小牧・長久手の戦い

Last-modified: 2009-11-18 (水) 10:02:33

この合戦の原因は、ズバリ!!織田信長の息子「信雄」でございます

明智光秀を討ち、柴田勝家を討ち、もはや秀吉の勢いは留まりませんでした
着々と天下取りを押し進めつつある秀吉

明智討伐から10ヶ月で、近畿北陸一帯を平定した秀吉を恐れた他の大名達は、こぞって秀吉のご機嫌取りをしだしたのです
秀吉は「もはや北の果ての津軽まで、ワシにかなうものはおらんぞ!」と、宣伝しまくっていました
が、じっと黙っている不気味な存在である家康のことは、ずっと秀吉の心の片隅にあったのです

秀吉が「天下」を取るのに、もっとも邪魔な存在の家康

主君信長の同盟者であり、下手な真似はできない。

家康も「ワシは織田の同盟者。秀吉とは対等でなければならん。決して下と思われるのは嫌だ」と思っていました

ですが秀吉にとって「天下の覇者は1人」

どうしても家康を自分の下につけなければならなかったのです

着々と天下取りをしている秀吉
それをむかついて見ていたのが信長の次男信雄でした。

犬猿の仲であったライバルの信孝を自刃させ、次はオレの時代だーとほくそ笑んでいたのもつかの間、秀吉が力をつけつつありました

「秀吉は自分のため、つまりは織田家のために協力してくれていると思っていたから、自分も秀吉の味方をしていた。だけどあいつ、自分のためだったんじゃねーか!」と、感じてきたのです

「あいつは昔、オレのオヤジの草履係りだったくせに!」と後継者の椅子を秀吉にかっさらわれ不満タラタラ
秀吉は信雄に会うときは「信雄様」と一応は臣下の礼はとっていました
が、心中は信雄のことなど眼中にありませんでした
信雄のいる尾張の向こうにいる家康を睨んでいたのです

さてさて日本一すっごい大阪城を築城した秀吉

この城をお披露目するため諸国の大名に「上洛しにきなさい」とうながしました
この時、秀吉は信雄に対しても同じ手紙を送ったのです

「なにぃー!」と激怒した信雄

「秀吉はオレのオヤジの部下だぞ?オレはその息子だぞ?っつーことは、ヤツはオレより下だぞ?家臣同様の男に、なんでオレが挨拶に行かなきゃなんねーんだ!」とカンカン!!

信雄は腹を立て、「誰が挨拶に行くか!」と返事しました

そして「あいつをとっちめるには・・・」と、考え、思いついたのが信長の同盟者であった徳川家康だったので

家康にとっても秀吉は邪魔な存在
そんな矢先に信雄からの「秀吉ムカツク!オレの味方してよ!」の協力要請

家康は「ラッキー♪」とばかりに、信雄に協力することにしたのです

さてさて、信雄のもとにまた秀吉から手紙が来ました
そして秀吉は「信雄様はワシのことを誤解している。是非会って誤解を解きたい」と言ってきたのです

信雄は「そこまで言うなら会ってやろう」と、ちょっぴり機嫌を直っちゃいました
そして3人の重臣を連れて会見場所まで出かけたのです
連れて行ったのは岡田思考・浅井田宮丸・津川雄春の3人で「信雄の三家老」と言われていました

信雄は正直、あまり頭のいい男ではない
つまりは、この3人が信雄の領地の国政を牛耳っていたのです

これに目をつけた秀吉

この3人を抱き込めば、信雄は簡単に落ちるだろう・・・そう考えたのです

さっそく三家老に「ワシについた方がいい。その方がそなた達の将来のためであるぞ」と説得
三人は新領地をもらえるという約束をしてもらい、秀吉に寝返ったのです
ちなみにこの会見の時、信雄は秀吉が偉そうな態度をとった!と言って、怒って一人で帰ってしまいました

その後、秀吉は3人にじっくり話しをしたと言われています

秀吉に寝返った3人はそれ以後、なんとなく怪しい態度になってきました
が、お坊ちゃま信雄は全く気がつかない

気がついたのは家康だったのです
3人の態度がどことなく変わったという噂を聞いた家康は、さっそく忍者を放ちスパイ活動
すると、どうも秀吉側に寝返ったという話しが出てきたのです

