団規模に増強され、新知郡や得撫郡、北方四島にも兵力の増強が行われた。海軍は第五艦隊を支援するため第十二航空艦隊を創設、そして第五艦隊と第十二航空艦隊を統括指揮する北東方面艦隊を編成した。7月、アメリカ軍は奪還したアッツ島に設営した飛行場へ第11空軍 (アメリカ軍)を進出させ、日本軍施設がある占守郡の幌筵島などへのB-24 (航空機)、B-25 (航空機)による空襲が始まり次第に激しさを増す。
1944年(昭和19年)千島方面防衛のため、陸軍は第27軍司令部を択捉島に新設し、占守郡には戦車第11連隊を含む兵力が増強される。既配置の部隊と増強部隊を合わせて、占守郡では占守島と幌筵島に第91師団が編成される。新たに、温禰古丹島に海上機動第3旅団を、新知郡に第42師団を、択捉島に海上機動第4旅団と独立混成第43旅団を、国後島に独立混成第69旅団を編成した。海軍の第五艦隊は南方作戦に参加し、そのまま転属となって北東方面艦隊は解隊したが、第十二航空艦隊は終戦まで千島、樺太方面の警戒にあたった
1945年(昭和20年)に入ると本土決戦準備のため、2個の海上機動旅団、陸軍航空部隊と海軍部隊のほとんどが内地に転用される。この転用での海上移動中に多くの部隊が、米軍による空襲、潜水艦の魚雷攻撃、艦砲射撃等で損害を受けている。終戦時、占守郡の占守島及び幌筵島に第91師団、新知郡の松輪島に独立混成第41連隊、得撫郡の得撫島に独立混成第129旅団、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)に第89師団が配置されていた。
1945年(昭和20年)8月14日 - 日本政府がポツダム宣言を受諾して無条件降伏(日本の降伏)。その直後の8月15日にソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーは千島占領命令を下す
8月18日にはカムチャツカ半島のロパトカ岬(現レブンライシャシ岬?)から砲撃が開始され、同時に、ペトロパブロフスク・カムチャツキー(現奔留加市)から出撃した赤軍・第二極東軍が占守郡の占守島に上陸、日本軍・第五方面軍第91師団と交戦した。8月21日に停戦したが、4日間の戦闘でソ連側が1,567名、日本側が1,018名の死傷者(ソ連側資料)を出した。日本側資料ではソ連側が約3,000名、日本側が約600 - 700名の死傷者とされている。
スターリンは占守島を1日で占領し、余勢を駆って北海道の東半分(留萌から釧路を結ぶ線)を占領する予定であったが、予想外の抵抗を受けた(日本降伏直後、スターリンはトルーマンへの電報の中で、ソ連軍による千島列島と北海道北半分の占領作戦準備を始めたが、北海道に関してはヤルタ協定に含めていなかったため、トルーマンに拒否された)。占守島の日本軍武装解除は8月23日と24日に行われた。千島の攻略は樺太を見ながら行い、8月26日に新知郡の松輪島を、8月28日から8月31日に得撫島を占領したが、第二極東軍は択捉島に一度近づきながら、その先に進まなかった。
択捉島以南(北方四島)の占領は、8月28日に樺太制圧が終了した第一極東軍を転用した。南千島占領部隊は8月26日に大泊を出航し8月29日に択捉島を占領、9月1日に国後島と色丹島に上陸し、9月2日に日本が正式に降伏する間も軍を進めたが、両島の制圧には9月4日まで費やした。9月5日に歯舞群島を占領して一連の計画は完了したが、占守島侵攻で時間を費やさなかったら北海道本島も侵略されていたと見る者もいる。

ソ連占領地域は北海道本島との交通を遮断され、千島列島住民は本土への帰還ができなくなり、駐屯していた日本軍は武装解除の上、スターリンの指示でシベリアの収容所に連行された(シベリア抑留)。また、ソ連は占領地にロシア人を送り込み、日本住民の個人資産を次々に接収していった。アイヌを含む千島住民の一部は残留の強い働きかけを受けたものの、1947年(昭和22年)にほぼ全員が本土へ引き揚げることとなった。朝鮮籍の住民は日本引き揚げを認められず、彼らと結婚したものなど一部残留を希望する日本人は引き揚げず、後にサハリン(樺太)に移送されて在樺コリアンとなった。

