蘭あお

Last-modified: 2024-09-22 (日) 13:05:50

コスモスが半年間のツアーに出る。
 もう随分前から決まっていたことだけど,その期間に入って,いちごが部屋に帰ってこない生活が多くなってようやく実感していた。
 半年は長い。勉強に仕事にレッスンに,それはもう時間がいくらあっても足りないくらいであっという間に過ぎていくのだけれど,それなのにふとしたときに長いと感じる。

 だってその半年は,卒業までの残り期間と同じなのだ。

 あまりに大事な半年間だ。半年が何を意味するか,そのことに気付いていなかったと思うのに,それでも心では分かっていたかのように,いちごは一度の機会に何度も何度も
「おはよう」
「おやすみ」
「ただいま」
「おかえり」
 を繰り返した。
 だけど半年分には届かない。録音しておけば良かったかなと小さく笑って,こんなことでどうすると自嘲した。もうすぐ卒業,さらに海外の大学を選んでおいて,たった半年,それもいちごは偶に帰ってくるというのにさみしいなんて贅沢だ。
 これはきっと,来年からの練習。でもいちごが何度も繰り返す挨拶を聞いたら,きっと元気が出るだろうなぁと思う。今度帰ってきたらお願いしてみようか。向こうで一人頑張るお守りをちょうだいって。
 集中力が切れてきた。ふと時計を見ると,区切るのにちょうどいい時間だった。数学の問題集を閉じぐっと伸びをしたところで,コンコンコンと三回ドアが叩かれる音が聞こえる。はーいと返事をすると,名乗りもなくドアが開けられた。それだけで相手が分かって,口元が緩んだ。
「蘭」
「あおい,今いい?」
「うん。そろそろ寝る準備でもしよっかなって勉強切り上げたとこ」
「そっか,お疲れ」
 蘭のまなじりが柔らかく下がる。言葉以上に労わられている気がして,嬉しくて困ってしまう。
「どうかした?」
「いや,寝る前にちょっと会いにきただけ」
「そっか。うれしいな。じゃあちょっとお喋りしよ」
 椅子から立ち上がって,ベッドに移動する。横をぽんぽんと叩いておいでを言うと、蘭は素直にそこに座った。
「勉強,順調?」
「うーん,まあまあかな」
「あおいの方が頭いいからな。あたしじゃ手伝ってやれないけど」
「ふふ、蘭のが得意な教科もあるでしょ。あ,じゃあ今度蘭の部屋で勉強しよっかな。監視の目があれば集中できそう!」
 そう顔を覗き込むと「任せとけ」と、蘭はにっと笑った。少しでも集中途切れたら言ってやるからと。鬼コーチだと訴えれば、笑顔のまま眉を下げた。もう鬼コーチって言うな! って怒ったりしない。
「蘭さ」
「ん?」
「大人になったよね」
「は?」
 いちごは今大人になっていってると言っていた。実際そうだと思う。大人になる過程に私たちはいるんだと思う。それでも目の前の親友は,なんだか最近いくつか階段を飛ばして大人になった気がする。
「まあもう十八だし,少しくらい大人になってないと困るけど……ていうかあたしそんなにガキっぽかった?」
「ガキっぽいってわけじゃないけど、最近やたら穏やかっていうか。あとなんか、なんかこう、気遣いが上手というか……。ね、今も私の様子見に来てくれたんでしょ」
 蘭は答える代わりに頬をかく。気を使えるのと嘘を吐けるのとは別らしい。嘘が苦手なのは相変わらずのようだった。
 うりうりと肘でつつくと、蘭は分かったってと手で防御をする。まったくと息を吐く彼女に笑って言葉を待つと、蘭は自分の組んだ脚を見て言った。
「いつもおやすみを言う相手がいるのに、言えない日が続くとさみしいんじゃないかと思って」
 ——バレてるんじゃ気遣い上手じゃないだろ。
 続けてそう小さくこぼす蘭は少しバツが悪そうだった。でもそれ以上にこちらがバツが悪い。さみしがっていることがバレていた。平気だよって見せられているつもりだったのに。蘭はさみしいに敏感だから、仕方ないのかもしれないけれど。
「やだな。さみしくないよ。それに半年もすれば卒業で、これが当たり前になるんだよ」
 今度は私が誤魔化す番だ。蘭は私を見ていなかったけど、へらへらっと口角を上げた。「そうだな」とそのまま受け取る蘭を前に、意味があるのかは分からない。
「しかも私は卒業後、九月からアメリカの大学に行くし——受かればだけど」
「あおいなら受かるだろ」
「もう、プレッシャーだなぁ。でもさ,だから,私は大丈夫だよ」
 もしかして、あのときいちごもこんな気持ちになったりしたのだろうか。
 旅立つ側の胸の痛みを知ることになるとは、あの頃思っていなかった。まだ旅立つまでには十ヶ月ほどあるから、きちんといちごの立場には立てないけれど。あのときを思い出すと、今も少し心細くなる。