「秀吉め!尾張に手を伸ばしてきたな!信雄が殺されてはまずい。先手を打たねば!」と、信雄のもとへ使者を出したのです

そして「三家老に内通の疑いあり。すみやかに処分したほうがいい」と言ったのです
信雄はビックリ!
早速3人を呼び、殺しちゃったのです

三家老を殺したとなっては、秀吉も黙っちゃいない。
家康はすぐさま動き出しました。

3月7日 家康は浜松城を出ました。

そして星崎城を占拠し、はっきりと秀吉に敵対したのです

三家老を殺したというニュースは秀吉のもとへ
これが信雄の公然の挑戦とみた秀吉

さらに家康が動いたという情報も入ってきました
「信雄などどうとでもなる。問題は家康じゃ。あいつはこれからワシの天下取りにおいて、必ずや目の上のタンコブとなる!今のうちに叩き潰さねば!」と、家康を討とうと心に決めたのでした

家康は信雄と清洲城で会見
軍議を開きました

秀吉軍の兵力は凄まじく、その数10万人
対する家康・信雄連合軍は16000人。

数では圧倒的に秀吉が有利でした。

ちなみに家康は、婚姻関係にある北条家に応援を依頼しましたが、北条は断っっちゃいました

そして美濃の大垣城にいる池田恒興は、どちらにつこうか非常に悩んでいました
秀吉・信雄の両方と仲良しだっため両方から誘いがあったのです
そこへ秀吉が「勝った時は駿河と近江の2つをあげるから!」と、熱心に勧誘
とうとう秀吉につくことを決意

娘婿の森長可とともに秀吉チームへ入ったのです
秀吉への手土産に犬山城を攻め落としました

これに驚いたのは家康・信雄チーム
恒興は絶対こちらにつくと思ってたので、急遽計画を変更

伊勢に行くのをやめて、兵を小牧山に集め秀吉軍と対峙することにしたのです
小牧山に本陣を置いた家康軍

ここで邪魔だったのが、森長可(蘭丸の兄)のいる羽黒
家康は羽黒を急襲しました
突然の来襲に、「鬼武蔵」の異名を持つ長可はボロ負けし、命からがら逃げ帰ってきたのです

ちなみに、ここまでが「小牧の戦い」です

秀吉はというと、家康の策謀である一揆の平定に手間取っていました

数では圧倒的に多い秀吉軍でしたが、家康は地元だということと、地域住民の一揆によるゲリラ先鋒で秀吉らを困らせていたのです

そこへ森長可がボロ負け!という知らせを聞いた秀吉

3万の大軍を率いて急いで犬山城へ急行し、3月27日に本陣を置いたのです
こうして秀吉軍と家康・信雄連合軍は真正面から対峙しました

秀吉49歳・家康43歳
9年前、初めて会った長篠の戦の時は味方同士でしたが、2度目の戦は敵同士となったのです

両者にらみ合ったまま、緊張した状態が続きました
お互い簡単に仕掛けることはできない
仕掛けた方が大きな損害をこうむることは、長篠の戦の時の武田勝頼を見て嫌というほどわかっていた

あんなミジメな姿にはなりたくない

2人は、仕掛けるチャンスを淡々と狙っていたのです
膠着状態が続いていました

すると池田恒興がこの状態を打破するために、策を提案したのです

「家康の本国である三河は守りが手薄になってるに違いない。今三河を攻撃したら混乱する。家康は慌てて三河に戻るでしょう。残った信雄を一気に叩けば尾張はゲットできます」というものでした

恒興は、羽黒にて娘婿の森長可が負けたこともあって、何とか戦功を得たかったのです
秀吉は危険を感じました
確かにうまくいけば、素晴らしい作戦
だけど、あの家康がそう簡単に罠にかかるだろうか?
秀吉は考えました

が、家康がこんな手にひっかかるとは思えない
秀吉はその作戦をNOと言ったのです

だけど恒興はこの意見を強く主張
他の武将達も恒興の意見に賛成しだしたのです

これ以上恒興の機嫌を損ねたら、せっかく味方になってくれたのに離れて行ってしまうかもしれない・・・秀吉は悩みました
また、甥の三好秀次が「ボクに三河攻撃の大将をやらせてくれ!」とまで言いだして、秀吉はとうとうOKしたのです

