http://wikiwiki.jp/wowp/ ※こちらへ移転しました※
ゲーム内画像
性能一覧
| 耐久値 | |
|---|---|
| 重量(kg) | |
| 火力 | |
| 対気速度(km/h) | |
| 海面速度(km/h) | |
| 最適速度(km/h) | |
| 最適高度(m) | |
| 最大降下速度(km/h) | |
| 失速速度(km/h) | |
| 上昇率(m/s) | |
| 機動性 |
解説
史実
F4U コルセア (F4U Corsair) は、アメリカのチャンス・ヴォートが開発し、第二次世界大戦と朝鮮戦争でアメリカ海軍と海兵隊が使用したレシプロ単発単座戦闘機である。
ヴォート社の他にグッドイヤー社とブリュースター社でも生産され、グッドイヤー社製の機体はFG、ブリュースター社製の機体はF3Aという制式名称が与えられた。
また、AUという呼称がある攻撃機型も存在する。
ブリュースター F2A バッファロー艦上戦闘機などの後継として航空機メーカーのチャンス・ヴォートが1938年2月に開発を開始した。
Corsair:コルセアとは海賊の意。
1938年2月にアメリカ海軍が、戦闘機の開発要求を出し、チャンス・ヴォートは4月に1,200馬力級エンジンを搭載するV-166A案と2,000馬力級エンジン搭載のV-166B案を提出した。
当時、戦闘機用エンジンの主流は1,000馬力以下であったが、6月11日にV-166B案がXF4U-1として、海軍より試作発注がなされた。当時としては大きさも怪物級であり、海軍で一番大きなプロペラをつけた、海軍一重たい艦上戦闘機となった。
初飛行は1940年5月29日である。
試作機XF4U-1は一度墜落事故を起こしているものの、時速650kmを記録するなど、性能は良好であった。量産型F4U-1の初飛行は1942年6月25日である。
機体は完成したものの、F4F ワイルドキャットの後継機としての座はF6F ヘルキャットに譲っている。失速挙動が危険・前方視界が不十分・プロペラブレードが長く下手をすると着艦(着陸)時に甲板(地上)にプロペラを打ち破損する可能性がある、といったものがその原因であり、すでに艦上での実績と戦果もあるF4Fの設計改良版であるF6Fのほうが信頼性に優れるため、ということだったようである。
このことから一部の意見では「航空母艦に搭載される為の機体設計をしなかった欠陥機」との意見もある。
航空母艦への着艦が難しいとの評価が下されると、初期生産機はすべて海兵隊に引き渡され、陸上機として運用された。この機体は主に太平洋戦線に現れ、初陣で零戦に「セントバレンタインデーの虐殺」と呼ばれる敗北を喫する。
日本側搭乗員からF6Fは手強かったという証言が多かったのに対し本機はそれほど苦手意識は持たれていない。
本機は加速性能はいいが上昇率は高くなく最適上昇速度も232km/hと低い。
運動性は高速時のエルロンの利きはいいが低速時は悪く、ラダーも重くてスピンからの回復が困難など問題を抱えていた。
このような問題があるためベテランの乗る零戦なら十分互角以上に戦うことが出来た。アメリカ側でも運動性のいい日本機相手ならF6Fの方がいいというパイロットが多かった。
太平洋戦争末期からはようやくアメリカ海軍の空母でも運用が開始され、持ち前の空戦性能を生かしての空中戦に加え、その馬力を利用した爆装も可能であり、戦闘爆撃機としての運用も行われ、硫黄島や沖縄などを攻撃している。
なお、本格的に空母に搭載されるようになったのは、初の本格的な戦闘爆撃機型であるF4U-1Dからである。もっとも元日本軍側搭乗員に対する戦後のインタビューでの回答では、多くの場合F6F程手強い存在とは認識されていなかった。
事実、本機の初陣「セントバレンタインデーの虐殺」で零戦と性能差があるはずにも関わらず日本側が一方的に屠った事から、日本軍側には「ヘルキャットよりも落としやすい」機体だったのは確かであった。
しかしながらこの戦果は操縦者の技量による所もあり、大戦初期の日本軍は十分に時間をかけて訓練した熟練操縦者が中心であったが、後期以降は短期育成した新兵の比率が高くなっていた。
太平洋の戦場だけでも、F4Uは64,051回出撃して、2,140機の日本軍機を撃墜しながら、F4U自体は189機を失ったのみであり、キルレシオは1:11.3である。
この撃墜率は、航空戦の歴史の中でも類のない実績である。
もっともこうした空戦記録は、アメリカ海軍に限った話ではなく、自軍の戦果を過大に見積もる傾向がある。実際には撃墜していない敵機を、撃墜したと誤認する場合が多いためである。
例えば1945年3月19日に生起したF4U、F6F、SB2Cから編成された米艦上機160機と、第343海軍航空隊の紫電改58機との空戦では、米軍は撃墜50、日本軍は撃墜58を主張した。
実際の損害は、米軍14機喪失、日本軍15機喪失にすぎない。
しかしながらそれを勘案しても、F4Uが日本機に対して優勢だったのは事実である。ただし、F6Fが日本軍機相手に記録した1:19には及ばない。
戦後はアメリカの同盟国に供給され、ラテンアメリカ諸国では長らく現役の座にあった。1969年のサッカー戦争においても使用され、レシプロ戦闘機同士の最後の空中戦を行った。
同年7月17日、ホンジュラスとエルサルバドル国境付近で起きた2度の空中戦において、ホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト大尉が操縦するF4U-5が、エルサルバドル空軍のF-51D 1機とFG-1D 2機を撃墜。
ソト大尉は『最後のコルセア・ライダー』としてミリタリーファンによく知られる存在である。
当機はエンジンの交換、電子ポッドの装備など、数多くの派生型が存在している。
これは当機が大型であった上、馬力にもかなり余裕をもって設計されているためにできたことであり、当機の設計の優秀さを物語っている。
出典
F4U Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/F4U_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