「——あたしはさみしいけど」

 少しの沈黙、それを破った声に、いつのまにか下を向いていた視線をそちらに移す。見えた蘭の横顔は小さく微笑んでいて、その目はいちごのベッドを映していた。さみしいを当たり前に受け入れているような表情。
 これでは揶揄えない。
 蘭、と名前を呼べば、そのままの顔でこちらを見た。
「いちごが言ってたようにさ、また会うのが楽しみだって思うよ。コスモスのツアーを終えたら,きっとまたいちごは成長してる。それは楽しみ。負けてらんないなって思う。だけどさみしいのだって本当だろ。会うのが楽しみ。でもさみしい。だからたまに会えるのがもっと楽しみ。あたしはそうだよ」
 あおいは? と蘭は言う。なにそれ。それでさみしいって言わなかったら、まるで私が薄情者みたいじゃない。
 でもそうか。別にどっちかじゃなくていいんだ。
 さみしいも楽しみも、蘭は両方を当たり前に抱えている。進路の話のときもそうだ。蘭にはぜんぶバレていて、私が今さみしいのも、それに後ろめたさを感じているのも蘭はお見通しってわけだ。
 ああ、出会った頃からずっと先輩でずっと頼りになる親友は、また一歩私の先を歩く。こう見ると顔すら大人びて見えて、唇をきゅっと噛んだ。
 拳をつくって蘭の肩を叩く。蘭はなんで叩くんだってちょっと慌てる。
「やっぱり蘭大人になった! なんかちょっと悔しい!」
「なんで悔しいになるんだよ!」
「うう~ずるい~! さみしいをすんなり認めるとか超大人じゃん! かっこよくてずるい!」
「ずるいってなんだ!」
 私が騒げば蘭も同じように騒ぐ。そんなところは変わらなくてホッとする。にらめっこをして私がふっと笑って負ければ、蘭は困ったような顔で真似をした。
 あーあと声に出して、ベッドに背中から倒れる。蘭は私を見下ろして、叩かれた仕返しをするように私の肩を〝ぐー〟で押した。んふっとつい笑ってしまうと、蘭のなんだよという声も笑い声が混じっていた。
「でもそうかもね。ひとつなわけないもんね」
 今こうしていることにだって、安心、嬉しい、さみしいと、色々な気持ちが混ざり合っている。蘭の「だろ?」という声が上から降ってくるのは心地良かった。
「今もそうだし、卒業したらを考えると、やっぱり楽しみもあるけどさみしさもあるよ」
 蘭の言葉にうんと頷くと、蘭も「うん」と言った。そうして、
「あおいがロサンゼルスに行ったら、もっと思うんだろうな」
 蘭がぽつりと、気持ちを隠さず声に乗せて言った。私はびっくりしてしまって目が丸くなる。蘭はなんて顔してるんだって、反対に目を優しく細めた。だって私の進路に触れたときも、今の今までぜんぶ解ってるよ、応援してるよとしか伝えてこなかったじゃない。
「さみしいって、思ってくれるんだ」
「当たり前だろ。さみしいよ。さみしいぶん、会えるのがきっとすごく楽しみになるんだろうな」
 そうなんだ。さみしいと思ってくれるとしても、もっと先だと思っていた。
 じっと蘭を下から見つめていると、頬をぐーのままの手で潰される。その手に触れると、蘭は結んでいたのを解いて私の手を取ってくれた。
 蘭のさみしいに触れて、私のさみしいは少し小さくなった。
「ねぇ蘭、いちごがね、会えない分ってたくさんおやすみとかおはようを言ってくれるの」
「ははっ。なんだそれ。いちごらしいな」
「うん。でもいない分にはさすがに足りなくて。だから今度録音させて貰おうかと思ってさ」
「ええ……? うん、まあ、いちごならさせてくれそうだな」
「それでね、蘭のも録音させて?」
「はぁ?」
「蘭のおはようとおやすみも欲しいもん」
 蘭は眉根を寄せて、何言ってんだって顔をする。
 おねだりは根気強く。じっと見つめると、蘭は持った私の手でおでこを叩いてきた。
「痛い~!」
「自分の手だろ。別に、録音なんてしなくたって言ってほしくなったらそう言えばいいじゃん。電話があるだろ」
「毎日はできないでしょ。時差もあるし」
「そうかもしれないけど、でもそういう理由ないとあおいおまえ、意地張って連絡しなさそうじゃない?」
 蘭の言葉に反論できず、唇を噛む。今さみしいを言い出せない私が、向こうに渡った後尚更虚勢を張ってしまうのは想像に容易い。それこそ『中学生のいちごがそんなこと一度も言わなかったのに』って。
 たしかに、と尖らせた口で言うと、蘭からくっと楽しそうな声が漏れた。今こうして口に出したことで、実際渡米後に電話しやすくなっただろう。こんなことまで掬われてしまうとは。
「……じゃあ電話できなさそうな日はボイスメッセージちょうだい。紫吹蘭ちゃんのおやすみボイス」
「このオタク……」
「活動休止中の霧矢あおいのおはようボイスで返してあげるから! めちゃくちゃレア!」
 まったく、という声はきっとオーケーの印。優しい蘭はなんだかんだやってくれるだろう。どんな声で言ってくれるだろう。ちょっと恥ずかしそうな、不貞腐れたような声が聞こえるようだ。
 蘭の手に頬を擦り寄せる。蘭のちょっと下がった眉は、言われると確かにさみしそうに見えた。
「今日一緒に寝ようよ」
「いいけど」
「やった! おやすみってたくさん言ってあげるね」
「ハイハイ」
 今夜はきっともうさみしくない。だけどこんなに甘やかされては、後々のさみしさは増えてしまう一方かも。
「ね、どっちの部屋で寝る?」
「こっちがいいんじゃないか? もし急にいちごが帰ってきたとき、あおいがいなかったらアイツもさみしいだろ」
「蘭さん、優しい」
「ばぁか」
 ああ,ほら,もう今ホームシックになってしまいそう。