それでも秀吉は不安だったらしく「岡崎城に行って火をかけたら、すぐ戻って来い!」と注意を与えました
こうして三河行きの別働隊が出発することになったのです

先手が池田恒興
二番手に森長可
三番手には堀秀政
四番手は三好信吉
そして最後は秀次の合計2万

総大将は秀次だけど、実際指示を出してたのは恒興
が、進軍ルートである村の村民達が、秀吉軍が三河に向かったことを家康に急報したのでした
これを聞き家康はすぐに追撃隊を作り、恒興軍を追ったのです
順調に進撃していた一番手の恒興隊

この日、家康の出城である岩崎城の前までやってきました

岩崎城には丹羽氏重ら240人ほどしかおらず、恒興は「そんな少人数構ってられん」とシカトしていくつもりでした

が、この240人が、果敢にも大人数の恒興隊に挑戦してきたのです。
「構うな」と言っていた恒興でしたが、なんと自分の愛馬に鉄砲の弾が命中!!

「おのれ!生意気な!」と激怒したのです

恒興は、重要な先鋒でありながら、挑発にのって岩崎城を攻撃じゃー!と命令してしまったのでした
先鋒の池田隊がバトル中、二番手・三番手は前進できず、一休みとなってしまいました
ここで、恒興は大事な時間を使ってしまうこととなったのです

秀吉軍の先鋒が岩崎城攻撃をしている間、着々と家康の追撃軍が近づいていました

そして家康軍の水野忠重隊が、四番手の三好信吉隊が長久手付近でのんびりとしているところを発見したのです

長久手の合戦が幕を開けたのです
さらに家康軍の榊原康政も到着
秀吉軍最後尾の三好秀次に攻撃しました

ふいを突かれた秀次隊はあっけなく敗走していったのです

後方の銃声で家康軍の攻撃に気がついた秀吉軍三番手・堀秀政

なんとか榊原隊を撃退させたものの、家康本隊がすぐ近くまできているのを知り、追撃をやめ退却しました

この頃、やっとこさ岩崎城を落として休憩中の恒興のもとに、危ないところを助かった秀次の使者がやってきました

「家康軍がやってきました!」
恒興は「しまった!」と悔やみました

ですがもう間に合わない
こうなったら全軍を戻して、長久手へ向かうしかない
恒興は急いで戻っていったのです

恒興は必死で長久手へ戻りました

ここで恒興隊と長可隊は家康軍と対峙し、大激戦が始まりまったのです
一時恒興隊は優勢になったものの、家康本隊が横槍を入れると多くの兵が逃げていきました
ここで森長可が討ち取られてしまったのです

恒興は森長可の死を知ると大ショック
「全てワシの責任じゃ・・・」と、自ら乱戦の中に入って討死したのです
ここで恒興と長可は戦死

大将を失った秀吉軍は大混乱になり、敗走していったのです

秀吉のもとへ使者がやってきました

「恒興・長可討死!別働隊全滅!」

秀吉は大ショック!
すぐさま兵をかき集め応援に行きましたが、時すでに遅く、家康軍はさっさと引き揚げていたのです
そして翌日、家康は何事もなかったかのように小牧山の本陣へ現れたのです

この小牧・長久手の戦いは、家康の勝利となりました

長久手の激闘後、秀吉はますます慎重に

5月になると、ついに10万の兵を動かしだしました
そして尾張に入り、信雄の城を次々と潰しにかかったのです
対する家康は、「秀吉の挑発には簡単に乗らないぞ」と、動かずにいました
秀吉は「しぶとい奴め!」と、ムカムカ

各地で小競り合いが続きました

そして秀吉・家康は少しでも味方を多く!と、各地の有力な諸将たちに手紙を書きまくっていたのです

秀吉はいい加減この戦いをやめたくなってきました
いっこうに降伏する様子のない家康にうんざり
ということで、秀吉は信雄のもとへ「そろそろやめない?」と相談しにいったのです

信雄は秀吉の懐柔策ニコロリと騙されてしまいました

そして家康に何の相談もなく勝手に仲直りしてしまったのです

これを聞いた家康はビックリ!

「あのバカ・・・何をやっとんじゃ」と呆れまくり
そして戦う名目のなくなった家康は、仕方なく秀吉と講和することとなり、この戦いはあっけなく幕を閉じてしまったのでした