生まれ
たけだかつより
どんな人?
戦国時代の武将
武田信玄の息子
おいたち年表
1546年 | 1歳 | 誕生! |
1562年 | 17歳 | 諏訪氏の血を引いていたことから、諏訪氏を継ぎ高遠城?主に |
1565年 | 20歳 | 織田信長養女を正妻に迎える |
1567年 | 22歳 | 長男・信勝?誕生。遠山夫人は難産の為、死没 |
同年 | 武田義信が武田信玄と対立し、結果自害。義信事件?実質的な後継者として、勝頼は甲府に戻る | |
1569年 | 24歳 | 小田原城攻め。三増峠の戦いに従軍 |
1572年 | 27歳 | 信玄の上洛に従軍。三方ヶ原の戦い |
1573年 | 28歳 | 信玄、没。信玄派と勝頼派の派閥争いが起こる |
1574年 | 29歳 | 美濃を攻め、明智城?を落とす。遠江?の高天神城を攻略し、以降拠点とする |
1575年 | 30歳 | 三河長篠城?を攻めるも、長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に敗れ、多くの家臣を失う |
1577年 | 32歳 | 相甲同盟強化の為、北条氏政の妹を正室に迎える |
1579年 | 34歳 | 御館の乱に巻き込まれ、上杉景勝と同盟した事により、北条氏から同盟を破棄され、北条氏と織田・徳川といった周囲を敵に回す |
1581年 | 36歳 | 徳川家康が高天神城を奪う。真田昌幸に命じ、甲斐韮崎?に新府城?を急造し、本拠とする |
1582年 | 37歳 | 信濃福島城?主木曽義昌、駿河?江尻城?代で従兄の穴山梅雪が織田方に寝返る。その為新府城?を出て、天目山に向かうも重臣の小山田信茂の裏切りに遭い、甲斐田野にて自害 |
逸話
●辞世の句「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは」
●民衆の噂バナシ・・・「勝頼は呪いの子」
勝頼の母は、父・武田信玄が諏訪攻めをした時に滅ぼした諏訪家の娘であります
そのため武田家が滅亡した時、民衆は口々に「諏訪家の復讐をした呪いの子」と噂しあいました
関連のある人々
祐筆の人物批評
由衣・・・父親を超えることができなかった息子。父が偉大だと大変なのかもしれないですね
祐筆
●一番手・・・由衣
●二番手・・・ハガクレ 逸話だけプラス
●三番手・・・鱒 年表だけプラス