アラス会戦

Last-modified: 2018-05-20 (日) 21:20:15

アラス会戦とは、第一次世界大戦中に発生した同盟軍、連合軍との会戦である。
ポーランド派遣軍が多大なる貢献をした一方で、多くの犠牲を払った。

アラス会戦
戦争第一次世界大戦
時期1917年9月12日~11月11日
場所パ=ド=カレー県アラス市近郊
結果同盟軍によるアラス占拠、連合軍はパ=ド=カレーより撤退。
交戦勢力イギリス帝国ドイツ帝国
 ・イギリス帝国・ドイツ帝国
 ・英領オージー・ポーランド立憲公国
 ・英領インド
フランス共和国
指揮官エミール・ファヨールヨハネス・ゲオルグ・V・B・マルヴィッツ
ヒューバート・ゴフフリードリヒ・シックス・V・アーミン
ヴワディスワフ・シコルスキ
初期戦力英軍:83,300人独軍:112,500人
仏軍:109,700人波軍:68,500人
合計:193,000人合計:181,000人
最終戦力英軍:187,800人独軍:322,500人
仏軍:219,300人波軍:178,400人
合計:407,100人合計:500,900人
被害兵員連合軍:355,000人同盟軍:229,000人
砲迫連合軍:2,830門同盟軍:129門
戦車連合軍:154両大破、213両損失同盟軍:8両大破
航空機連合軍:238機同盟軍:124機

背景

1917年8月末のアラス=カンブレー線
1917年8月、アミアン攻略へ向け、カンブレー攻略に注力していたドイツ皇太子軍集団は、マックス・V・ボーン率いる第7軍、フリッツ・V・ビューロー率いる第1軍をカンブレーの作戦に投入。

ノール県の防衛における重要な拠点であり、カンブレーを死守せんとするフォッシュ、デスペレー率いるフランス北方軍集団及びフランダース軍集団は、カンブレー防衛のため急行、同市に大規模な防衛網を構築した。この時フランス北部に展開する両軍の主力は、あからさまにカンブレーに集中していた。

それ故に双方が近隣都市であり、比較的重要でもあったアラスが手薄になっていたことに感づきつつあったものの、いち早くそれに気づき、アラス攻略の可能性を見出したのは独軍だった。

 同年8月29日、皇太子は、イーペルに展開していたガルウィッツ軍集団にアラス攻略を要請。ガルウィッツ軍集団指揮下のマルヴィッツ第2軍団、アーミン第4軍団及びシコルスキ率いるポーランド派遣軍は早速橋頭堡となるテリュ郡の確保へ向けて進軍を開始し、これによって独軍はアラス攻略へ本腰を入れ始める。

発端

 31日、独軍の先鋒部隊がテリュ郡の塹壕に到着する。この時の独軍の記録によると、仏軍の士気低下と、2週間もの間、少数でテリュ郡を守備していた独軍側の疲弊、そしてカンブレーに戦力が集中していたこともあり、アラスに近いテリュ郡での戦闘は西部戦線では珍しく小康状態にあったとされている。

 30日、仏北方軍司令のフォッシュは斥候の報告を受け、ガルウィッツ軍集団が動き出すことを予期した。アラスの手薄な守備に不安をいだいた彼は、予備軍集団に属するファヨールの軍団に対し、アラスへ本軍を派遣することを提案。

ファヨール軍団はこれを承諾し、アラスの守備へ向け移動、展開を開始。しかし独軍の準備砲撃や長雨によってインフラは壊滅的な打撃を被っていて、展開は予定以上に難航した。尚、これが完全に終了したのは9月12日のことである。

 9月12日、ドイツ第2軍所属の第12師団、第58師団、第59師団と、シコルスキ軍団所属の第1師団、第2師団がテリュ郡の無人地帯で同様に展開中の連合軍と衝突、かくしてアラス会戦が勃発する。

装備も十分で士気が高揚していた同盟軍に対し、当時アラスを防衛していた英軍ゴフ軍団、仏軍ファヨール軍団に属する12個師団は、数では独軍に勝っていたものの、前回と前々回の攻勢が大失敗していたために士気も低く、装備のすらも行き渡っていない、極めつけに疫病が流行するなどといったあまりにも酷い有様であった。