ロシア占領期
1951年(昭和26年) - サンフランシスコ講和(平和)条約が発効。同条約では千島(クリル)列島の放棄を明記されたが、引渡先の記載はない。また、ソビエト連邦(継承国家はロシア連邦)も同条約に署名していない。日ロ両国間において今なお平和条約が締結されておらず、このため国際法上日ロ国境が未画定のままとなっている。また、サンフランシスコ講和条約に定義される千島(クリル)の範囲と領土帰属に対して、日本とロシアの主張に差異がある。
ソ連が崩壊した後に成立したロシア連邦が、実効支配していた。
2010年3月31日まで北方四島のほか、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室の税務署管轄とされていたが、2010年(平成22年)4月1日に「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例(平成21年3月31日公布)」と「財務省組織規則の一部を改正する省令(平成21年10月26日 財務省令第67号)」により、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡については法令上も消滅した。
日本返還
2024年4月1日-ロシア政府は日露平和条約?に基づき2030年4月1日に正式に日本に樺太、千島(北方領土を含む)の返還、勘察加売却を行うと発表した。
2030年4月1日-正式に返還が行われ、行政上千島総合振興局が臨時で根室市?に設置されまた得撫以北の町村制施行を行なった。
2032年8月20日-占守海峡に勘察加庁レブンライシャシ岬?までを結ぶ占守海峡大橋?が完成。また来斜志町?と柏原を結ぶJR包千線が振興局内唯一のJR路線として開通する
2034年5月15日-千島総合振興局移転先として候補に上がっていた古釜布町?新知村?、得撫町(現得撫市)、幌筵村(現千島柏原市?)、占守村(現占守町)の中から幌筵が選ばれ、柏原市街地に移転された。
2035年8月21日-得撫町が市制施行をし得撫市へ。振興局内最初の市となる。
2035年9月1日-幌筵町が分裂し柏原町が朝日村と合併。
市町村合併特例?により市制施行する。

地理

気候
振興局内は気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、その影響で占守海峡大橋?が通行止めになることもある。そして山には夏でも雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。
火山
千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。
2006年(平成18年)3月分のNEWTONには詳細な図が書かれており、成層火山の頂上が北海道本島にぶつかったものが現在の知床半島とされる。
地震
プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。
地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、シムシル島東方沖でマグニチュード7.9の地震が発生した。また、2007年(平成19年)1月13日にも、新知(シムシル)島東方沖でマグニチュード8.2の地震が発生した。
また今後北海道・東北地震の発生が警戒されており、振興局内も避難対策が行われている。
植生
温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。
地形
振興局内の最高峰は最北端の島、阿頼度島?親子場山?阿頼度富士)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳?も 1,822mの高さをもつ。
自然
開発進んでいるものの現在も砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。
そのため国立公園を設置する構想がある*1
土壌
土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。
そのため農耕を一部では行なっている。

生態系

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海上からの親子場山?

太平洋の大陸棚の縁に位置する海底地形、および海流の影響(オホーツク海内部で、黒竜江?の運ぶ養分を含んだオホーツク環流と、勘察加半島東岸を流れて千島列島北部から入り込んだ養分豊かな親潮が合流し、これがさらに千島列島から流れ出し親潮と再合流する)により、列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在する。

千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなどの軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。
魚類
さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。
海獣類
魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、オホーツク海周辺でも最大の生息地となっている。

これらの哺乳類はかつてアイヌ人などの捕獲の対象となり、その肉は食料に、皮や骨はさまざまなものの原料(毛皮の服など)になってきた。千島列島への民族集団の広がりも、これらの生物を追っての移住だった可能性もある。

19世紀から20世紀はじめにかけ、オットセイは毛皮採取のために乱獲され、例えば雷公計島に19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならず、1960年代以来これらの狩猟の報告はない。 かつて千島列島でも見ることのできたニホンアシカは、魚を捕食することから害獣として駆除された結果、20世紀初めにはほとんど見られなくなり絶滅したとみられている。

クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。

ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲された。より価値の高いラッコの毛皮を手に入れるため、ロシアの千島列島への勢力拡大が活発になり、日本の権益と衝突する結果になった。ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。
鳥類
千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。
陸の生物
千島列島の陸の生態系は、南の北海道本島や樺太、北の勘察加半島などから来た、北アジアと同様の種が構成している。種の多様さにもかかわらず、固有種は少ない。

面積の小ささと地理的孤立により、大型陸上哺乳類はあまり生息していない。キタキツネやホッキョクギツネは1880年代に毛皮交易のため持ち込まれた外来種である。さらに、同じ頃持ち込まれたネズミ目の生物が陸上哺乳類の多くと入れ替わった。列島南北の大きな島にはヒグマ、キツネ、テンなどが元から住んでいる。また南千島の大きな島々にはシカもいる。ハヤブサ、ミソサザイ、セキレイなどの鳥も森に住んでいる。

クリリアン・ボブテイル*2という猫が生息している。これはジャパニーズボブテイルに似た短い尾を持つ突然変異種の猫で、日本の猫種登録団体からの認定も既に受けている

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クリリン・ボブテイル

交通

[添付]
占守海峡大橋?

・振興局内には私鉄が多く走っており千島柏原市?から勘察加庁来斜志町?を結ぶ勘察加旅客鉄道包千線が唯一のJR線である。
またかつて北海道の標津町から各島を通って勘察加へ至る千島本線・千島自動車道構想?があったが費用対効果や択捉・得撫間の水深がとても深く難しいと判断されたため、構想は破棄となったがその名残として


*1 詳しくは千島列島国立公園構想?をご覧ください
*2 詳しくは[[クリルボブテイル> https://petokoto.com/articles/1495]]を