火傷ネタ(後編)

Last-modified: 2022-02-07 (月) 02:02:23

 コンコン

 

 と、しばらくして、想定していた通り、ノックの音が部屋に響いた。
 その頃には私はとっくに泣きやんでおり、もちろん、幾分かは落ち着きも取り戻していた。

 

 彼なら、きっとフォローのために部屋に来るだろう。そう予想していたから、
「…あの、霧切さん」
「いいわよ、入って」
 彼が部屋の前に、オロオロとした、小動物のような顔つきで立っていても、普段通り対応できた。
「え、あの…」
「話があってきたんでしょう?それとも、やっぱり部屋に入るのは嫌かしら。それなら…」
「う、ううん!おじゃまします…」

 
 

 さあ、どう出るだろうか。
 どう出てきても、私は彼の弁明や慰めを、完膚なきまで拒まなければならない。
 今後、彼の中に、私のそばにいるという選択肢が無くなるように。

 

 彼に椅子を差し出し、私はベッドに腰掛ける。
 それから、ただじっと、彼が話し出すのを待った。 

 

「あの…」
「何?」
 出来るだけ冷たい声で、問いかける。

 

「まずはこれ、返しておこうと思って…」
 彼が差し出したのは、私が外された右の手袋。
 そういえば、あの場に忘れてきてしまっていたのか。

 

「ああ、ありがとう。わざわざ持ってきてくれたのね」
 私が無感情――に聞こえるように取り繕った声を響かせるたび、彼は怯えたように身をすくませる。
 罪悪感が胸を突き刺す。彼は何も責められるようなことなどしていないのに。
「えっと、それで、改めて謝りたいな、と」
「謝る?何を?」
 さあ、どうでる。

 

「…霧切さんが見られたくないものを、勝手に見てしまったから…」
 なるほど、そう来たか。

 

「…それはこの、右手のことを言っているのね?」
 彼は無言で、下を向いている。肯定ととっていいだろう。
「…そう思うということは、やはりあなたも、『私がこれを他人に見られたくないと思っている』と思ったのね」
「え…」
 違うの?とでも言いたげな表情。

 

「私はね、別に『この傷跡を人に見せること』自体には、何の抵抗もないわ。
 私は、『私のこの傷跡を見た人の反応』が見たくない、それだけなの」

 

「反応…?」
「みんな、同じ顔をするの。『気持ち悪い』『見なければよかった』といったような、ね。
 ちなみに苗木君、さっきのあなたの表情も、例に漏れていないわ」
「そっ、そんな、こと…」

 

 ドス、ドス、と、罪悪感が私の心を切り刻む。
 彼に投げかけた言葉の槍が、そのまま私の心を貫く。
 今私がしているのは、悪魔の行いだ。心配してきてくれたのに、それを仇で返すなんて。
 けれど、そうする他にないから。だから、
――おくびにもだすな…

 

「あなたを責めているわけじゃないのよ、苗木君。あなたの反応は、ごく自然なもの。
 だからあなたは謝るべきじゃない。だってあなたは、何一つ悪いことなんてしていないんだもの」

 
 

 彼は、ぐっと唇をかみしめた。
 それは、なにかに耐えるというよりは、なにかを決意したような、そんな仕種。
「…わかった。的外れに謝ることは、しないよ」
「そう。それでいいの」

 

「…ただ」
「?」

 

 それまで下を向いていた彼の瞳が、力強く私を射抜く。

 
 

「聞いても良いかな。その、手の傷のこと」

 
 

――これは、
 今までにない、初めての反応だ。
 なるほど、今まで私のそばにいただけあって、意表を突くのには慣れているのかもしれない。

 

「…傷ができた経緯、ということ?」
「それも含め、諸々」
「諸々、って?」
「どうしてそんな傷を負うことになったのか、とか、その傷ができてからの周囲の反応とか」
「…そう。ずいぶん遠慮なしに尋ねるのね」

 

「遠慮する方が、失礼かなって思ったから」

 

 彼は時々、

 

 ひどく真っすぐな目をする。

 
 

