注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(織田家・天下布武以降)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
桶狭間の戦いで今川義元を討って一躍武名をあげた尾張の大名織田信長?は、足利義昭の求めに応じて上洛を志し、
義昭の求めに応じなかった美濃の斎藤龍興を追い落として濃尾を領する大大名となり、足利義昭を伴って上洛した。
義昭を輔弼して天下布武(天下静謐)を志すも、当時14代将軍である足利義栄を擁していた三好三人衆や、足利義昭の甥である若狭武田氏の武田元明を幽閉して足利家と対立していた
朝倉義景らによって将軍義昭、輔弼者信長を追討せんとする、「幕府包囲網」が形成される。織田信長は約2年かけてその勢力を概ね削り取るも、三好義継や本願寺顕如、武田信玄、
ついには幕府の将軍であるはずの足利義昭が、反体制の主導であった包囲網側に同調するに至り、ここに俗に言う、「信長包囲網」と相成った。
だが、織田信長は快進撃を続けて浅井、朝倉、三好と敵対勢力を次々に撃破、併呑し、1573年には将軍である足利義昭を追放。
1575年には精強を誇った武田軍を長篠の戦いで完膚なきまでに打ちのめし、名実ともに天下第一の勢力という地位を不動のものとした。
同年には右近衛大将に叙任され、足利義昭の官位を上回った。これに激怒した足利義昭は、今度は自ら主導して「信長包囲網」を再び形成。
上杉謙信や毛利輝元、武田勝頼に北条氏政、本願寺顕如に松永久秀を抱き込み、勢力連合して織田信長を倒さんと志す。
しかし織田信長の快進撃を止められるものはいなかった。上杉謙信が病没する頃には既に帰趨は明らかで、最終的に北条氏政が離脱して織田信長と結びつき、
本願寺は降伏し、松永久秀と武田勝頼は信長に攻め滅ぼされ、毛利と長宗我部が和睦に奔走し、上杉は風前の灯という結末を辿る。
1582年、関東東国を支配下におき、東は奥羽、西は九州までその勢威を伸ばし、多くの勢力を従えた織田信長に朝廷は三職推任の案を出したが、
同年6月2日、織田信長は天下統一を目前にして重臣である明智光秀の謀叛に斃れた。世にいう「本能寺の変」で、天下は再び急を告げるのであった。
織田信忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 親愛 | |||||||||
81 | 74 | 72 | 70 | 86 | 神将 | 勇将 | 掃討 | 果敢 | 崩壁 | 陥陣営 | 気炎万丈 | 激励 | 鉄壁 | 牽制 | 奮戦 | 三軍強化 | 織田信長、織田秀信、森長可 |
81 | 74 | 72 | 70 | 86 | 勇将 | 崩壁 | 果敢 | 柱石 | 功名 | 陥陣営 | 奮戦 | 激励 | 鉄壁 | 牽制 | 奮戦 | 三軍強化 | 織田信長、織田秀信、森長可 |
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 親愛 | |||||||||
81 | 82 | 70 | 64 | 86 | 神将 | 勇将 | 掃討 | 果敢 | 崩壁 | 聡明剛毅 | 気炎万丈 | 激励 | 鉄壁 | 牽制 | 奮戦 | 三軍強化 | 織田信長、織田秀信、森長可 |
81 | 82 | 70 | 64 | 86 | 神将 | 勇将 | 掃討 | 果敢 | 崩壁 | 陥陣営 | 気炎万丈 | 激励 | 鉄壁 | 牽制 | 奮戦 | 三軍強化 | 織田信長、織田秀信、森長可 |
合計能力値は同じ。織田信長の息子というだけあって、26歳で死没したにも関わらず軍功や武勇の逸話が多い。本能寺の変の際には、数多の敵兵を斬って奮戦したため、そちらを重視
【オダノブタダ】
織田信長の長男。浅井朝倉との戦いで初陣を飾り、以降織田軍の中核として各地を転戦する。
1575年に織田家の家督を継ぎ、毛利家、武田家などとの戦闘を行った。
その後荒木、松永、本願寺など畿内敵対勢力の掃討を行う。
1582年の武田征伐では武田家を滅ぼす功績を打ち立て
信長から「天下の儀も御与奪」と表明されるなど将来を嘱望された。
本能寺の変の際に京におり、明智軍に自ら敵を斬りつつも奮戦するが、衆寡敵せず自害した。
剛毅果断な武将と言われ、建勲神社では実父の織田信長とともに、神として祀られている。
