第一部.定理17のおまけ
こんなふうに考える人もいるだろう。
「スピノザ君の言う通り、神はあらゆるものの自由な原因だ。なぜなら、神の本性の中にあるものごと(つまり神のパワーの中にあるものごと)について、神はそういうものごとが生まれたり作り出されたりしないようにすることが(することも)できるからだ。神はそれほどまでに万能で、神にとっては何かが起こるようにするのも起こらないようにするのも水道の栓をひねるように思うがままだからだ」
って具合に。
でもね、神がたとえば、三角形の本質を思いつきで変更して、内角の和を180度じゃなくしてしまったりすると思う?明らかな原因があるのにそこから何にも起きないようにしてしまったりすると思う?この人たちが言っているのは、この話しと同じぐらい矛盾しているんだ。
今度はぼくスピノザが、今まで苦労して証明した定理をわざと使わずに(定理を積み重ねる方法を使わないで)このことをはっきりさせてやろうじゃないの。「神には人間なみの知性も意志もひとっかけらもありゃしない(笑)」ってことを。じゃあいくよ。
神には最高級の知性と、全く自由な意志があると思い込んでいて、そのことはいつでも簡単に証明できると考えている人は本当に多いんだ。この人たちの言い分によれば、「神に属しているものだけが完全なのである。どんなに完璧な人間といえども、神と比べれば少しも完璧ではないのである」だって。
でもこの人達は、神を最高級の知性の持ち主だとは認めるくせに、神が、自分で本当に認識したあらゆるものごとをこの世に出現させ存在させる力があるということは認めようとはしないんだよね。「そんなことをしたら、神のパワーが損なわれるからだ」ってことらしいよ。
なんのこっちゃと思ったけど、どうやらこういうことらしい。神が、その最上級の知性を駆使してあらゆるものを創造したんだとしたら、完璧な神のつくったこの宇宙は最初から完璧なはずだから、後から追加で何かつくったりやりなおしたり(ハルマゲドンとかね)する必要がなくなってしまう。でも実際にこの世は完全ではない(少なくともこの人たちにはそう見える)から、そのことを認めてしまうと、神が万能ではないってことがバレて面目まるつぶれになってしまうんだね。だからしょうがなく、神は徹底的に薄情で、自分の絶対的な意志だけを駆使してつくりたいと思ったものだけをつくったんだ、っていう苦しまぎれの主張をするはめになっている。
そんな人付き合いの悪いハッカーみたいなのが神だっていうの?それじゃあ神はウィザードクラスどころか神様クラスのハッカーだ(笑)。確かにハッキングにはある種の全能感がつきものだけどね。
でも、第一部.定理16ではっきりぼくが証明したように、神のとてつもないパワーや神の無限の本質から自動的に、無数のものごとが無数の方法であふれだし、あるいは同じように生まれ出るんだと僕は信じている。それは、三角形というものの本質から、内角の和が180度になるという結論が導き出されるということが永遠に変わらないのと同じように神についてもそうなんだと信じているんだ。これなら、「永遠に」という点にすでに神のとてつもないちから(全能)が表れているし、あらゆる永遠なものごとに対して神の全能さがいつも同じように働くことに何の問題もないんだ。
ほら、ぼくのやりかたなら神が全能だってことがはるかにカンペキになるでしょ。これでぐっすり眠れるってもんだ。
この人たちの言い分の通りにすると、神は無数のものごとについて「あれもつくれるだろう、これもつくれるだろう」ということがわかるだけで、実はそれを実際につくりだすことはからっきしできないんだと白状させられることになってしまうんだ。しかもそのせいで、ほめたたえようとしたはずの神の全能さをおとしめてしまい、神が不完全だと言ったも同然になってしまう。こりゃ口先だけの神様だ(笑)。
神をほめ殺してどうすんの?神が完全だということを裏付けようとして、「全能の神にも力が及ばないことがある」と主張するのは、これ以上ないくらい矛盾に満ちた仮説だよ。「できないことがある全能」なんてひとつも全能じゃないよね。
で、神に知性や意志があるかどうかの話しに戻るけど、もし仮に知性と意志が神の本質の部分にセットされているんだとすれば、ここでいう知性とか意志という言葉の意味は、ぼくらが普段使っている言葉の意味とはまったく異質のものとしてとらえる必要があるはずだ。
なんでかというと、神にセットされている知性と意志があるとすれば、それは人間に備わっている知性や意志なんかとぜーんぜん違うもののはずだし、宇宙人と地球人どころじゃすまないくらいその2つには何の共通点もありはしないんだ。共通点があるとすれば「知性と意志」っていうその言葉自体ぐらいだろうね(笑)。でなかったら、星座の「おおいぬ座」と、実際にわんわん吠える犬と同じぐらいなーんの関係もないよ。
