第一部.定理32が正しいとすると?その2
知性も意志も、ほかのあらゆる自然現象と神の本性との関係とおなじ関係だ。知性も意志も、神の本性から見れば、どんなふうに存在してどんなふうに動くかを神が決めてくれて初めて動いたり止まったりできる(第一部.定理29)、そういう自然現象と変わらない。
だって、結局意志だって何らかの形で条件をつけてもらわないと動くことも存在することもできないんだし、その点ではほかのどんなものごとともおんなじなんだから。
で、たとえ仮に知性や意志から無数のものごとが生まれるんだというふうに強引に考えたとしても、やっぱり「神は自由な意志にもとづいて活動する」と言える根拠にはならないんだ。
だって、いくら「ものが運動したり止まったりすることでそこから無数のものごとが生まれる」からって、それを根拠にしてそいつらが自由意志で「運動」したり「静止」しているんだって言えないでしょ?それとおんなじなんだ。
だから、「意志」なんてものは神の本性のどこを探したって見つかりっこない。意志は神から見れば、ものが動いたり止まったりとか、その他神の本性から生まれるあらゆる自然現象とおんなじもので、やっぱり神が何らかの形で条件をつけてくれてはじめて存在もできるし活動することもできる、そういうものだってこと。
にもかかわらず、ぼくらはあらゆることを自分で自由に決めているんだとすっかり思い込んでしまっている。その理由は後のお楽しみに。