生まれ
ふりがな、まえだとしなが、初名は利勝、通称筑前守、肥前守
生没年1562年-1614年
どんな人?
加賀藩初代藩主(注利長の父利家は初代藩主ではなく藩祖です)
戦国時代の武将・前田利家の嫡男
おいたち年表
1562年 | 0歳 | 前田利家の長男として誕生! |
1589年 | 28 歳 | 利勝から、利長に改名する |
1599年 | 38 歳 | 父利家死去享年62 |
1601年 | 39 歳 | 初代加賀藩主になる |
1605年 | 44歳 | 利常(利光) に家督を譲り隠居 |
1614年 | 53 歳 | 高岡城にて死去。享年53。服毒自殺説あり |
信長が死んだ後は豊臣秀吉に仕えてる
お父さんの利家は豊臣政権の五大老だったので、お父さんが死んだ後は後を受け継ぎ五大老に
こっからが大変
時の権力者・徳川家康は豊臣家をぶっ潰したかったんだけど、豊臣政権上で権力を持ってる前田家がめちゃくちゃ邪魔だった
家康は利家がやっとこさ死んでくれたので、目障りな前田家潰しにとりかかる
ということで、家康は前田家をめっちゃ挑発し、戦を仕掛けてくるよう工作しまくった
とうとう「前田家が謀反をしよーとしている」という噂が流れ、家康が「前田家を攻めるぞー!」と立ち上がった
利家は必死で「それはウソです!抵抗する気はないです!」と弁解するんだけど、前田家つぶしにメラメラと燃えている家康は聞き入れなかった
ここで出てきたのが利家の奥さん・まつ
まつは「自分を人質にして江戸へ行けば大丈夫」と、江戸へ
ここまでされると家康も前田攻めをすることができず、あきらめた
以後も利長は家康に逆らうことなく、前田家を潰さないよう守りまくり加賀百万石の基礎を作りまくった
その他
嫌いな人・・・徳川家康 「最低です。最悪です。」
人生最大の後悔・・・大好きな母を人質として江戸に送ったこと
臨終の言葉・・・「自分が死ねば、徳川にとって最大の敵がいなくなり天下泰平が訪れるであろう」
小さな抵抗・・・家康が嫌いなキリスト教を地味に保護した
頑張ったこと・・・宇喜多秀家の助命嘆願 「だって妹(豪姫)のダンナですよ?助けてあげたいじゃないですか!」
八丈島よりメッセージ・・・「前田家は八丈島に流された宇喜多家に幕末まで毎年贈り物をくださいました。ありがとうございます」
逸話
●服毒自殺説あり
●利長の菩提寺高岡山瑞龍寺は富山県唯一の国宝となっている。また、高岡市にある前田利長墓所は武将としては日本最大の面積を誇る
●高岡ではとしなが君というマスコットキャラクターがある
関連のある人々
●妻永姫
●
祐筆の人物批評
祐筆
●一番手・・・ハガクレ