「手の傷跡自体じゃなくて、それを見た相手の反応が嫌なんでしょ?
 そこには『偏見』や『忌避』だけじゃなくて、
『同情』や『遠慮』もきっとあると思ったから。
 でも『言いたくない』『言えない』のなら、もちろん言わなくていいよ」

 
 

 職業柄、悪意と威圧に満ちたまなざしは、嫌というほど見て、見慣れてきたし、耐性もある。
 けれど、彼の眼には、悪意はもちろん、威圧の欠片もない。
 それなのに、なぜか気圧される。

 

 真っすぐ、鋭く、そして正しく。これが同い年の少年か、と思わせるほど、芯の強い目。

 

 どうも私は、その目には滅法弱いらしい。

 

「…いいわ。言いたくないということもないし」
 私は抵抗を諦め、素直に話すことにした。

 

「…私がこの傷を負ったのは…そうね、まだ探偵として駆けだし中の頃、とでも言えばいいのかしら。
 私が相手をしていたのはとある犯罪組織。私はいくつかの事件を解決していく過程で、その存在を知ったの」

 

 どうせ今日で終わりなんだ。
 傷の経緯くらい、幾らでも話せばいい。

 

「…自分の力を過信していた、というのもあるし、周囲からの評価が欲しかった…焦っていたんでしょうね。
 とにかく私は、数名の仲間と一緒に、その犯罪組織の根城を探し当てた…けれど、
 仲間の一人に、内通者がいたのね。私は根城に潜り込んだのだと思っていたのだけれど、実はその逆。
 彼らにおびき出されたのよ。その根城の最奥まで。
 逃げることは難しくなかった…けれど、人質を取られたの。その人質というのが…」

 

「本当は、その内通者だったんだね」

 

「そういうこと。よくわかったわね。探偵業が身についてきたのかしら?」
 彼は私の茶化しも介せず、続けるように促した。

 

「…もちろんその時の私はそんなことは知らなかった。プライドを捨てて、彼を助けてくれるように頼みこんだ。
 そこで彼らが出した案は、『その犯罪組織に伝わる拷問に耐えきれば、彼も私も無傷で解放する』というもの」

 

「拷問…」

 

「焼却炉の中に自ら手を入れ、30秒耐えきれば合格、というシンプルなものよ」

 

 苗木君の顔が青ざめる。

 

「本来のルールでは、手枷なんかをして、無理矢理30秒耐えさせる、というのがあるらしいのだけれど…
 私にはそれをさせず、その代わり耐えきれず早く手を出してしまえば、目の前で彼を殺すと言われたわ。
 そして私は、裏切り者の命を救うために、自分で自分の手を焼いた…
 目が覚めた時は、知らない町の病院にいたわ」

 

「…」
 苗木君は、予想外に壮絶、とでも言いたげな表情をしていた。

 

 他人の経験に感情移入してしまう彼には、よほど耳に堪える体験談だっただろう。
 自画自賛、とは少しベクトルは違うけれど、自分でもこの体験はかなり酷な部類に入ると自負している。

 
 

「それで…ああ、えっと、周囲の反応ね。まあ、身内以外は概ね同じ反応よ。
 気味が悪い、えぐい、グロい、近寄りたくない。
 視線や顔で訴えてくる人がほとんどだけど、中には直接口に出す人もいたわ。

 

 …あなたの反応は、その中のどれよりも、優しかった」

 
 

 …何を口にしているんだ、私は。
 そんなこと、わざわざ言う必要なんかない。
 彼には冷たく接すればいい、もう二度と私に関わろうという気が起こらないように。

 
 

「でも、やはりあなたも思ったでしょう。この手が、気味が悪いと」
 彼には、罪悪感を植え付ける。ありもしない罪に対する罪悪感を。

 

「…驚きはしたけど、気味が悪いなんて思わない」

 

「嘘はつかなくていいのよ。言ったでしょ、あなた、顔に出やすいのよ」
「…どうかな。見たときは正直少し、いや…かなりショックで、その時の気持ちは忘れたけど、
 少なくとも今は、ぜんぜん思わないよ。不気味だなんて」

 
 

 思わず、イラッとする。自分の思い通りにならないことに。
 もう少し露骨に、責めた方が良かったか。
「さっきあなたも自分で言ったでしょう。『同情』も、私はいらないの」
「『同情』なんかじゃないよ」
「じゃあ何なの?」