織田信房
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
59 | 67 | 51 | 50 | 56 | 潜在 | 英名 | 人脈 | 護衛 | 名声 |
【オダノブフサ】
織田信長の五男。「織田勝長」とも。幼名は源三郎。
遠山氏の未亡人だった信長の叔母からのたっての願いとして遠山氏の養子となるが、
武田信玄配下の秋山虎繁の攻撃により、居城である岩村城が落城、源三郎も人質として武田家へ向かった。
以後、幼年期を武田家で過ごしたが、勝頼による織田との和睦交渉の一環で織田家へと戻る。
その後は織田信忠つきの家臣として犬山城を与えられるという破格の待遇で迎えられ、甲州征伐でも高島城を占拠し、上野懐柔にも功をあげた。
だが、本能寺の変の際に織田信忠とともにあり、兄に殉じた。
織田信包
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 62 | 67 | 76 | 61 | 補佐 | 名声 | 柱石 | 築城 | 強運 |
【オダノブカネ】
戦国時代~江戸時代初期の武将。織田信長の実弟。織田信秀の四男。
兄の信長の勢力拡大に伴い、伊勢長野氏の養子となってその家臣団を糾合。反対する細野藤敦を追放して家中を纏めた。
以後、織田軍各地の合戦に参加し、主に甥であった織田信忠、織田信雄を補佐。天正御馬揃えでは織田信忠・織田信雄に次ぐ序列であった。
本能寺の変後は、織田信雄・織田信孝との争いに与せず静観。のち羽柴秀吉を支持し、豊臣秀吉の天下統一事業にも貢献した。
一時期領土を減らされるが、変わらず秀吉に忠誠を貫き、関ヶ原の戦いも西軍として参加したが、所領は安堵された。
豊臣秀頼を補佐するも、大坂の陣直前に病没。お市の方や土田御前らを保護していたと言われる。
補足:信長の野望では最新作に進むに従いイマイチパッとしない能力になっていく。殊に知略系の低さは謎である。信長、秀吉、家康から重鎮、ないしそれに準じる地位を与えられているのだが・・・
織田信張
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
66 | 61 | 63 | 77 | 59 | 補佐 | 名声 | 特使 | 慰撫 | 論客 |
【オダノブハル】
戦国時代の武将。織田藤左衛門家の出身。父は織田寛故。別名に織田寛廉。
織田信秀、織田信長と弾正忠家に早くから従い、信長の尾張統一などに貢献。
その後は尾張小田井城を領しながら、信長の叡山攻めや長島攻めにも従軍。
紀州雑賀討伐の後は蜂屋頼隆とともに和泉国を治め、主に紀伊の雑賀衆や
退去した本願寺第十一世である顕如との折衝を行った。織田信孝の与力として
来るべき四国征伐に備えるが、本能寺の変の勃発により中止。変後は織田信雄に仕え、
小牧長久手の戦いでも主軍の一角を成しつつ、長宗我部元親と交渉した。その後は生涯信雄に仕え、1594年大津で病没。
堀秀政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
85 | 72 | 79 | 88 | 78 | 洞察 | 機略 | 使役 | 能吏 | 補佐 | 千方百計 | 鉄壁 | 鼓舞 | 牽制 | 治療 | 斉射 |
別案(1桁数値ほどの若干上方修正。信長の野望を意識しつつ、名人久太郎の名にふさわしい万能武将へ)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
81 | 80 | 84 | 83 | 80 | 洞察 | 機略 | 使役 | 能吏 | 補佐 | 千方百計 | 鉄壁 | 鼓舞 | 牽制 | 治療 | 斉射 | ||
81 | 80 | 84 | 83 | 80 | 洞察 | 機略 | 王佐 | 能吏 | 補佐 | 千方百計 | 鉄壁 | 鼓舞 | 牽制 | 治療 | 斉射 |
【ホリヒデマサ】
戦国時代の武将。織田家臣のち豊臣家臣。「名人久太郎」の異名をとる。
織田信長に重用され、若干16歳にして足利義昭仮住まいであった本圀寺の普請奉行に任命される。
その後、奉行として活躍しながら各地の合戦に従軍。越前一向一揆や紀伊雑賀征伐、荒木村重討伐や伊賀征伐など
畿内における信長遊撃軍の中心的役割を担った。一方で織田秀信の守役を任され、本能寺の変直前には丹羽長秀とともに徳川家康を饗応。