戦闘

9月12日の戦闘

8;24、ドイツ第2軍所属の第12師団、第58師団、第59師団と、シコルスキ軍団所属の第1師団、第2師団がテリュ郡の無人地帯で同様に展開中の英軍ゴフ軍団、仏軍ファヨール軍団に属する12個師団と衝突。
精強たるドイツ陸軍の整然とした攻勢に対し連合軍は為す術もなく、16:41の戦闘終了までに12個師団193,000人のうち59,122人を損失、砲迫512門を損失する大損害を被る。
ゴフ軍は壊滅的な被害を受けた事で指揮統制が崩壊し、後退を開始。テリュ郡を死守するため奮闘するファヨール軍を独断で見捨て、テリュ郡を放棄した後、2kmほど後退した塹壕へ逃げ帰った。。
これに対し命からがら撤退に成功したファヨールは憤慨し、ゴフの更迭を訴えた。しかしながら英国政府と参謀部の働きかけによってこの嘆願は握り潰された。
この日は緒戦で大敗を喫したため、連合軍の士気は大幅に低下した。

9月12日~22日までの戦闘の経過

初期は流動的な戦闘が予想されていたが、さらなる損害を恐れた連合軍は塹壕に立てこもったことでもはや典型的な塹壕戦と化していた。
18日、独軍と連合軍の間で戦車戦が展開された。連合軍の損害はFT-17-12両、Mark.VI-6両の大破に対し独軍の損害はA7V-8両大破と連合軍と比べて少ないものの、数少ない保有戦車の全てを失った。
連合軍は以降も戦車による散発的な攻勢を行うが、制空権を失っていた状況では一方的に砲撃を受け、戦車達は為す術無く破壊されていった。
そして22日、ゴフ軍団の全軍が展開を終了したことで、英国派遣軍は攻勢の準備を整える。

9月23日~10月3日 英軍「3209ローリンソン作戦」

22日、ゴフの副官ローリンソンが新たな攻勢作戦を提案した。
大まかな作戦内容は「戦車の集中投入で塹壕を突破した後、歩兵の突撃によって突破口を広げ、敵軍の前線に大穴を開ける」というもので、ww2に見られるような戦車の運用がなされる予定だった。

ゴフ軍団は所属の第21ロイヤル歩兵師団を始めとする数個師団によって突撃集団を組織し、23日6:30から大規模な攻勢が実施された。この作戦は部分的な成功を見せ、ドイツ軍塹壕線の一部を突破、5個師団相当の部隊を包囲、殲滅する。

しかしながらドイツ軍航空隊による爆撃や、激しい砲爆撃によって戦車は破壊された上、作戦区域には当時の不正地走破能力では突破が困難なほど激しい起伏が形成され、作戦の継続が困難となる。

29日21:00、「ディットンプライヤーズ突撃連隊」全滅の報告に伴いローリンソン作戦は中止された。

この作戦期間中の同盟軍の被害は兵員98,478人を損失、砲129門に124機の航空機を鹵獲ないし破壊された。
一方で英軍は兵員9,389人を損失し、戦車93両が大破した。

10月9日~16日 仏軍「蜂作戦」

7日、ゴフ軍団の成功によって余裕ができたファヨールは、新たな攻勢作戦を打ち出す。

その作戦は、火力を一箇所に集中して投射(面制圧射撃)し、兵力の空白地帯が生まれたところで突撃部隊を急襲させ、敵軍をかき乱す、といった内容である。

その作戦はまるで人をめった刺しにする蜂のようだったことから「蜂作戦」と名付けられた。

9日から開始されたこの作戦も部分的な成功を見せ、独軍の塹壕戦を2km後退させることに成功した。しかしながら独軍の巧みな弾性防御戦術によってそれ以上の成功は認めず、損害は拡大の一途を辿った。

16日、当該作戦のために組織された突撃連隊でら最後の1つであった「カレー第1国防連隊」の全滅を受け、この作戦は終了した。

同盟軍の損害は兵員32,348人、仏軍の損害は兵員42,234人であった。

仏軍は大きな被害を被ったものの、部分的ではあるが作戦の成功によって士気は向上し、アラスへの物資調達も滞りなく行われるようになったため、緒戦のような厭戦気分は消えていた。

10月17~23日 同盟軍「マックス作戦」

同盟軍はカンブレー戦で史上初の浸透戦術が大成功だった事を受け、当該戦域においても浸透戦術による敵前線突破を狙った。

17日司令官ガルウィッツの名をとって「マックス作戦」と名付けられた攻勢作戦が開始される。今まで攻勢を受けてばかりだった同盟軍による一大反抗であった。

颯爽と現れた重装歩兵によって連合軍の前線は掻き乱され、崩壊し、てんでんばらばらとなる。
18日、連合軍は直ちに独軍から距離を取るために、総力を挙げた大撤退を開始した。

