第一部.定理31
「意志」や「欲望」や「愛」と同じように、やっぱり知性も「消極野郎」の仲間だ。「積極野郎」じゃない。(こうは思いたくなかったんだけどねえ)。
理由
- とりあえず、この世のどこかに「人間にはおよびもつかないほどとほうもない、否定しようのない高度で複雑で完璧で絶対的な考え」ってものがあるってことを(いつの間に?)前提にさせてもらうよ。
- 今までそんな話しはしていないんだけど、もしこんなものすごい「考え」があるとすれば、こいつは間違いなく神の本質にセットされているはずだし、こいつは少なくとも「積極野郎」のはずなんだけどね
- で、あたりまえのことなんだけど、知性っていうのは、(どんなタイプの知性であっても)その「とほうもなく絶対的な考え」そのものじゃない。知性は、単にある考え方(まさに考えの化身)なんだし、知性は「愛」や「欲望」みたいな化身たちとは違った種類の、でもやっぱりひとつの化身なんだ。
- だったら、第一部.決めごと5で「化身は、それとは違う他の何かの中にあって、そいつを通じて考えるもの」って説明したとおり、もし知性という化身がある「とほうもなく絶対的な考え」から生まれてしまうものだったら、知性はその「ある絶対的な考え」を通じて(ベースにして)考える必要があるものだってことになる。
- そして、知性(という化身)は(第一部.定理15と第一部.決めごと6から)神のある性質を通じて考えられるもので、その性質は「とほうもなく絶対的な考え」にセットされている永遠で無限な本質を表しているんだから、知性が性質抜きでそこにあるはずはないし、「性質抜きの知性」ってものを想像することもできるはずがない。
だから、たとえものすごく絶対的な考えという「積極野郎」から生まれたとしたって、(生まれてしまった)知性は、生まれてしまったという時点で、他の化身たち同様、「積極野郎」なんかじゃなくって「消極野郎」だと考えるしかないんだ。
おしまい。
ぼくスピノザだって、本当は「知性は偉い!知性はグレートだ!!知性バンザーイ!!」ってことにしておきたいんだ。でもぼくたちの知性は、「過去の栄光をひきずった、家柄だけがとりえのヤツ」(笑)と大して変わんないことが、本っっっっっ当に自分でも不本意なんだけど、はっきりしてしまった。でもしょうがない、そういう結論が出てしまったんだから。
ぼくスピノザもこんなことを言ったかどうか覚えてないんだけど(何だって?)、ぼくたちの「知性」がその程度のものだとしたら、当然「知性」も、他の化身たちと同じように「暴走する」可能性があるってことになるね。このことはもっと後の方で話すんだけど、「愛」も時には暴走するし、「欲望」や「意志」だってやっぱり暴走することがある。「知性」だけが暴走しないってことはありえないっていう、ちょっと恐ろしい結論が出てしまったね。
他のことに起こることは知性にだって起こるってことだし、「知性」だけをうっかり信用することができなくなってしまった。考えてみれば、「水爆」だの「生物兵器」だの「人が死なない程度の地雷」だの「クラッキング」だのなんて、「知性の暴走」そのものじゃん。せっかく唯一信頼できそうな奴だったのにね。しかもこいつがいなければ物質のこともわからなかったんだし、そもそもここまでたどりつくことさえできなかったというのに。あんたもそうなのね!そんな人(人じゃないんだけど)だったなんて!ひどいわひどいわあ(涙)。
そうしたら、ぼくたちはいったい何を信頼すればいいんだろうか。それは最終回を待て!