加熊別村(かくまべつむら)
データ
| 開拓ページ | https://any.chi-zu.net/18912.html |
| 所有者 | 岩代磐城 |
| 地方 | 北海道地方 |
| 都道府県 | 北海道 |
| 郡 | 占守郡 |
| 人口 | 人口を参照 |
| 面積 | |
| 人口密度 |
概要
地理
・千倉岳
海抜 1,816 メートル、ロシア名:チクラチキ山 влк.Чикурачки、英語表記:Chikurachki
千倉岳は、千島列島全体を合わせると阿頼度島の親子場山(同:アライト山 влк.Алаид 2,339 メートル)と国後島の爺爺岳(同:チャチャ山влк.Тятя 1,822 メートル)に次いで第3位の高さである。
山の麓にはミヤマハンノキが密生しているが、中腹ではキバナシャクナゲが群生している。
1690年の10年前後、1853年、1859年、1933年に噴火して以降、1957年 - 2008年の間に数年間隔で噴火している。
歴史
先史時代から千島アイヌが先住していた
1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。
1711年、ロシア人ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ(Данила Яковлевич Анцыферов)とイワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキー(ロシア語版)(Иван Петрович Козыревский)が上陸し、納税(毛皮の献納)を求めるが、拒否される。
1713年、コズイレフスキーは幌筵島に上陸し、毛皮を取り立てた。
1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
1747年、修道司祭イオアサフは千島に渡り、占守島・幌筵島の先住民のアイヌに布教を試みた。
1804年(文化元年)7月18日、継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名が東浦に漂着。
1855年(安政元年)、日露和親条約によりロシア領となる。
1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約により日本領となる。北海道 (令制)千島国占守郡(現在の北海道根室振興局管内)に属した。
日本領だった時代には、加熊別、村上、摺鉢などには集落、鮭や鱒の製缶工場があり、駐在所や郵便局(季節開業)も置かれて、漁業シーズンには季節労働者で賑わっていた。
擂鉢は島の中部に位置し、擂鉢湾と擂鉢山(標高 84 メートル)がある。南側には武蔵湾と呼ばれる長い砂浜が続く。
当時の行政区画では北海道根室支庁管内の占守郡に属し、夏期期間には函館や小樽から命令航路の船が通い、柏原湾や加熊別、占守島の片岡湾などに寄港していた。
1919年(大正8年)、逓信省が幌筵[7]無線電信局JHJを開設[8]。以降、毎年鱒漁シーズン(4月-9月)に限定して開設され、北海道の落石無線電信局JOCを経由して一般電報を交換した。
1942年(昭和17年)までJHJは幌筵島塁山に置かれたが、翌年より幌筵島スリ鉢湾に移された。
1933年(昭和8年)、幌筵島塁山に最初の水路部気象観測所が開設された[9]。
1940年(昭和15年)、陸軍によって北千島臨時要塞が建設され、海軍も逐次、飛行場を整備していった。
1941年(昭和16年)、6月の独ソ戦開戦以降、陸海軍共に千島列島に実質的な部隊配備を始める。陸軍は北千島に展開する兵力を1個連隊規模へ増強、海軍は第五艦隊を改めて編成し、千島列島から小笠原諸島までの日本本土東海の警備を担当させた。
太平洋戦争中、北から侵攻するであろうアメリカ軍に備えるため、柏原(現在のセベロクリリスク)の高台を含め、日本軍の飛行場や地下に掘られた病院が造られていた。現在、どの場所も廃墟や残骸が残るのみである。
1943年(昭和18年)、アッツ島守備隊の玉砕とキスカ島守備隊の撤退により北千島は対米防衛の最前線となり、既配置部隊にキスカ島撤退部隊及び内地からの増強部隊を合わせて、陸軍の北千島守備隊は師団規模に増強された。海軍は第五艦隊を支援するため第十二航空艦隊を創設、そして第五艦隊と第十二航空艦隊を統括指揮する北東方面艦隊を編成した。
海軍は一式陸上攻撃機30機、零式艦上戦闘機15機、二式水上戦闘機12機、零式水上観測機8機、零式水上偵察機8機、さらに零式水上偵察機6機を搭載する君川丸 (特設水上機母艦)を配置していた。
7月、アメリカ軍は奪還したアッツ島に設営した飛行場へ第11空軍を進出させ、B-24、B-25による空襲が始まる。陸軍は一式戦闘機23機装備の飛行第54戦隊を派遣し、防空任務に加わった。
1944年(昭和19年)、千島方面防衛のため第27軍司令部が択捉島に新設され、北千島には戦車第11連隊を含む兵力が増強される。既配置の部隊と増強部隊を合わせて、占守島と幌筵島に第91師団が編成される。
1945年(昭和20年)に入ると本土決戦準備のため、陸軍航空部隊と海軍部隊のほとんどが内地に転用される。第91師団からも多くの部隊が抽出されて内地へ移されて、師団の任務は「幌筵海峡周辺地区及び占守島の要域確保」と変更されて終戦時まで占守島及び幌筵島に配置されていた。なおこの転用のための海上移動中に多くの部隊が、米軍の空襲、潜水艦の魚雷攻撃、艦砲射撃等で損害を受けている。
第二次世界大戦で日本が降伏すると、ソ連軍に占領される。
1946年(昭和21年)、GHQ指令第677号により、日本の施政権が正式に停止されると、ソ連は自国に編入した。
1951年(昭和26年)、日本はサンフランシスコ講和条約で同島の領有権を放棄した。
1952年11月4日、カムチャツカ地震による高さ25メートル程の津波に襲われ、甚大な被害を受ける。
現在のセベロクリリスク(日本名:柏原)が標高250メートル程となる山裾にあるのはこのため[10]。
1960年頃になると、拿捕された日本人や、病院に入院する日本人が相次いだ。
1991年(平成3年)、ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
日本政府は国際法上は帰属未定地との立場を取っている。
詳細は「千島列島#領土問題」を参照
なお、ソ連崩壊後は物価の急上昇などで生活に不便が生じ、島を去る人が後を絶たず、島の集落は寂れている。
