生まれ
いのくまのりとし
?~1609
藤原北家四条流の流れを汲む山科家の一門
どんな人?
戦国時代の公家
豊臣秀吉が関白だった頃に、主君の山科言経?が秀吉に嫌われていて地方へ行くことになったため、庶流の教利が山科家の代表として朝廷に仕えることになる。
豊臣秀吉が死ぬと、山科言経?が徳川家康に口を利いてもらい朝廷に復帰したため、教利は分家して猪熊家を作った。
ものすごい美男子だったため、京都でも話題の人物だった。
光源氏のような人物として、髪型や帯の結び方などが「猪熊様(いのくまよう)」と言われるほどだった。
また、女癖がめちゃくちゃ悪く、「公家衆乱行随一」とも呼ばれていた
1607年に朝廷の女官と密通がバレてしまい、ついに後陽成天皇から追放されてしまうが、のちに京都へ再度戻る
が、戻っても女癖の悪さはまったく治らず、多くの公家仲間を誘って乱交しまくった。
どうやら天皇が寵愛している女官とも関係を持ったらしい
1609年7月に、参議の烏丸光広?ら公家仲間たちの密通がばれてしまう事件が起きる
教利はこの不義密通の手引きをしていたため、京都から九州へ逃げたが、捕らえられてしまった
そして10月に京都で処刑されてしまった
逸話
●「猪熊」という家名は平安京の猪熊小路に由来している
●子孫は武士になった
●
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●一番手・・・ハガクレ