よくハードSFで「神に知性や意志があったとしてもとてつもなく薄っ気味悪いしろもので、人間には絶対に理解不能だ」というテーマがあるけど、それですら、神の知性や意志に何かしら人間くさいものを浅ましくも求めているようにぼくには思えるんだ。神の知性や意志は、人間のそれとはあまりにかけ離れ過ぎていて、そもそも人間のものさしを当てることすら意味がないんだし、神には「目的意識」なんてかけらもあるはずがないんだから。だって、仮に神に何らかの目的があったとしたって、それは常に実現されてきたし、これからも変わらずに永遠に実現されていくものなんだから、神が自分の行為に不満をもつはずはない(笑)んだってこと。
そろそろここで結論を出そうか。ぼくたちは、普通知性というものについてこういうふうに考えている。
- 「何かを見て、それから考える」つまり知性は見るものに対して「後づけ」のものだと考えるか、
- 「何かを見たと同時にもう考えが定まっている」つまり知性は見るものに対して「同時に」あるか、
たいていそのどっちかだというふうに考えるもんだ(これはよくニューアカ同業者の議論のタネになるんだけど、そんなもの、どっちでもかまやしない)。
で、もし仮に知性が神の本性に所属しているものだとしたら、これは今話したどっちにもなれっこない。「後づけ」でもなければ「同時」でもないはずだ。だって第一部.定理16が正しいとすると?その1で話した通り、神はあらゆるものに先立つ原因なんだから。そうじゃなくて、神と知性についてはもう少し違うやりかたで考える必要がある。つまりものごとの本質がちゃんと正しくて形の整ったものなら、それだけでその本質は見た通りそのまんまでそこに存在できるんだし、そこに何も付け加えることなんかないんだ。
なぜなら、神の知性の中にその本質があるということさえ確かに表されていればそれは存在できるんだから。
ここから考えれば、神の知性というものは、それが神の本質を構成している不可欠なものなら、(神はあらゆるものの原因なんだから)神の知性もやっぱりあらゆるものごとの原因(ものごとの本質の原因とそれが存在する原因)になるってことになるよね。
神の場合は「先づけ」の知性になるってわけだ。
このことは、「神の知性と意志と力は実は一つのものだ」って言い張る人たちにもわかってたみたい(でないと予言できないからね(笑))。
それはともかく、神に「先づけの知性」があるとすると、その「先づけの知性」はあらゆるものごとの唯一の原因(ものごとの本質の原因とそれが存在する原因)ってことになる。だから、たとえ本質について話しをしていても存在について話しをしていたとしても、「先づけの知性」とものごとそれ自体は別個のものってことになるでしょ? だって原因とそれが引き起こした結果は別個のものだし、原因の量と結果の量はきっちり比例するんだから。
たとえばある人間Aが、別の人間Bがそこに存在する原因になっていて、なおかつその人間Aは、その別の人間Bの本質の原因にはなっていないって状態を考えてみよう(たぶんAはBの親なんでしょ)。この場合、人間AとBは「本質は同じだけど存在は別々」ってことになるよね。そうすると、誰かが人間Aをぶっ殺しても人それだけで間Bが死ぬわけじゃない。
逆に人間Aの本質を完全に否定する(たとえばだしぬけに「人間にはもう未来はない」っておせっかいな宇宙人から言い渡されてしまうとかね)と、人間Bの本質も同じく滅びてしまうはずだ。
今のは単なる例だから「本質は同じで存在は別々」なこと自体は話しに関係ないんだけど、とにかくこれを見れば(本質についても存在についても)原因となるものごと(「誰か」とか「宇宙人が」ね)と、それによって起きた結果はまったく別個のものだということぐらいすぐにわかるよね。
話しを進めると、神の知性は、ぼくたちの知性の本質の原因でもあり、ぼくたちに知性が存在することの原因だってことになる。ということは、最初にぼくが言った通り、神の知性は、それが神の本質をかたちづくるのに欠かせないものであれば、ぼくたちの知性とは本質的にも存在に関しても、「知性」という言葉が同じなだけでまったく異質のものになるわけだ。ふう。
長々と書いたけど、要するに神の知性とぼくたちの知性の関係は、要するに「原因と結果」の関係だし、原因と結果は別ものだから、神の知性はぼくたちの知性とまったく違うものになっているはずだってこと。
神の「意志」の方なんだけど、今の議論の「知性」が「意志」に変わるだけでまったくおんなじになるから説明しないよ。