第一部.定理31のおまけ
ぼくは知性というものを「ものごとを推理する力」とか「止めらんないエンジン」のようなひとつの「機能」でしかないもの(機能的知性って言うんだって)として扱っている。
こういう分類を使っているからといって、その反対語の、どんな未来でも残らず予言することのできるようなタイプの知性(可能的知性って言うんだそうな)なんてラプラスの魔みたいなものを、ぼくがついでに信じているわけじゃないんだ。早とちりしないでほしいんだけど、今はみんなを無駄に混乱させたくないから、誰にでも間違いなく知覚できる(はずの)知性、もっと言えば(ほかのどんなものよりはっきり知覚できる)知性の働きそのものに絞って話したいだけなんだ。
どうして知性は誰にでも間違いなく知覚できるかって?だって、何かを知覚するときは、ただ漫然と知覚しっぱなしにすることはできないし、知覚したものを理解して、その働きを自分の知識(頭で覚えるだけじゃなく、身体に覚えさせることも含めてね)にどうしても付け加えてしまうでしょ?どんな体育会系バカでもキャッチボールぐらい難なくこなすように、知性をちょっとも知覚できないということはありえない。少なくともぼくスピノザはそう考えているんだ。