 
 

「…強いて言うなら『尊敬』かな」

 

 頭に血が上る、とは、こういうことを言うのだろう。
 メリメリ、と、血管が膨張する音まで響いてきそうだった。

 

 違う、わかっている。
 苗木君に怒りをぶつけるのは、全くの筋違いだ。
 それでも怒りは、彼に罪悪感を抱かせていることへの負い目や、彼のそばにいられなくなるという絶望を、軽く凌駕するほどだった。
 この傷について、知ったかぶりをされることへの怒りは。

 

「『尊敬』?おかしなことを言うのね」
 口端が、怒りからかヒクヒクと震える。
 探偵の職務中ですら、こんなに怒りを抑えきれなかったことはない。
「一体今までの話のどこをどう取れば、この醜い手に対して、『尊敬』を抱けるのかしら」

 
 

 彼の眼は、射抜くような真っすぐさを保っていた。
 それは、彼が自分の発言に少しの負い目もない、という証拠に他ならない。
 彼はウソをついてはいない。本心から言っている。
 それが、余計腹立たしい。
 そしてだからこそ、次の発言は、

 
 

「…だってその傷は、霧切さんが戦った証だから」

 
 

 確実に、的確に、
 私の逆鱗に触れた。

 
 

「知った風な口を利かないで!!」

 
 
 

 ここまで感情的になったのは、いつ以来だろう。
 私は腰かけていたベッドから立ち上がり、彼の胸ぐらをつかみ、絞りあげる。

 

 苗木君は抵抗せず、そのまま引きずりあげられた。私より身長が低い分、宙に浮くような形になる。
 椅子が音を立てて倒れても、彼の射抜く目は変わらない。
――その目をやめろ!

 

「この火傷痕は、私の過ちの傷跡!過去の汚点であり、それを忘れないための戒めなの!
 今までこれを、磔刑のごとく背負って生きてきた…『尊敬』?的外れな発言も、そこまでいくといっそ清々しいわ。
 あなたに何がわかるの…!?この傷を背負うための私の覚悟、この傷を背負ってからの屈辱…
 あなたみたいな凡人に、その一欠けらでも共有できるの!?いいえ、一欠けらも理解されたくなんかないわ…!!」

 

 攻め立てる私の方が泣き叫んでいる。おかしな構図だ。
 私は追いつめられたか犯人のように暴言を吐き散らし、彼は淡々とそれを受け、そして答える。

 

「…共有なんて、絶対できない。それは、霧切さんが戦った証だから、他の誰にも、ましてや僕なんかに、
 それをわかちあうことなんか絶対できやしないんだ。
 僕にできるのは、霧切さんが教えてくれたその事実から、僕自身の見解を作ることだけだよ」

 

「それが『尊敬』?そうだというなら、あなたは相当な盲信者か頑固者、もしくは相当のペテン師ね。
 でもね、どんなに自分を偽っても、本能から来る嫌悪感には、抗うことは出来ないのよ…!」

 
 

 私は半ば自暴自棄になって、左手で彼の胸ぐらを捕まえたまま、むき出しの右手を彼の眼前に差し出した。
 おそらく、何も考えずにしゃべっているのは私の方だ。
 ただ、怒りと、自分から彼を突き放す、という衝動にだけ駆られている。

 

「ほら、見て…気色悪いでしょう?私が自分でそう思うんだから、あなたには尚更のはずよ…」

 

 さあ、怯め。
 臆しろ。慄け。
 『尊敬』だなんてウソの言葉に隠した本心を、さらけ出せ。

 
 

 そうじゃないと、私はあなたに縋りついてしまう。
 そうじゃないと、私は希望を抱いてしまう。
 だから

 

――その目で見るのを、やめて…!

