エミール・デュルケーム

Last-modified: 2014-05-06 (火) 22:59:52
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アンチ・ファミリーの4th。だが、鯖統合のおかげでもうすぐN鯖へと飛び去る。

名前の由来

フランス社会学の祖、ユダヤ系フランス人エミール・デュルケームから。現在では、古典と称されることもあるが、今でも読む価値は十分ある精力的研究を残す。

エミール・デュルケームとは

エミール・デュルケームは1858年4月15日、フランスのロレーヌ地方にて生まれる。デュルケームが成人するころ、1880年ごろから全ヨーロッパにて反ユダヤ人運動が広まった。それは、ユダヤ人が金権政治の擁護者と考えられたためである。

高等師範学校(エコール・ノルマル)時代、デュルケームは「メタフィジシャン」(哲学者・形而上学者)とあだ名され、理屈を通すまじめな学生として知られた。リセで哲学教師を務めた後、1887年にボルドー大学講師、1896年には同大学にてフランス最初の社会学講座が設けられた。デュルケームはすぐれた教師であるとともに、研究者としても名声が高かった。1898年に雑誌『社会学年報』が創刊され、デュルケームと彼に共鳴する考えをもつ仲間が集い、「社会学主義」を実践した。1902年にはパリ大学ソルボンヌ校に移った。

デュルケームは政治論争には参加しなかったが、フランス第三共和国のさまざまな欠陥の改善に心をとめる。アノミー状態を修正するための社会統制の必要性を強調し、国家と個々人の間の中間団体・中間組織の強化を目指したのであった。換言すれば、結社の自由の回復を図ったともいえよう。

生前の主著は『社会分業論』『社会学的方法の規準』『自殺論』『宗教生活の原初形態』。
他にも『道徳教育論』など後世に影響を与えた書を残す。

その思想的源泉は、ジャン・ジャック=ルソーシャルル・ド・モンテスキューそして、シャルル・ルヌーヴィエを媒介とした、イマヌエル・カントの3人。

デュルケームの思想的痕跡

デュルケームの社会思想は、多くの人に影響を与えた。多くの人がいるので書ききれないが、その一例を挙げておこう。

まず、デュルケームの甥で日本では『贈与論』の著者として知られる社会学者・民族学者の「マルセル・モース」がいる。彼はデュルケームの直接の弟子といっていい存在で、その独特の社会思想はフランスの思想界にも大きな影響を与えたと言われる。

また、機能主義人類学を切り開いたマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンも忘れられない。この二人はライバル同士であり、異なった側面も強いが、共通点も多くある。デュルケームが社会の効用(機能)とその原因を峻別した点から受けた影響は極めて大きいと言える。また、社会的事実や社会構造・構造といった概念を物として扱うようした点にも、彼らは忠実であった。

そして、構造主義人類学者のレヴィ=ストロースにも大きな影響を与えたのもたしかである。デュルケームの社会構造・集合表象といったものでは、たしかに無意識的なものとは明示されていなかったが、無意識的なものも当然含意しているため、レヴィ=ストロースの「構造」という概念に与えた影響は大きいと言えよう。