李牧

Last-modified: 2024-04-02 (火) 19:21:41

登録日:2024/03/15 Fri 17:00:00
更新日:2024-04-02 (火) 19:21:41
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Tag: 中国史 春秋戦国時代 李牧 匈奴 名将 始皇帝の統一戦争を阻んだ武将 李左車 リーボック



李牧とは、春秋戦国時代末期の人物。
趙国の武将。封号は武安君。なお、『戦国策』によると本来の名前は(さつ)で、牧は字だという。本稿では一般に知られている「李牧」で通す。
秦の始皇帝(皇帝となる前なので「秦王政」と王号で呼ばれることが多い)が中華統一を開始した時期に現れ、一時は秦軍を阻んだことで知られる。
生年は不明。前229年に没。

▽目次

【生涯】

◆前歴

出身地は趙国の柏仁(現在の河北省は邢台市の隆尭県)。
しかし生年は不明。出自などほとんどのことは分からない。

長期間にわたって代(かつて独立国だったが武霊王の時代に併合した地域)の雁門郡に司令官として駐屯し、匈奴に対して防衛線を敷いていた。
現地一帯ではほぼ全ての権限を握っており、代郡・雁門郡の税収を(首都・邯鄲に収める以外は)自由に采配し、現地の役人の任免や、兵士への軍事訓練や待遇改善、狼煙台の整備、民衆情勢の視察など、全業務を指揮した。

また彼は匈奴に対しては防衛を徹底した。
「匈奴が侵入してくれば、住民は家畜や物資を持ってすぐに城や砦に帰還し、堅く守れ。もしも出撃するようなことがあれば斬刑に処す」
と、反撃も禁止していた。
そのため、匈奴は何度も侵入しながら、略奪してもほとんど収益を得られなかった。

しかしこうした徹底防衛は、敵の匈奴はおろか味方の趙軍将兵からさえ「臆病」と受け取られた。
当時の趙王もこれを問題視し、何度も譴責の使者を送ったが、李牧は頑として方針を変えなかった。

結局、趙王は李牧を罷免し、別の武将を後任の代郡太守とした。
後任太守は一年にわたって、匈奴の侵入に対して毎度出撃し、撃退していった。
しかし戦闘のたびに物資や兵士に対する損害が多く出てしまい、また農地や牧場は荒れ果てた。
趙王は慌てて李牧の再任を決定。
李牧は「病気」と称して門を閉ざして出仕しなかったが、これは一種のハッタリや交渉であり、
最終的に李牧は趙王に対して「王が私を再任するというのなら、私が従来の方針に戻すことを受け入れ、容喙しないでいただけますね」と言質を取った。趙王は受け入れた。

再び匈奴戦線の司令官となった李牧は、宣言通り方針を「専守防衛」に戻す。匈奴が侵入してきても民衆や物資を城に戻して、出撃を禁じて、守りに徹した。
それで匈奴は、略奪による収入こそ減ったが、敵がまた「臆病な司令官」に代わったと見て勢いづくようになった。

しかしその間に、李牧は将兵の訓練、武器の整備、物資の集積を行っていた。
そして、戦車1300輌、騎馬13000匹、勇士五万と弓兵十万、そしてそれらを指揮する将校が揃った時点で、李僕は反撃を決意した

その時にも単純な力押しではなく作戦を練った。
まず、匈奴の侵入に合わせてわざと「逃げ遅れ」を作って住民や家畜を略奪させる。
李牧再任以来、略奪での収入が減っていた匈奴はいよいよ「攻め込み時が来た」と判断して、その主力部隊を総動員して攻め込んだ。当然「趙軍は今回も引きこもって出てこない」と確信している。
しかしその攻め込んできた匈奴の大群に対して、李牧は一年間増強し続けた軍隊を総動員。「まさか反撃されるはずがない」と油断していた匈奴を包囲し、一気に殲滅した。趙軍もこれまで戦う機会がなかったことで激しい戦意を見せたのである。
結果、匈奴は十万以上の騎馬と兵士を失い、以後十数年にわたって趙に攻め込むことができなくなった。
さらに李牧はこの機を逃さず北伐を開始。襜襤(せんらん)、東胡、林胡という三つの部族をあるいは滅ぼしあるいは併合して、北方を安定させ国力を増大させた。

『史記』にも記載された非常に有名なエピソードだが、実はこの李牧のエピソードは「いつ起きたのか」が分からない。
趙王から一度罷免されてから再任された、という話でも不思議と「趙王」とだけ記されており、孝成王(在位BC.265~BC.245)なのか悼襄王(在位BC.244~BC.236)なのか不明である。
また「李牧の兵権を一時交替した武将」も名前さえ記されていない。

◆秦軍撃退

李牧の活動が年次とともに分かるのはBC.243から。趙国では悼襄王の二年、秦では始皇帝四年である。
このとき李牧は相国となり、秦国に使者として赴いて同盟を結び、秦が人質に取っていた趙国の太子と、趙が人質としていた秦の公子がそれぞれ帰国した。
ただ、二年後には趙は韓・魏・楚・燕*1と組んで秦に攻め込んでいるため、同盟は短期間で終わった模様。

さて、BC.245年に孝成王が没してから即位したのが悼襄王であるが、この悼襄王元年(BC.244)には趙国は大いに荒れた。
前年から大将軍の(れん)()魏国攻略に赴いていたが、即位した悼襄王は前から廉頗を嫌っていたため、彼の軍権を剥奪して楽乗という将軍に引き継がせようとした。
廉頗はこれに猛反発し、なんと楽乗を撃破。続いて側近を率いて今さっきまで敵対していた魏国に亡命した。
また廉頗に破れた楽乗も悼襄王からの叱責を厭ってか、逃亡して行方不明となる。
それ以前から趙国では、名臣と唄われた趙奢・藺相如が世を去っており、今また廉頗と楽乗をも失ったため、趙軍における李牧の重要性は増していた。
彼が相国に任命されたのもそれが原因であろう。

