第一部.定理32
「意志」なんてものは、(みんなが考えているような)自由な原因じゃない。ただの必然的な原因だ。「意志」に自由はない(その調子!)。
理由
- 「意志」なんてものは、これも知性とおんなじように、単にある考えの化身(=ものの考え方)だ。
- だったら、第一部.定理28で「あらゆるものには原因(条件)がある」ってことを証明したんだから、もし誰もその「意志」に条件をつけていないんだったら(その条件も例によって他の何かに条件をつけられて、という具合にらっきょうの皮むきを無限に繰り返すんだけど)、
- そうだとしたらそもそも結果である「自由意志」自体が存在できなくなっちゃうし、どんなふうに「意志する」かを(たとえ自分自身ですら)決めてやることだってできなくなってしまうでしょ?
- で、もし意志が無限なものだとしたら、(第一部.定理28から)その意志に条件をつけて、意志が存在したり「意志する」ことを許してくれるのはやっぱり神のはずだ。
- でも神が条件をつけてくれるのは、別に神がとほうもなく無限だからじゃないんだ。神にひそんでいる性質が、「とほうもなく無限で永遠(で絶対的)な考え」を余さずそこに表しつくしているからこそなんだ(第一部.定理23)。
今の二つは一見同じに見えるけど、確実に違うからね。神がとほうもなく無限だから即ナントカカントカって、あせって順序を飛ばして結論を出すわけにはいかないんだ。気を付けて。
というわけで、意志には(たとえ有限だろうと無限だろうと)必ずその原因があって、その原因があってこそ意志があるんだし、「意志する」ことができるんだ。
だから、(第一部.決めごと7から)、間違っても「自由意志」なんてものはないし、それが原因になることもない。
あるのは、回りの状況が原因でなりゆき上そうせざるを得なかった、結果としての「意志」だけだ。そういう意志が他の何かの原因になるってことなら、ある。
おしまい。
だいたい「自由意志」って言葉自体がすっごくうかつなものだよね。せめて「自分だけで決めた意志」って言えばまだ許せないこともないけど、それだって十分勘違いだ。この世にひとつも学校がなくっても、進学するかどうかを自分だけで決められる?(笑)