独軍の画期的な作戦は連合軍の前線を崩壊せしめたが、この作戦で暗躍したのが「ポーランド西部派遣軍」である。

アラスの10.4km北東に位置するガヴレル郡近郊に展開していたシコルスキ率いるポーランド軍団は、独軍を遥かに凌ぐ5kmほどの距離を前進。そして、ファンプー郡、フュシー郡を占拠した。フュシーからアラスまではたったの4.5kmであり、アラスが目前にせまる場所に橋頭堡を築いたのである。

仏軍は塹壕に籠るか、無人地帯に新たな塹壕を構築して防衛の拠点を確保した。防御を盤石にした事で、浸透戦術が有効となる戦力の隙間が埋められ、これによってマックス作戦は停滞した。

23日の総攻撃に失敗した同盟軍はマックス作戦を中止。新たな作戦を計画し、方針を転換することとした。

この作戦期間中の独軍の損失は兵員12,231人、波軍の損失は兵員27,131人、連合軍の損失は兵員138,275人、砲迫1,328門である。

10月24日~11月6日 同盟軍「ヨハネス作戦」

ヨハネス作戦
(青が連合軍、黒が独軍の前線)

マックス作戦によって一時は前線の突破に成功した独軍だったが、連合軍のあまりにも硬い防御が問題視されていた。

そこで第2軍のマルヴィッツは弾性防御と面制圧射撃を活用した画期的な殲滅作戦案を提案。これが採用されたため、彼の名をとって「ヨハネス作戦」と名付けられた。

24日、同盟軍は新たな作戦を予定通り実施。陽動部隊が一斉に突撃したのちに後退を行い、敵をおびき寄せ、砲弾の雨を降らせるというこの作戦はとても大きな戦果を挙げた。

11月6日、アラス北部のロクランクール郡付近に展開する独軍へ集中していた連合軍だったが、予想外の報告によって司令部に激震が走る。
ファヨールとゴフに「波軍総突撃」の知らせが届いたのだ。
ロクランクールはアラス北部であったのに対し、波軍の展開していたファンプー、フュシーはアラスのほぼ真東に位置していたのである。

防衛線の側面を突かれた連合軍は瞬く間に総崩れとなる。司令部があったアラス付近の丘も波軍騎兵隊によって占拠された。
ファヨール、ゴフはそれぞれ司令部からの脱出に成功、南方のアンクールに逃亡したが、ローリンソンを含むアラスに残存する部隊とは連絡が途絶えた。
結果、兵員12,3431人、砲1002門を失う大損害を受け、指揮系統が崩壊した連合軍残存部隊はアラス市中心街に撤退。ここに防御体制を再構築した。

11月6日~11月11日 アラス陥落とアラス会戦の終結

アラス市に逃亡した連合軍は、散発的なゲリラ活動を行い抵抗したものの、それらは意味をなさなかった。
残存部隊の暫定的な司令官であったローリンソンは捕虜となり、アラスを防衛していた11,400程度の兵員はアラスの南方に位置するアンクールへ撤退していった。
11日13:26分、同盟軍はアラス市中心部を開放。統合参謀本部へ「アラス市の占領に成功した」との電報を送信した。

結果

要衝アラスは同盟軍の手によって陥落し、それから12日後の11月23日にはカンブレーも陥落した。
このアラス会戦による両軍の被害は非常に大きく、連合軍は総計で兵員355,000人、砲迫2,830門、戦車154両大破、213両損失、航空機238機を損失し、同盟軍は兵員229,000人、砲迫129門、戦車8両大破、航空機124機を損失した。
連合国はフランス北部における重要な拠点を2つ一挙に失陥し、パ=ド=カレー県を放棄したことで士気は再び最低レベルに下がった。
そしてこの戦いが翌年の同盟軍による攻勢、「皇帝の戦い」につながっていったのはもはや言うまでもない。

余談:無名兵士の日記

2007年、ファンプーに存在する地下壕の跡地から「ヨハン・リトフスキー」と名の書かれた手帳と、一枚の家族写真が発見された。
その手記には動員されて戦地に来て以降、経験してきた出来事が事細かに記されていた。
11月6日で時が止まっていたその手帳の記録の最後は「祖国万歳、全ての英雄に幸あれ。」と締めくくられている。
現在この日記は戦争の壮絶な歴史を伝える貴重な資料として、ポーランド帝立戦争博物館に実物が展示されている。