第二部.定理11が正しいとすると?
人間の「こころ」は、実は特別なものでも神秘(笑)でも何でもない。ほかのあらゆるものごととまったく同じように、神の無限の知性の一部にすぎないんだ。
とすると、人間の「こころ」がその外にある何かを感じとる(知覚する)ということは、一体どういうこと何だろう。さっきあんなに大騒ぎしたからみんなもこのことに関しては少しは考えてくれるようになったと思うんだけど、つまりこういうことになる。人間の「こころ」が感じとったものごとは、そいつらが何であれ、やっぱりそいつに対して抱いた思いは、どれもこれも神の中にある。人間の中にあるってことは結局神の中にあるってことなんだから。
もうとっくに気付いていると思うけど、人間の「こころ」が外にあるものごとを知覚できるのは、神が無限であるということとはもう関係ない。神が人間の「こころ」に宿っていることが肝心なんだし、神が宿って、神が人間の「こころ」の本質に顕(あらわ)れることこそが肝心なんだ。
このことを言い替えれば、「神は人間の「こころ」の本質をかたちづくっているからだ」あるいは「人間の「こころ」の本質をかたちづくっているのは神だからだ」と言ってもいい。
ところで、ここで一つ大事なことをぼくスピノザが言うからよーく聞いてね。人間の「こころ」の中に(つまり神の中でもあるんだけど)、ある思いと一緒に、別のものごとに関する、別のもっと強い思いが同時にあったとしよう。こういう状態をぼくスピノザは「人間のその「こころ」は、そのものごとの一部しか感じとっていない」と、または「人間のその「こころ」は、そのものごとをまともに感じとれない」、こう言わせてもらう。この結論は今後たくさん登場するからね。
もちろん、人間の「こころ」の本質をかたちづくっているのは神だ。それはもう間違いない。でも、人間の中(=神の中)に複数の思いがあって、今問題にしている思いより別の思い(こっちの相手は別の相手になるんだけど)の方が強くなってしまうと、「ものごとをまともに感じとれなくなる」んだ。
まず大事なのは、「こころ」なんてなあーんにも特別なもんじゃないってこと。必要以上に恐れることもないし、特別扱いする理由もどこにもないんだ。もちろん「こころ」をあなどってもダメだけど、それは交通事故に気を付けるのと同じように気を付ければいいことだ。「こころ」がどんなものかがわかってしまえば、無駄におびえる必要なんかこれっぽっちもない。正体を知らなければ、犬だって自動車だって女子高生だってユダヤ人だって何だって怖いに決まってる(笑)。なめてかかったら危険なのも何だって一緒だ(笑)。なめてかかっていいことなんかないよ。