第二部.定理7

Last-modified: 2007-07-16 (月) 09:40:17

第二部.定理7

思いは、現実にあるものごととまったく同じように積み重ねたり並べたりくっつけたりすることができる(何ー?!)。

理由

たぶん君たちにとっても、これは驚くしかないような定理だ。こころの中にある思いなんてものが、そのへんの積木やブロックみたいに積み重ねたり並べたりできるなんて、一発で信じろというのが無理な相談だと思う。こんなことを何の準備もなしにいきなり言ったら、それこそオカルト野郎になってしまうのはもう間違いないもんね。
とはいうものの、やっと「こころ」のほんの入口に突入することができた。ここまではただの準備運動みたいなものだったと言ってもいい。性質化身だなんてのは、ここから先を正しく進むための登山装備みたいなもので、こんな言葉を後生大事にしていたってしょうがないもんね(爆)。
今ぼくたちが手にしている装備はとってもみすぼらしくて、ブランドもの(笑)なんか一つもない。完全とは言えないだろうけど、手入れはもう十分やったはずだし数も足りているはずだ。しかも自分で手入れをしたものだったら、手入れにぬかりがあるかどうかはもう自分でわかるよね。もし手入れに自信がないんだったら、あせる必要はないから何度でも引き返して、納得がいくまで手を加えよう。ほらほら、回りを見渡してごらん。必要以上におどかすつもりはないんだけど、中途半端な装備で登ったばっかりに墜落した人の死骸がこんなにたくさん(笑)。

じゃあいってみよう。なんちゃって、実はこのことは第一部.ルール4で定めてあったんだ。最初はちょっともっともらしく言ってみる。

思いというのは、それがどんなものごとについての思いであっても、必ずもとになる知識(と言ってもいいし「概念」と言ってもいいし性質と言ってもいいけど)がないと、かたちづくりようがないんだ。思い同士にも、今のルールをあてはめることができるからなんだ。

「...それってどういうことなんでしょうか?」と思われても仕方ないね(笑)、これだけじゃ。言い方を替えよう。

化身は、たとえどんな種類の化身であっても、それがどうやってできたか、という点に注目すれば、何一つ違いがない。化身には、必ずそれをかたちづくった「原因」があって、自分一人でひとり立ちできるような化身なんかありえない。「原因」があるという点ではどの化身も平等なんだ。ここまではいいよね。

さて、思いはもう間違いなく化身だ。ぼくたちが目にする積木やブロックのような現実の物体も、やっぱり化身だ。

すると、一見あやふやにしか思えなかった思いだろうと、ここに間違いなくあるとしか思えなかった物体だろうと、どっちも間違いなく性質を引き継いでいる。この点でも思い物体はまったく平等だ。

だから、第一部.ルール4はどちらにも通用する。つまり、ある物体がほかの物体の原因になる(一方がもう一方に働きかける)のと同じように、ある思いもほかの思いの原因になることができるわけだ。だから、物体同士を並べたり積み上げたりつなげたりできるように、思い同士も並べたり積み上げたりつなげたりできるわけだ。