その後、信長の命により備中にいる羽柴秀吉のもとへ向かった。本能寺の変後は前述の事情により羽柴秀吉へ加担。
清洲会議にも参加し、織田秀信を庇護している。賤ヶ岳合戦では柴田軍の猛攻を食い止め、逆に撃退する大功を立て、
小牧長久手の戦いでも別働隊として所属し、榊原康政らを破ったが、徳川家康・織田信雄連合軍の本隊と戦う不利を悟り、撤退。
以後も九州征伐などで変わらぬ活躍を見せ続け、豊臣秀吉から重用されたが、天下統一を間近に見た小田原征伐中に陣没。
蒲生氏郷
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
74 | 80 | 76 | 90 | 82 | 任才 | 驍将 | 眼力 | 文化 | 猪突 | 聡明剛毅 | 突撃 | 連弩 | 鼓舞 | 業火 | 斉射 | 先従隗始 | 覇道 |
別案(若干の上方修正。堀久に比べると万能ながら軍事型に。信長の野望では非常に強いが、織田家宿将の勇将達は上回らないようにした)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
83 | 85 | 80 | 81 | 80 | 任才 | 驍将 | 眼力 | 文化 | 猪突 | 聡明剛毅 | 突撃 | 連弩 | 鼓舞 | 業火 | 斉射 | 先従隗始 | 覇道 |
83 | 85 | 80 | 81 | 80 | 任才 | 驍将 | 眼力 | 文化 | 英名 | 聡明剛毅 | 突撃 | 連弩 | 鼓舞 | 業火 | 斉射 | 先従隗始 | 覇道 |
【ガモウウジサト】
戦国時代の武将。織田家臣のち豊臣家臣。織田信長の娘婿。
父の蒲生賢秀の差配により、織田信長の上洛戦の際に織田家に降伏。以後織田信長の家臣となった。
蒲生賢秀に従い各地の合戦に参加し武功を立て、織田信長の娘を娶った。
以降、信長の畿内遊撃軍の一員として貢献、安土城留守居を任される父に代わって一軍を率いた。
本能寺の変の際は信長妻子を保護し、明智光秀に抵抗。山崎合戦が終わると、織田秀信を擁立した羽柴秀吉に味方した。
賤ヶ岳の戦いでは滝川一益を攻囲し、小牧長久手の戦いでは織田信雄の所領を攻めており、戦後伊勢松阪を領している。
その後、九州征伐や小田原征伐にも従軍し、その功から会津92万石を領した。会津を整備する傍ら、朝鮮出兵にも従軍するが、1595年に病没。
丹羽長重
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 60 | 76 | 81 | 57 | 築城 | 柱石 | 再起 | 慈悲 | 人脈 | |||||||
68 | 60 | 76 | 81 | 77 | 築城 | 柱石 | 再起 | 慈悲 | 人脈 |
【ニワナガシゲ】
織田家家臣。丹羽長秀の嫡男。母は信長の姪、正室は信長の娘。
織田信長、ついでその事業を継いだ豊臣秀吉に仕え、若年の頃から賤ヶ岳、小牧に従軍して天下統一事業に貢献。
父長秀の死後、領土を大幅に減らされるが、九州征伐や小田原征伐で武功を上げて、12万石の領主となる。
秀吉の死後の関ヶ原合戦では西軍に所属、東軍の前田利長らに大勝したが、戦後、改易された。
その後大名として復帰し、大坂の陣では若江の戦いで奮戦。陸奥棚倉のち白河10万石の藩主となった。
晩年は伊達政宗、立花宗茂らとともに幕閣外様大名の重鎮となる。
補足:例によって信長の野望では殆ど評価されていない。それどころかなぜか政治が50を切っているなど誰かと間違えているのではないかと言いたくなるほどである。彼は父譲りの築城の名手であり、江戸幕府からも高く評価され、彼が築いた白河小峰城は日本100名城に選ばれている。
前田利長
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
62 | 60 | 84 | 86 | 81 | 慎重 | 振興 | 文化 | 沈着 | 察知 |
【マエダトシナガ】
織田家家臣。前田利家の嫡男。正室は信長の娘。加賀藩初代藩主。
織田信長に仕え、父である前田利家の能登入り以降は父の旧領であった越前府中を相続。
本能寺の変の際には、正室に娶っていた信長の娘を前田本領の荒子へと匿い、近江日野城で蒲生氏郷に合流し
明智軍を牽制した。変後は父に倣って柴田勝家につくものの、賤ヶ岳の戦いでは羽柴軍に敗れ(※)以降秀吉に降伏する。
