第一部.定理33のおまけその1
たった今ぼくが真昼の太陽よりもはっきりと示してしまった通り、ものごとを偶然のせいにすることはもう誰にもできなくなった。ここで、ぼくたちには一見偶然に起きたとしか見えないものごとをどう理解したらいいかをちょっと説明しようと思うんだけど、その前にまず「必然」と「不可能」という言葉について説明しておこう。
あるものごとに「必然性がある」、つまりあるものごとが偶然そこにあるのではなく、そうなるしかなくなってしまうということ、そのことはそのものごとの本質の問題か、でなければそのものごとがそこにある原因の問題か、そのどっちかだってことになるよね。どういうことかというと、あるものごとの本質と定義(決めごと)があって、そのせいでそいつがいやおうなしに(ひとりでに)存在してしまうか、でなかったら、そいつの外側に何らかの原因があって、そのせいでそいつが存在してしまっているか、その二通りがあるってことなんだ。
あるものごとが「不可能だ」と言ったときも、同じ要領で考えられる。つまり、そのものごとの本質と決まりごと(定義)に決定的な矛盾があって、存在したくでも存在できないか、でなかったら、そいつの外側に何らかの原因があって、その原因が生み出す結果としてそいつが存在できなくなっているか、その二通りがあるってこと。
そして、あるものごとが「偶然である」と言うことはできない。あえて「偶然である」と言えるとしたら、それはぼくたちの知識が不完全で、原因をすべて知りつくすことができない場合しかないんだ。
あるものごとについて、その本質に矛盾があるかないかがぼくたちにわからない場合、あるいはその本質に矛盾があることにぼくたちが気付いた場合、そいつが本当に存在するのかどうか、ぼくたちには確信が持てないだろう。それは、原因(と他の原因の連鎖反応)をぼくたちが見逃してるからなんだ。--だから、そういうものごとが、果して「必然」なのか「不可能」なのかってことはぼくらにわからなくなってしまうのは仕方がないんだ。だから、ぼくたちはよく考えもせずに、ものごとを「偶然だ」とか「可能だ」と呼んでいたんだ。
映画やドラマあたりの業界人とかが「うーん、ここでは脱ぐ必然性があるねー」なんてうれしそうに使ったりする、この「必然性」の使い方は言葉通りに完全に正しい(笑)。女優が泣こうがわめこうが、脱ぐしかなくなってしまうようなところまで追い詰めるわけなんだから。