ただ、思い物体は、引き継いでいる性質が違うんだ。だから、物体思いは、互いに作用することができないことになってしまう。おしまい。

ぼくは今、重大なことを言ってしまった。まだおおざっぱなんだけど、「こころ」と「身体」には何の関係もない、と言い切ってしまったからだ。実はとっくに第一部.決めごと2でもおんなじことを言っているから疑問に思うべきじゃないんだけど、現時点ではここには大変な問題がひそんでいる。
だって、「こころ」と身体に何の関係もなかったら、ぼくたちはどうやって身の回りに起きたものごとを知ることができるの?「こころ」と身体に何の接点もなければ、ぼくたちは真っ暗闇に閉じ込められているようなもんで、外で起きたものごとどころか、自分の身体がどんなに痛めつけられても、気付くことができなくなってしまうじゃない。
でも実際には、たとえば積木が頭に当たっただけで子供は大泣きする。これって、「こころ」の外にある物体が、「こころ」に働きかけて、「こころ」を変化させた(=悲しい気持ちにさせた)わけじゃない。これをどうやって説明する?これが説明できなかったら、この先にどんなことを書いても、人間どころか「こころ」の正体を突き止めることすら危なくなってくる。
しかもそれだけじゃない。第二部.ルール4第二部.ルール5をよーく見て見よう。何と、第一部.決めごと2で言ったことと正反対に近いことを言っているんだ。第一部では「こころ」と物体は互いに何の関係もないと言っておきながら、この第二部では、「こころ」と身体は、限定された形であるとはいえ、関係があるということにしてしまっているからだ。
ぼくスピノザは果してこれを乗り越えられるのか?登山中に突然大嵐になって崖がくずれてしまい、中腹に取り残されてしまったようなものだろうか。それともザイルの一本が突然切れてしまったようなものだろうか(おおげさだけど)。しかしちょっと待ってほしい。現実の登山もそうだけど、持ってる装備をバカ正直に使っていると、アドリブがきかなくなって命を落すことだってある。ナタで爪を切り、包丁で大木を切り倒さないといけない(これこそハッカーという言葉のもとになったハック-hack-という言葉の語源なんだ)、そんな状況だって十分ありえる。一つ頭を冷静に保って見よう。ぼくスピノザが、こんな単純な矛盾に気付かなかったはずはない。一体どうなっているのだろう?
「よくもこんなところに連れてきやがって」なんて怒る人がいるかもしれないけど、来たがっていたのはあなたの方だよ(笑)。それに、たとえ観光旅行だろうと遊園地だろうと、絶対安全を期待するなんて虫がよすぎる。ましてや、これから悩みという悩みを解決しようなんて無謀なことをしようとしているんだから、楽していいものが手に入るなんて思わない方がいい。
本当のことを言うと、この「こころ対身体」という問題は、現在でもまったく決着がついていない問題なんだ。ぼくらの同業者どころか、生物学も医学も経済学(笑)も宗教も数学も論理学も物理学もコンピューターサイエンスも文化人類学も妖怪学(爆)も心理学(爆爆)ですらも、これに関してまったく納得がいく説明ができないでいるんだ。そして、近い将来どころか、いつ解決するのかという見当すらつけようがないというていたらくだ。もちろん、今でもいろんな人がこの問題に挑戦しているし、少しずつ成果は出ているみたいだけど、それでもまだまだ足りない。
ただ、このことだけは指摘されている。「こころ対身体」(怪獣映画みたいになっちゃったけど)という問題は、うんとさかのぼれば、あの色分け魔王のアリストテレスに行きついてしまうんだ。つまり、「こころ」と「身体」というふうに、二つに分けてしまったこと自体に問題があるんじゃないか、っていうことなんだ。
では二つに分けるのをやめれば問題はめでたく解決するだろうか。そんなに単純じゃない。まず、単に二つに分けるのをやめただけじゃ、ぼくたちにとって頼りになる言葉と話の進め方(論理)にごっそり抜け穴ができてしまう。装備なしで山に登るようなもので、もっと危険なことになってしまう。二つに分けるのをやめただけではだめなんだ。それに、もしかすると「二つに分けるのはいいとしても実は違う分け方をしないといけない」かもしれないし「もっとたくさんに分けないといけない」かもしれない。きりがないんだ。
それから、「二つに分けるのをやめる」という方法論が果して正しいのか、少なくともその道が山の頂上につながっているのかという問題がある。これは、ぼくスピノザのように、アリストテレスに毒されて(ってひどい言い方だけど、いいものもいっぱいもらったんだよ)育ってしまったら、そういう方法について考えることがものすごく難しくなってしまう。ぼくがしたいのは、悩みを一通り解決してしまうこと、つまり頂上を目指すことで、もう一度引き返して一から道具を作り直すことじゃない。
まるで今はじめてトラブルに遭遇したように見えただろうけど、実はぼくがみんなより一足先にこの頂上を目指したときに遭遇したトラブルなんだ。ぶっこわれてしまった装備を応急処置で直したようなもので、それが、第二部.ルール4第二部.ルール5だったんだ。ここで「こころは、こころの外にある(とぼくには考えるしかないんだけど)身体物体に影響されることがある」という事実を認めて、そこからもう一度出発するしかなかったんだ。
それでも、ぼくスピノザは頂上まで登り切った。少なくともそう信じている。手作りの不格好な装備で、しかも途中で一部が使いものにならなかったにもかかわらず。道具のブランド自慢(笑)をする人たちを横目に見て、ぼくのみすぼらしい装備を指さして笑っていてもがまんした。だから、ぼくがみんなに持たせた装備も、お世辞にもカンペキなんて言えないけど、どうやら進んでいった方角だけは間違っていなかった。そう思っているんだ。
打ち明け話はこのくらいにして、先を進もう。少なくともこの部で「決めごと」にし、そのことだけは少なくとも疑いようがない限り、その上に積み上げたものは崩れないはずだから。それに、一度通った道は、たとえ不完全でも、初めて通るときよりはるかに楽になるし、いろんな人が通れば通るほど、道が踏みかためられて、少なくとも致命的な事故は起こさなくなるだろうから。
数学という学問は、それが最も典型的に表れる。ある問題が解けるまでは、数百年・数千年かかっても解けない。固い岩のように、どうやっても穴なんか空きそうにないように見える。しかしいったん解けてしまうと、まるでずっと前から道があったみたいに楽々と通れるようになり、そこから先に進むことができるようになる。穴を明けるのは天才だろうけど、そこを他の人たちが通って、初めて意味がある。いくら天才だって、どこにも行けないところに穴を空けたってしょうがないもんね(笑)。それをキチガイっていうんだ(爆)。天才が一人だけいたって何の意味もない。天才が開いた道をぼくたちが通って、初めて意味がある。第一部のたとえでいうなら、物質つまりは、別に主役じゃない。主役はぼくたち化身の方で、はサポーターであるかのようにね。これはなぐさめで言ってるんじゃないよ(後できっちり説明するから)。
そして、「こころ対身体」の問題を解決するのは、これを読んでいる君たちブッダと孔子の教えを継ぐ人たちに任せよう。ぼくスピノザには時間がなかった。ましてや、同業者とケンカなんかしているひまはない(笑)っと。

というわけで、さっきの説明は取り消す(爆爆爆)。この定理については、思いも、身体物体と同じように、必ずそれを生み出した原因があり、それがなければ思いも生まれようがない。その点で思い物体もまったく平等であるということ。だから、第一部.ルール4から、物体と同じように、思いも積み重ねたり並べたりできる。そう【納得してもらう】。
おしまい。
(本当の結論は次を参照しておくれ...)