越中征伐で軍功をあげ、父から独立して越中32万石を領し、以降九州征伐、小田原征伐にも貢献。
豊臣政権で重鎮となったが、秀吉及び利家の死後、家康の加賀征伐(※)の風聞により、母を人質に送って家康支持を明確化する。
関ヶ原合戦では家康に協調して越前に攻め上るが、大谷吉継の策によって退路を丹羽長重に絶たれ、金沢へ撤退した。戦後、加賀100万石の礎を築く。
補足:賤ヶ岳の戦いにおける前田軍の行動については諸説ある。当時、父である前田利家は能登一揆の対処に追われており、主軍は利長の軍勢であった。
前田軍は賤ヶ岳で大して戦わず背信行為を行ったと言われることもあるが、のちに前田家重臣となる横山家の横山長隆が殿で戦死しており一次史料でもそういった行動は見られない。
補足:徳川家康の加賀征伐について、従来の通説では家康が強権を発動して前田家を屈服させたとする向きが強かったが、前田に逆心ありと讒言したのはのちに西軍、石田三成派の一角を占める
五奉行の増田長盛である。前田利長及び連座したとされる浅野長政ともに、秀吉存命期から家康と親しい関係を築いており、この件は後に西軍となる五奉行派が、家康の力を削ぐ目的で前田・浅野と
戦わせようとした、いわゆる「二虎競食」の傾向が強い。実際、前田浅野ともに早期から家康との和平を探っており、わずか1ヶ月程度でこの騒動は収束している。関ヶ原合戦の際は双方とも東軍であった。
長谷川秀一
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 52 | 80 | 77 | 72 | 能吏 | 特使 | 護衛 | 血路 | 智嚢 | |||||||
53 | 52 | 80 | 77 | 72 | 能吏 | 特使 | 縦横術 | 覇道 |
【ハセガワヒデカズ】
織田家家臣。のち豊臣家家臣。初名を「長谷川竹」と言った。
織田信長に仕え奉行衆としてその力を発揮。菅屋長頼、堀秀政とともに信長側近衆の
有力格と目され、主に近江国の内政を担当していた。1582年には徳川家康の饗応を務め、
本能寺の変の際も家康の堺見学に同道していた。その後本国に戻る徳川家康の先導役を務め、家康を国元へ帰還させている。
以降、堀秀政らとともに信長重臣であった羽柴秀吉を支持、賤ヶ岳、小牧長久手、紀州征伐、
九州征伐、小田原征伐にも参加し秀吉の軍事活動を支えた。その功や出自もあり秀吉から重用され越前15万石を領している。
唐入り計画の前哨となった朝鮮の役に前後して、死没したと言う。
池田元助
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
69 | 83 | 59 | 48 | 79 | 豪傑 | 猛者 | 崩壁 | 頑健 | 名声 | |||||||
69 | 80 | 55 | 48 | 74 | 豪傑 | 猛者 | 鯨波 | 突撃 | 地勢研究 | 覇道 |
【イケダモトスケ】
織田家家臣。のち豊臣家家臣。池田恒興の長男で織田信忠・森長可の義兄弟にあたる。「之助」「信輝」とも。
父の恒興に従い美濃明知城戦で初陣を飾る。信長の覚えめでたく重用され、荒木元清の籠る花隈城を
弟の輝政とともに攻略した際、名馬を下賜された。以後、信長政権下では父の恒興と離れて行動し、
羽柴秀吉とともに淡路を攻略、戦後もそこを防衛した。その後、甲州征伐の際には池田軍の
総指揮官として織田信忠を補佐。本能寺の変後は秀吉に従い、その後岐阜城を防衛した。
しかし小牧長久手の戦いにおいて、徳川家康と織田信雄の軍と戦い、戦死。家督は九死に一生を得た弟の輝政が継いだ。
親愛武将:織田信忠 森長可
池田輝政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 72 | 65 | 71 | 83 | 寡欲 | 運搬 | 築城 | 改修 | 輿望 | 城壁拡張 | 王道 | |||||
80 | 72 | 65 | 71 | 83 | 崩壁 | 強運 | 築城 | 改修 | 輿望 | 城壁拡張 | 王道 | |||||
80 | 72 | 75 | 81 | 83 | 崩壁 | 強運 | 築城 | 改修 | 輿望 | 城壁拡張 | 王道 |
【イケダテルマサ】
織田家家臣。のち豊臣、徳川家家臣。池田恒興の次男。のち徳川家康の娘婿。
信長の側近として仕え、荒木村重攻めでは自ら前線に立って敵を倒し、信長から感状を授けられた。