 
 

「…お願いだから、苗木君。正直に、気持ち悪いと、不気味だと、そう言って。
 あなたが何を言おうとしているのかは、皆目見当もつかないけれど
 私はあなたがその言葉を口にするのを、期待しているわ」

 

 その方が、変な希望を持たされるより、幾分も楽だから。

 
 
 
 

 彼は、口を開かなかった。
 じっとその目で、私を、右手を見つめていた。

 

 その珍妙な硬直は、そのまま少しだけ続き、先にその均衡を破ったのは、

 

 無様にも沈黙に耐えきれなくなった私の方だった。

 

「…苗木君」
 呟くように、彼の名前を呼び、ふといつのまにか、彼を締め上げる手の力が、緩んでいたことに気づく。
 彼はすでに地面に足をついていたけれど、まだ私の手を振り払ったりはしない。
 苗木君はまだ、何も言わない。

 
 

 ただ、その代わりに。
 私が名前を呼んだことを合図にしたかのように、ゆっくりと彼が動き出す。

 

 ずい、と、二人の距離を縮めて、一歩前へ。
「ちょ、ちょっと…」
 目は、私を射抜いたまま。何をされるのかもわからず、私は気圧され、一歩退いた。

 
 

 先ほどはアレほど激昂していたのに、おかしな話だ。これほど容易く、彼に押し負けるなんて。
 きっとさっき私が喚いていたのは、子犬が恐ろしい相手に向けて吠えたてるのと同じだったのかもしれない。

 

 彼の言動は、常々私の予想を上回る。わからないものは、恐い。
 この部屋に入ってきた時は、彼の方が捨てられた犬のようにオロオロとしていたくせに、
 いつの間にか、彼にリードを許してしまう。いつも、そうだ。

 

 尻込みした私が、思わず右手を引っ込めようとすると、
 それを察したのか、彼は食堂でみせた力強さで、私の右手をしっかりと握りしめた。
「ひっ…」
 思わず、そんな情けない悲鳴が漏れる。

 

 私の悲鳴や、おそらく怯えて情けない表情を浮かべている顔を受けても、苗木君は微動だにしなかった。

 

 ビリっ、と、今朝のように、何も感じるはずのない右手から、鈍痛と熱を感じる。
 それは右手が彼に近づけば近づくほど、より強く、大きな刺激になり、私は顔をしかめた。
 まるで彼が、あの時の炎のようだ。

 

 ほら、言わんこっちゃない。近づいてはいけないのに、近づくから。
 自分を過信して、太陽に近づきすぎるから、羽をもがれるのだ。

 
 

 あまりの激痛に、足に力が入らなくなり、そのまま後ろのベッドに倒れるようにして座る。
 彼は座った私に目線を合わせるように跪き、そして、

 

 おもむろに私の左手にまで手を伸ばした。

 

 それは、恐怖さえ感じるほど。
 本当に、何をされるのか分からない戦慄。
 彼が私の左手を器用につかむ。そして、その手袋にまで手をかけられて、
 やっと私は、抵抗する、ということを思い出した。

 

「いっ、やだ、苗木君…離して…!」
 必死にもがき、腕を振りほどこうとするけれど、やはり彼の力には敵わない。
 暴れても暴れても。故意ではないけれど、振り回した足が彼の腹を蹴り飛ばしてしまっても。
 彼は決して、私の腕を、私の罪を、離そうとはしなかった。

 

 ぐい、と、手袋に指がかかる。
「いや、だっ…!!見ないで、苗木君!お願いだから…許して、苗木君っ…!」

 

 涙が出そうになる。
 なぜ?どうしてこんなことをするの?嫌がらせ?
 それとも、とうとう堪忍袋の緒が切れたのか。私が彼に、的外れに怒鳴り散らし、罪悪感をなすりつけたから。

 

 私が思索を進める間にも、彼は器用に左手の手袋を取り去った。

 
 

 そして、彼は私の汚れた両手を手にとって、

 
 

 それを、自分の両頬に押し当てた。

 
 

――なに、を、してるの…?
 尋ねようと口を開くけれど、言葉が出ない。
 私の体から、抵抗という概念を失ったかのように、力が抜けていった。

 

 私の素手を、自分の両頬に当てるだけ。言葉にすれば単純なその行為は、それは、
 私が今まで最大の禁忌としてきた行為を、体現していることに他ならなかった。

 
 

「なえぎ、くん…?」
 力なく、喘ぐように、私の口からこぼれおちた、彼の名前と、それに続く泣きごと。

 

 だめだよ。
 きたないよ。
 うつっちゃうよ。

 

