DOL的偉人伝

Last-modified: 2013-10-11 (金) 16:34:04

大航海時代Onlineに登場する偉人を少しずつ紹介していきます。

 

Holand_0.png ネーデルラント偉人伝

 

①エグモント伯 (エグモント伯ラモラル 1522-1568)

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-海乞食(海の旅団)と共にスペインに抵抗した、ネデ出身のスペイン軍人-
 ネーデルラント地方の貴族。スペイン軍の軍人として数々の武勲を重ねた。

 

 しかし、熱烈なカトリック信者であったスペイン国王フェリペ2世は、エグモント伯の故郷ネーデルラント(当時はスペイン統治下にあった)においてプロテスタントを弾圧。これに憤ったエグモント伯は、オラニエ公ウィレム1世ホールン伯フィリップらと共に「海乞食」(ゲームでは“海の旅団”)と呼ばれる反スペイン軍事集団に協力、スペイン軍に抗した。

 

 1567年、新たにネーデルラント総督として派遣されたアルバ公によって逮捕され、翌年、ホールン伯らと共に処刑された。

 

②バルネフェルト議長 (オルデン・バルネフェルト 1547-1619)

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-ネーデルラント独立に貢献した政治家-
 オランダの法律家・政治家。ヨーロッパ各地の大学で法律学を学んだのち、1576年にロッテルダムの法律顧問となり、ユトレヒト同盟(注1)の結成に深く関わった。

 

 1581年「ネーデルラント連邦共和国」が成立。1584年、独立の立役者オラニエ公ウィレム1世が暗殺されると、ホラント州議会の権力者として共和国の外交・財政を事実上掌握。しかし、貴族・商人の利権保全に努める政治姿勢、ならびに宗教的思想の違いから国家代表者たる総督・マウリッツ公注2)と対立するようになり、失脚。1619年に逮捕、処刑された。

 

注1:ネーデルラント北部諸州を主体に締結された対スペイン軍事同盟。
注2:オラニエ公ウィレム1世の次男。オランダ各州の総督。1602年東オランダ会社の設立、日本との交易開始当時の総督であるが、基本的には軍人気質で政治的手腕にかけたと評価されることが多い。

 

③豪商ビッケル (アンドリース・ビッケル 1586-1652)

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-共和国成立で得た商人利権を守るためならどこまでも-
 「ビッケル兄弟」として名を馳せたアムステルダムの豪商。

 

 莫大な資産、幅広い人脈を背景に、オランダ評議会の最大の実力者として政治的影響力をもった。しかし、豪商政治家であったために利権保持に偏る傾向があり、蘭仏同盟であらかじめ決められていた「アントワープ併合」については、オランダ総督フレデリック・ヘンドリック注1)によるアントワープ攻略を利敵貿易によって失敗させる(注2)など、売国奴的側面があった。

 

  
注1:ウィレム1世の末子でマウリッツの異母弟。父の政治能力、兄の軍事的才能を併せ持つ秀才。
注2:アントワープは、ネーデルラントがスペイン反乱を起こすまで北欧最大の貿易都市であったが、戦火に見舞われ勢いを落としていた。これをネーデルラントに併合すれば、いまや北欧最大の貿易港であったアムステルダムを再び凌駕することが予想されたため、アムステルダムの豪商ビッケルはこれを断固として阻止すべく暗躍した。

 

④エラスムス (デジデリウス・エラスムス 1466-1536)

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-宗教改革によるカトリック、プロテスタントの対立を憂えた賢人-
 ネーデルラント出身のカトリック司祭。代表的著作『痴愚神礼賛』

 

 マルティン・ルターの宗教改革とほぼ同時代を生きながら、対立が次第に激化するカトリック、プロテスタントの現状を憂い、「キリスト者の一致と平和」を一貫して唱え続けた。カトリック司祭という立場から、基本的にはカトリック教に忠実であったが、排他的な原理主義が招くカトリックの諸問題を批判し、中道思想を貫く。そのため、宗教改革推進派(プロテスタント)と同反対派(カトリック)双方の若き宗教家から注目され、絶大な影響を与えたとされる。

 

 しかし、対立の中でひとり「融和」を希求するその姿勢は、建前上、双方の教会から疎まれ、1536年失意のうちに死去。宗教家として各人からは尊敬されながらも、その気持ちを堂々と表明されることのないまま閉じた70年の生涯であった。

 

※なお、1600年に日本に漂着したオランダ船・リーフデ号の旧名は「エラスムス号」であり、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンが乗っていた船である。これから商会定期船で南蛮交易に向かうときは、「ちとエラスムス号に乗ってccするわ」と言うと、通である。

 

⑤メルカトール (ゲラルドゥス・メルカトール 1512-1594)

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-フランドルが生んだ世界地図の革命家-
 ベルギー・ルペルモント出身の地図職人。若き日々は印刷や理工機器の製造の仕事に従事した。

 

 1538年、それまで培った職人技術の応用から最初の世界地図を出版。当時、世界地図は非常に曖昧な妄想と推論の産物であったため、メルカトールが発表した地図の中でアジアとアメリカが別の大陸として描かれていたことは画期的であった(多くの地図製作者はそれぞれが別の大陸である説を有力視していたが、学術的に証明されてはいなかった)。

 

 物事の真理を追求する「学問」は、しばしば宗教と対立する異端の対象であったため、定説を打ち破る摩訶不思議な世界地図を発表したメルカトールも異端とされ、1544年には逮捕され、牢に投獄された。しかし、多くの学者から支持されていたために半年ほどで釈放され、地中海の精度が飛躍的に上がった1554年の地図を経て、ついに1569年、メルカトール世界図を完成させた(かの有名なメルカトール図法の技術の結晶である)。

 

 生前から世界各地の地図帖を総合した世界地図帖を編纂する計画をもっていたが、志半ばで死去。息子のルモルドが引き継ぎ、父の死後わずか1年で世界地図帖を完成させた。この地図帖はメルカトール本人が生前から希望した通り『アトラス』と名付けられ、以降、世界地図の一般的呼称となった。

 

⑥ルーベンス (ピーテル・パウル・ルーベンス 1577-1640)

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-生前から地位・名声・富を手に入れた稀有の天才画家-
 ドイツ出身の画家。アルバ公のプロテスタント迫害のためにアントワープからケルンへと逃れた夫婦の間に生まれた。ただし、父は社交界に出入りしていた法律家であり、基本的に裕福な家庭であった。

 

 イタリアでの修業時代を経て、母の病気をきっかけにアントワープへ戻って活動し、フランドル絵画の頂点を極めた。作品は主に宗教画が中心であったが、特徴的なのは肉感あふれる描写で表現された裸婦の姿である。彼の描くヴィーナスは「ルーベンス風」と称され、現在でもふくよかでグラマラスな女性のことをオランダでは“Rubensiaans”と呼ぶほど一般化している。

 

 欧州各国の貴族から寵愛され、彼の工房には注文が殺到した。このため、ルーベンスは画家でありながら実質、外交官としての活動にも取り組み、スペイン、イングランド両国からそれぞれナイトの称号を授与されている。