本能寺の変後は父に従い羽柴秀吉に味方し、信長葬儀では羽柴秀勝とともに信長の棺を担いだ。
その後、小牧長久手の戦いで父と兄が戦死すると家督を相続、秀吉の天下統一事業に貢献して美濃大垣、ついで三河吉田15万石を領した。
豊臣秀吉の死後は義父の徳川家康に接近、東軍の主軸を成して関ヶ原の戦いに参戦。元岐阜城主ということもあり、岐阜城攻略、その後の関ヶ原で大功を立てた。
戦後は播磨姫路52万石を領し、一族あわせて90万石以上の領土を有する池田家繁栄の祖を築いた。
長岡藤孝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
70 | 86 | 87 | 93 | 80 | 洞察 | 遠矢 | 詩想 | 文化 | 人脈 | 怪力無比 | 斉射 | 足止 | 鎮静 | 太学 | 王道 | |
70 | 86 | 87 | 88 | 86 | 沈着 | 名声 | 詩想 | 文化 | 人脈 | 怪力無比 | 斉射 | 足止 | 鎮静 | 太学 | 王道 |
【ナガオカフジタカ】
戦国時代の武将。足利家家臣、のち織田、豊臣家臣。「細川幽斎」とも。細川忠興は実子。*1
幕臣だった三淵晴員の子として生まれ、始め足利義輝に仕えた。永禄の変で足利義輝が弑逆されると、兄の三淵藤英らとともに
僧籍に入っていた足利義昭を救出。朝倉義景、ついで織田信長を頼り、義昭の15代将軍就任に奔走している。
その後足利家臣として幕政に関与していたが、義昭と信長の対立が深刻になると、兄と離れて信長方へと属す。その後、足利義昭が
追放されても変わらず信長に仕えつづけ、織田信長のもとで各地の合戦に参加し功を立てた。本能寺の変後は明智光秀の誘いを断り、
のち羽柴秀吉に味方して豊臣秀吉の天下統一事業にも貢献した。関ヶ原の際には東軍に属し田辺城に籠城したが、和睦により退去。
その後隠居した。古今伝授に通暁し、当代随一の教養人とされ、公武問わず多数の人間と交流をはかっていたと言われている。
細川忠興
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 75 | 80 | 81 | 63 | 怒髪 | 文化 | 人脈 | 医術 | 癇癪 | 火矢 | 連弩 | 罵声 | 太学 | 割拠 | ||
72 | 75 | 80 | 81 | 63 | 怒髪 | 文化 | 人脈 | 医術 | 果敢 | 火矢 | 連弩 | 罵声 | 太学 | 割拠 |
【ホソカワタダオキ】
戦国時代の武将。織田家臣、のち豊臣、徳川家臣。明智光秀の娘婿。父は永岡藤孝。
織田信長・織田信忠親子に仕え、信忠の「忠」の字を偏諱に受けた。紀州雑賀征伐で初陣をはたし、
その武勇を信長に評価された。信貴山城攻略でも最前線で戦い、武功を立てている。この頃から父そして明智光秀と
ともに行動し、丹後征伐ののちに信長の仲介で明智光秀の娘と婚姻。天正御馬揃えにも若年ながら参加している。本能寺の変後は
明智光秀に加担せず、父とともに領国防備につとめ、戦後は羽柴秀吉に味方して丹後の一色氏を滅ぼした。その後は豊臣家家臣として
秀吉の天下統一事業に貢献。朝鮮出兵でも渡海し、朝鮮晋州城を攻略している。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、
関ヶ原本戦でも大功を立て、戦後豊前33万石を領した。大坂の陣でも徳川方として従軍し、加藤清正の息子であった忠広の後任として戦後熊本54万石を領した。
以後は三男の忠利に家督を譲って隠居し、1646年死没。
稲葉直政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
62 | 81 | 57 | 54 | 60 | 人脈 | 頑健 | 護衛 | 調練 | 掃討 |
【イナバナオマサ】
織田家家臣。稲葉一鉄の四男または五男。稲葉彦六。
織田信長の家臣として、父一鉄、兄貞通らとともに仕え、織田信長、織田信忠に近侍した。
信長に従い足利義昭攻めで初陣。その後は織田信忠に従い長島討伐や越前討伐などにも従軍した。
1582年の甲州征伐では森長可と協力して北信濃方面に従軍。親族とともに敵対勢力を平定した。
本能寺の変後は羽柴秀吉の馬廻となり、父である稲葉一鉄の側室の実家である土井家を継いだ。晩年は庶長兄の稲葉重通に仕えた。