 幼児退行でもしたかのような、情けない語り口だ。
 おそらく後で思い出して、顔から火を吹く思いをするのだろう。
 けれど、そんな目も当てられない私のざまを見て、彼はあやすように囁いた。

 

「誰かが、そう言ったの?」
 だって、私の手、汚いから。
「汚くなんかないよ」
 呪われているから、呪いがうつっちゃうよ。

 

「…絶対、そんなことない」

 

 少しずつ、苗木君が私の手を握る力が緩んでいく。
 けれど、不思議と私は、彼の頬に触れる私の手を、引き離すことができなかった。
 そうしなければ、ならないのに。触れていてはいけないのに。
 だって、きたないから。うつっちゃうから。

 

「…霧切さん」
 言い聞かせるような彼の声は、幾分か鼻にかかったような音をしていた。
 今にも泣き出しそうな声で、けれどそれを必死にこらえていた。
 目は潤むけれど、力を入れて、それが零れおちないように、じっと私を見つめていた。

 

「…さっきも言ったよね。
 この手は…火傷の痕は、霧切さんがどう思おうと、霧切さんが戦ってきた証だ。
 僕は、凡人だ。戦いとか、何も知らずに安穏と生きてきた。
 だから、戦ったことのない僕には、この手を『尊敬』することはできても、汚れていると思うことはできない。

 

 目に見える姿形に囚われて、馬鹿にするやつらの方が、何倍も醜くて、何倍も汚いんだよ」

 
 

 やめてよ。
 だめだよ。
 私に、私なんかに、優しい言葉を投げかけないで。
 汚れた私が、あなたのそばに――

 
 
 

「汚れてなんかない――!!!」

 
 

 苗木君が叫んだ。

 

 恐ろしいほど、怒気に満ちた声だった。
 彼がこれほどまで感情的になったのは、見たことがないというほどに。
 なのに、そんな彼の表情は、

 

「汚れてなんか…いないんだっ…!」

 
 

 初めて私の素手を見た時と同じくらい、絶望に満ちた悲しい表情だった。

 

 つ、と彼の頬を、さんざん溜められた涙が、ようやくか、とでもいうように、ゆっくり伝う。
 涙は私の手に当たり、そこから言い知れぬ感覚が、ず、と私の中に入り込む。

 
 

「拒み続けることが、どれほど辛いのか…っ、僕には、わからない…」
 彼は言葉を紡いだ。
 その間にも、涙は一粒、また一粒と、私の指を、掌を濡らす。
「よく、耐えてきたね…」

 
 

 涙が触れた火傷の痕から、温かい彼の感情が、私の中に流れ込んでくるようだった。

 

「…馬鹿ね」
 彼の温かさが、ゆっくり、ゆっくりと、

 

「なんであなたが泣くのよ…」
 私の中の氷を、溶かしだしていく。

 

「ゴメン…僕が、泣いちゃいけないって、わかってるのに…っ」
 溶けだした氷は水になり、

 
 

「ほら、さっきも言ったでしょう…的外れな謝罪は止めてって…
 だってあなたは、何一つ、悪いことなんてしていないのよ…」

 
 

 ゆっくり、ゆっくりと、
 私の目から、溢れだした。

 
 
 

「ごめんなさい、苗木君…」
 私は壊れた人形のように、
「ごめんなさい、ごめんなさい…!」
 止まらぬ涙を流し、彼に謝り続けた。
 そして、最後に一度だけ、
「ありがとう…」
 と、涙でぐしゃぐしゃになっただらしのない顔で、私は告げた。

 

 ダメだ。彼から離れることなんて、もう私にはできない。

 

 だって彼は、この右手の罪を、罪じゃないと言ったから。
 だって彼は、この左手の汚れを、汚れじゃないと言ったから。
 だって彼は、この両手の醜い火傷の痕を、私の誇りに変えてくれたから。

 

 離れる理由を、側にいるための動機に変えられてしまっては、どうしようもないじゃないか。

 
 
 

 そのまま、私たちはお互いの顔を見ながら泣いた。

 

 彼の手が私の手を掴むのをやめても、私は彼の頬から手を離さなかった。
 その代わり彼は、自分の手を私の頬へと触れさせる。
 優しく両頬を包まれて、思わず私はどきりとする。

