猪熊教利

Last-modified: 2010-03-04 (木) 11:43:34

生まれ

いのくまのりとし
?~1609
藤原北家四条流の流れを汲む山科家の一門

どんな人?

戦国時代の公家

豊臣秀吉関白だった頃に、主君の山科言経?が秀吉に嫌われていて地方へ行くことになったため、庶流の教利が山科家の代表として朝廷に仕えることになる。

豊臣秀吉が死ぬと、山科言経?徳川家康に口を利いてもらい朝廷に復帰したため、教利は分家して猪熊家を作った。

ものすごい美男子だったため、京都でも話題の人物だった。

光源氏のような人物として、髪型や帯の結び方などが「猪熊様(いのくまよう)」と言われるほどだった。

また、女癖がめちゃくちゃ悪く、「公家衆乱行随一」とも呼ばれていた

1607年に朝廷の女官と密通がバレてしまい、ついに後陽成天皇から追放されてしまうが、のちに京都へ再度戻る

が、戻っても女癖の悪さはまったく治らず、多くの公家仲間を誘って乱交しまくった。

どうやら天皇が寵愛している女官とも関係を持ったらしい

1609年7月に、参議の烏丸光広?ら公家仲間たちの密通がばれてしまう事件が起きる

教利はこの不義密通の手引きをしていたため、京都から九州へ逃げたが、捕らえられてしまった

そして10月に京都で処刑されてしまった

逸話

●「猪熊」という家名は平安京の猪熊小路に由来している
●子孫は武士になった

関連のある人々

正室・・・生駒一正の娘・山里

息子・・・生駒正幸

祐筆の人物批評

祐筆

●一番手・・・ハガクレ