団忠正
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 91 | 52 | 68 | 75 | 疾走 | 掃討 | 崩壁 | 果敢 | 猪突 | 疾風迅雷 | 突撃 | 連弩 | 鋒矢強化 | 名利 | ||
63 | 89 | 52 | 68 | 75 | 疾走 | 掃討 | 崩壁 | 果敢 | 猪突 | 疾風迅雷 | 突撃 | 連弩 | 鋒矢強化 | 名利 | ||
63 | 84 | 52 | 61 | 70 | 果敢 | 掃討 | 猪突 | 功名 | 鼓舞 | 突撃 | 連弩 | 鋒矢強化 | 名利 |
【ダンタダマサ】
織田信長の家臣。のち織田信忠の家臣。
幼少の頃から織田信長に仕え、馬廻り衆として信長に貢献。
その後信長と信忠の折衝役を任され、この頃から織田信忠付の家臣となる。
武田征伐では森長可とともに突出して、信忠目付の河尻秀隆から諫言されるが、武田家一門の
仁科盛信の籠る高遠城を果敢に攻撃したり、その後土着していた芋川氏を初めとする
数倍の旧武田勢力を破るなどをし、信忠から激賞されている。のち本能寺の変で戦死。
親愛武将:織田信忠 森長可 森蘭丸
森長可
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
70 | 93 | 51 | 52 | 13 | 掃討 | 文化 | 悪名 | 功名 | 短慮 | 侵略荒廃 | 我道 |
※別案(逸話で取り上げられやすい血気盛んな話を入れた形に。能力値もそこそこ上昇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
77 | 93 | 51 | 52 | 53 | 掃討 | 豪傑 | 猪突 | 酒乱 | 粗暴 | 侵略荒廃 | 我道 | |||||
77 | 93 | 51 | 52 | 53 | 掃討 | 豪傑 | 疾走 | 猪突 | 粗暴 | 侵略荒廃 | 我道 |
【モリナガヨシ】
戦国時代の武将。森可成の次男。織田家臣。鬼武蔵、長一。
父と兄の戦死後に家督を相続し、信長から重用された。初陣では27の首級を挙げ、織田軍の
一向一揆討伐に貢献。その後は織田信忠の配下として各地を連戦した。武田征伐の際は団忠正とともに
突出して信長に諌止されるが、大嶋城や高遠城、そして武田に連なる国人衆を撃破したことを
織田信忠に褒められ、感状を下された。戦後信濃川中島を領したが、本能寺の変で領国が混乱。
人質を盾に本領美濃へと帰還し、そこで抗争を繰り広げたため織田信孝と対立。清洲会議後は羽柴秀吉や織田信雄に味方した。
小牧の戦いでは酒井忠次の奇襲を受け惜敗、再起を図った長久手合戦で銃撃を浴び戦死した。
信長には武蔵坊弁慶に例えられ、秀吉にはその武勇を恐れられた。
森成利
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
33 | 65 | 70 | 68 | 85 | 護衛 | 智嚢 | 名声 | 不屈 | 頑健 | |||||||
33 | 65 | 74 | 68 | 82 | 護衛 | 智嚢 | 潜在 | 不屈 | 鉄壁 | 鎮静 | 奮戦 | 政令徹底 | 覇道 |
【モリナリトシ】
戦国時代の武将。森可成の三男。織田家臣。「森長定」「森乱丸」とも。講談では「森蘭丸」の名で有名。
幼少期から小姓として織田信長に仕え、父亡き後の森宗家を継いだ兄の長可らとともに信長を支える。
信長のもとで事務的役割をはたし、1582年には兄の武功によって
美濃金山城を兄から引き継ぐ形で領土を与えられた。その後も信長のもとから離れることなく
側仕えしていたが、本能寺の変の際に織田信長に殉じた。この際、同じく信長の小姓であった
弟2人も信長に殉じている。その悲劇性の強い生涯は「薄幸の美少年」と脚色され、講談で多く取り上げられている。
親愛武将:織田信長 団忠正
斯波長秀(毛利長秀)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
64 | 76 | 60 | 62 | 78 | 名声 | 調達 | 護衛 | 屯田 | 節約 | |||||||
64 | 76 | 60 | 62 | 78 | 築城 | 調達 | 施設開発 | 王道 |
【シバナガヒデ(モウリナガヒデ)】