 

 しばらくそうして、互いの泣き顔に手を添え、私たちは見つめ合う。
 ぐ、と苗木君が顔を近づけた。
 いいのだろうか、こんな――

 

 いや、もういい。もう、考えるのも面倒だ。
 ただ、この幸せを享受すればいい。

 

 そして私は、ゆっくりと目を閉じた。

 

エピローグ

 
 
 

 情緒不安定、という言葉を当てては失礼かもしれないけれど、それはめまぐるしい表情の変化で
 きっと僕に傷を見られたのがショックで、霧切さんは初めて僕の前で怒り、泣いた。それなのに、

 

「ふふ、もしかして、苗木君のファーストキス、頂いちゃったのかしら」

 

 その、キス、を終えた後の霧切さんは、いつもの霧切さんに戻っていた。

 

「ええっ、その、えーと…」
「ねえ、答えて苗木君。答えられないということは、初めてじゃないのかしら?」

 

 いつもの霧切さんとはどういうことか、というと、本当にいつもの霧切さんで、
 ミステリアスな笑みを浮かべ、意地悪な質問をぶつけて困る僕を見ては、それを面白がる霧切さんのことだ。

 

「な、なんでそうなるのさ!」
「慌てる、なんて、ますます怪しいわね。そう、私としては構わないけれど、少し残念だわ。
 せっかく私の初めてのキスを捧げたのに、苗木君にとっては、このキスはそれほど貴重なものではなかったのね」

 

 手袋を再びつけてしまったのは少し残念だけれど、こればかりはしょうがないと思う。
 やはりまだ、人目に触れるには抵抗がある、と、彼女は言ったから。

 

「え、は、初めて…霧切、さんも…?」
「あら、意外?というか、私にキスをしようとしたモノ好きなんて、あなたが初めてよ、苗木君。
 そして私も、ということは、苗木君も初めてだったのね。
 でも…意外ということは、苗木君の目には、私は誰とでもキスをするような淫らな女に写っていたのね。ショックを隠せないわ」

 

 それでも、少しずつだけど、僕の前では手袋をはずす努力をする、とも約束してくれた。
 色々と気障なセリフをぶつけてしまった気もするけれど、彼女の前進に携われたこと。今は、それを誇りに思う。

 

「もう…アレだけ勇気を出したのに、どうして僕だけ恥ずかしい思いをするんだよ」
「…何を言っているの、苗木君」

 

 僕たちは今、彼女のベッドの上に並んで座っている。
 手袋に包まれてはいるけれど、互いの手を、しっかり握って。

 

 霧切さんは、そこで数秒だけ口を閉じ、それからみるみる顔を赤らめた。

 

「わ、私だって…」
「え?」
「私だって、ちゃんと、恥ずかしかったわ…」

 
 

 そういうと、彼女は顔を赤らめたまま、つ、とそっぽを向いてしまった。

 

 ああ、ダメだ。これからも僕は、彼女のペースに振り回されっぱなしだ、と、ここで改めて確信する。
 だって、そんな彼女の恥ずかしがる素ぶりに当てられて、
 きっと今の僕の顔は、一段と真っ赤に染まってしまっているだろうから。

 

 気まずい沈黙を打破するため、僕はこの部屋に来た、もう一つの目的を彼女に告げた。

 

「実は、手袋と謝罪のほかにも、まだ霧切さんに用事があったんだよね」
「そ、そうなの?」

 
 

「約束したでしょ。霧切さんの手作りのロイヤルミルクティ、飲ませてくれるって」
「…ええ、そうだったわね」

 

 穏やかにほほ笑んだ彼女の手を取り、僕は霧切さんと食堂へ向かう。

 
 
 

 途中で遠征から帰ってきた朝日奈さんたちに、手を繋いで歩いているところを見つかって、
 これでもかというくらいに冷やかされるのだけれど、その時の様子まで事細かに書くのは、
 さすがに僕のか弱い羞恥心では、耐えられそうにない。

 
 

 だって、彼らが冷やかす間も、顔を真っ赤にして言い訳を並べながら、
 彼女は僕の手を、離そうとはしなかったんだから。