戦国時代の武将。三管領の一つ、斯波家の斯波義統の遺児と伝わる。
実父の斯波義統が暗殺された際には「幼君」であったため、毛利新助の近親者である毛利十郎によって
匿われ、毛利姓を名乗った。桶狭間の戦いでは彼も毛利氏の一員として参陣し、今川義元本陣へ突撃した。
その後、織田信長や織田信忠付きの馬廻として伊勢大河内城攻め、野田福島の戦い、石山本願寺との戦いや
武田上杉との戦いなど数多く参加して功を上げた。本能寺の変以降は羽柴秀吉に味方し、多くの戦いに従軍して
羽柴姓と信濃飯田10万石を与えられる。多くの合戦に参加する一方、肥前名護屋城の普請に携わるなど行政面でも実績を残した。
柴田勝敏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 59 | 38 | 45 | 78 | 諌止 | 動員 | 潜在 | 消沈 | 動転 |
【シバタカツトシ】
戦国時代の武将。諸説あるが、柴田勝家の実子と伝わる。「権六」「勝久」とも。
越前北ノ庄を領した柴田勝家とともに越前の統治に携わった。
のちに賤ヶ岳の戦いの際には、突出した佐久間盛政を諫めようとしたと言われる。
賤ヶ岳合戦後、逃亡するが捕えられ、近江佐和山で刑死した。
佐久間盛政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 85 | 65 | 48 | 69 | 疾走 | 掃討 | 勇将 | 猪突 | 直情 | |||||||
71 | 85 | 65 | 48 | 69 | 疾走 | 掃討 | 勇将 | 長駆 | 果敢 | |||||||
71 | 85 | 65 | 58 | 69 | 疾走 | 長駆 | 果敢 | 不屈 | 直情 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 長蛇強化 | 王道 | ||
71 | 85 | 65 | 58 | 69 | 疾走 | 掃討 | 果敢 | 不屈 | 直情 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 長蛇強化 | 王道 |
【サクマモリマサ】
戦国時代の武将。織田信長の家臣。柴田勝家の甥にあたる。「鬼玄蕃」と称された。
身長六尺の巨漢として生まれ、近江六角氏との戦いで初陣を飾る。その後各地の反信長連合との戦いに従軍。
のちに柴田勝家の与力としてつけられ、一向一揆征伐で大功を立てて信長から感状を賜った。
その後も前田利家らと連携して北陸の上杉軍を撃退し続けた。本能寺の変後は柴田勝家に属し、
賤ヶ岳の戦いでも中川清秀を討ち取る戦果をあげる。しかし大軍勢で押し寄せる織田羽柴軍の前に奮戦するも押され気味となり、敗走。
柴田勝家の自刃後に捕えられるが、毅然とした態度を秀吉に感心されたと言われる。その後刑死した。
親愛武将:柴田勝家
氏家直昌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 67 | 61 | 50 | 58 | 名声 | 果敢 | 地利 | 胆力 | 動員 | |||||||
74 | 67 | 61 | 50 | 58 | 果敢 | 地利 |
【ウジイエナオマサ】
戦国時代の武将。織田家家臣。父親は美濃三人衆の1人である氏家直元。
もとは斎藤家の家臣であったが、信長の美濃攻略後は織田信長、織田信忠らに付き従った。
父が1571年に伊勢長島で戦死すると家督を継ぎ、浅井長政討伐や朝倉義景討伐で先陣を務め軍功を挙げる。
以降畿内の各地に点在する反織田勢力の討伐に従軍し、美濃大垣城主となった。
のち織田信忠つきの重臣となるが、甲州征伐や本能寺の変の際には同道しなかった。
本能寺の変後、美濃を領した織田信孝を見限り、台頭著しい羽柴秀吉に味方した。その後まもなく死没。
斎藤利治
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 75 | 70 | 62 | 71 | 勇将 | 泰然 | 規律 | 沈着 | 妙算 | |||||||
76 | 75 | 70 | 62 | 71 | 堅牢 | 一心 | 鉄壁 | 奮戦 | 業火 | 墨守研究 | 覇道 |
【サイトウトシハル】
戦国時代の武将。父親は斎藤道三。姉に斎藤帰蝶、兄に斎藤義龍がいる。
もとは斎藤家に所属していたが、斎藤義龍が弟である孫四郎、喜平次を殺害したことに危機感を持ち、
長良川の戦いで父の道三が戦死したことを受け、斎藤家から離反。義兄の織田信長のもとへ身を寄せる。
その後、信長の美濃攻略の際には斎藤家臣との折衝を行い、佐藤忠能の養子となって加治田城を領した。
織田信長の上洛後は各地の合戦に参陣し、1570年の石山合戦では奮戦して本願寺衆を寄せ付けなかったと言われている。
織田信忠が信長から美濃尾張を譲り受けるとその指揮下に入り、以降織田信忠を支える重臣として活躍。
岩村城攻めや月岡野合戦に従軍して武田、上杉軍を撃退、荒木村重討伐にも従軍して功を立てた。
本能寺の変の際に京におり、同族で明智家臣となった斎藤利三が降伏勧告をするも拒否。織田信忠に殉じた。
親愛武将:織田信長 織田信忠 姉小路頼綱
佐藤秀方
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 66 | 67 | 65 | 70 | 名声 | 人脈 | 山戦 | 封殺 | 地利 |
【サトウヒデカタ】
戦国時代の武将。斎藤、織田、豊臣家に仕える。読みは「ひでまさ」とも。
美濃国に領地をもち、斎藤家に仕えるが、織田信長の美濃攻略後は彼に臣従。以後各地の合戦に参加。
姉川の戦いや比叡山焼き討ちにも参戦して軍功を立てる。1575年の長篠合戦では金森長近、酒井忠次らとともに
別働隊を編成。長篠城を取り巻く武田軍を奇襲して、長篠城の救援に成功した。
織田信長、織田信忠の2人に仕えるも、本能寺の変後は森長可らと協力し羽柴秀吉に接近。
秀吉政権下でも多くの戦いに従軍し、また金森長近らとともに姉小路頼綱を攻め下している。
その後も小田原征伐や唐入り前哨の朝鮮侵攻にも従軍するが、1594年に死没。
各務元正
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 89 | 57 | 63 | 66 | 猛者 | 豪傑 | 泰然 | 堅守 | 一心 |
【カガミモトマサ】
戦国時代の武将。もとは斎藤道三の家臣。のち森可成に仕える。土岐家一門。「鬼兵庫」との異名をとった。
土岐家を追い払い下克上を成し遂げた斎藤道三に従い、美濃の一領主として君臨。領土問題で揉めた際には
相手方の屋敷に討ち入り、家人や領主を斬り殺して回ったという逸話が残るが、これにより謹慎蟄居処分となる。
その後、織田信長の美濃接収により、旧美濃系であった森可成に仕えることとなる。1570年の志賀の陣では
戦死した森可成の遺志を継ぎ、肥田直勝らとともに浅井・朝倉軍を押し留める役割を果たし、織田信長本隊の近江帰還まで
時間を稼いだ。この功により、信長本人から激賛される。のち、森家当主となった森長可に従い、甲州征伐にも参陣。
ここでも武功をたて、戦後は森成利に与えられた金山城の城代として、政務に当たった。本能寺の変後も森長可に従い
東美濃を席巻、小牧長久手の際は岩村城を防備し、徳川方となった遠山氏を撃退。長可の戦死後は跡を継いだ忠政に従い、家老として森家を支えた。
太田牛一
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
43 | 80 | 74 | 82 | 50 | 史官 | 学者 | 文化 | 寡欲 | 潜在 | 斉射 | ||||||
43 | 83 | 76 | 82 | 50 | 史官 | 学者 | 文化 | 寡欲 | 潜在 | 斉射 |
【オオタギュウイチ】
織田、豊臣家臣。
元は柴田勝家に使える足軽だったが弓の腕を認められ信長直臣となる。
信長が岐阜に移ってからは官僚として仕えるようになり、本能寺の変の後は秀吉に仕えている。
「信長公記」「大かうさまくんきのうち」を書いた歴史家としても知られる。
弥助
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
40 | 88 | 32 | 8 | 50 | 一心 | 猛者 | 殿軍 | 護衛 | 怪力無比 | 奮戦 | 鉄壁 | 大喝 |
【ヤスケ】
モザンビークの出身とされる。宣教師ヴァリニャーノの従者として来日。
安土城で信長と謁見した際、信長に気に入られ弥助の名を与えられ家臣となる。
甲州征伐に従軍後、本能寺の変では信忠とともに奮戦する。光秀に投降後釈放され、その後の行方は不明。「十人力の剛力」と評された。