西に秦国と同盟を結んだのと同じBC.243年には、李牧は趙王からの命令で燕国に侵攻。燕国の武遂、方城の二県を制圧した
翌BC.242年には再び燕国に侵攻。この時は老賢者・龐煖(ほうけん)と共に指揮を執り、燕の老将劇辛を討ち取っている。
ちなみに龐煖と劇辛は昔なじみだったという。しかし、劇辛はBC.312年に燕の昭王に仕えた人物であるといい、BC.242からすると七十年も前である。燕の昭王に仕えた時に二十歳だとすると劇辛は九十歳になり、かつ龐煖が劇辛と知り合ったのは「燕の昭王に仕える以前」らしいので、両者はほぼ同世代と思われる。
実際龐煖も趙の武霊王(在位BC.326~298)から諮問を受けたという逸話がある。武霊王の在位年数は四半世紀もあるので「何年のことか」ははっきりしないが、最晩年に諮問を受けたとしても56年前のこととなる。
やはりBC.242年時点で少なくとも七十代後半、「燕の昭王の時代に生きていた」というのが本当ならば九十代でもおかしくない年齢だろう。

また「韓非子」ではこの趙国と燕国(龐煖と劇辛)の戦いについて一カ所(飾邪篇)だけ触れられているが、ここでは李牧の名がない。
年齢差もあるので、李牧は龐煖の副将だったと思われる(あるいは参戦していなかったか)。
なお韓非子にとってはまさにリアルタイムで入手できた最新情報である。

このBC.242年の燕国攻略後、李牧の足取りは数年にわたって途絶える。
しかし商鞅の改革以来、一強となった秦国には相変わらず圧倒されっぱなしだった。
BC.236年、趙軍は龐煖を将軍として燕国に攻め込み六の城を制圧する(今回は李牧は不参戦)が、手薄になった趙国を秦軍(指揮官は王翦(おうせん)(かん)()・楊端和)に攻め込まれて鄴・閼与など城を九つも失う。龐煖は急いで遠征軍を撤退させるが、すでに鄣水一帯の土地を失っていた*2
この年に悼襄王が逝去して幽繆王(ゆうぼくおう)(趙王遷)が即位する*3が、BC.234年(幽繆王二年)に秦の大将・桓齮によって平陽・武城・武遂を落とされて将軍扈輒(こちょう)が討ち取られ、将兵十万を喪失。
翌BC.233年にはまたも桓齮に攻め込まれて上党を、続いて太行山を超えて趙国の後方、赤麗と宜安を落とされる。ここでも秦軍は趙軍十万を討ち取る。
すでに秦領となった鄴と合わせて、邯鄲は前後に秦軍に挟撃される形となった。

幽繆王も危機感を感じて代・雁門郡から李牧を招集、彼を大将軍に任命すると趙国全軍の指揮権を与え、秦軍撃退を命令した。
李牧は趙軍主力を率いて邯鄲から出撃すると、宜安付近から肥下にて秦軍と対峙。
連戦連勝を誇った秦軍に対して激しく戦い、ついに秦軍を撃破。桓齮は『史記』によれば撤退、『戦国策』では戦死したという。
時にBC.233年。この「肥下の戦い」の勝利で李牧は「武安君」に封じられた。

さらに翌BC.232年には、趙領の番吾に攻め込んできた秦軍を李牧が兵を率いて迎撃、これを打ち破る
李牧率いる趙軍は、同年のうちに魏国韓国にも攻め込み、国境線を南に押し広げていった。

◆破滅

しかし、李牧が真に敵対していたのは桓齮ら秦の将軍たちではなかった。秦王政、いや秦の始皇帝である。
李牧が桓齮と戦っていたBC.233年、秦国では韓非子が始皇帝に謁見している。
韓非子はすぐに死没してしまったが、始皇帝が彼から受けた影響は大きく、ついに始皇帝は「天下統一」を本格的に視野に入れた。
そして韓非子は「趙国は以前から軍事力を増強し、また諸国の合従(反秦連合)を主導している」と指摘しており、また「秦趙の強弱は、今年にあるのみ」とも言及していた。

また秦国には尉繚子(うつりょうし)もいた。かつて魏国に仕えた尉繚子の子孫であり、自らも兵法家である。
彼はBC.237年に始皇帝に謁見し「六国にいる重臣たちに手厚く賄賂を送れば、六国の足並みを乱して諸侯を併合できるだろう。秦の損失はたかが三十万金ぐらいである」と指摘していた。

要するに、始皇帝は「天下統一」という戦略プランと「反間の計」という戦術プランを立てて行動を開始していた。
そして李牧は、あくまでも「秦軍迎撃」だけを考える戦術家であった。幽繆王には戦略眼はない。
この戦略と戦術?の差が、李牧と趙国が敗れる最大の原因となる。

またBC.231年には代郡で大地震が、翌BC.230年には大飢饉が発生。不吉であった。

BC.229年(秦始皇18年)、始皇帝は大軍を発して趙国に攻め込んだ。大将王翦は井陘に、副将楊端和は河内に、次将羌瘣(きょうかい)は邯鄲もしくは代に、それぞれ軍を預かって進撃。もちろん、各方面を突破できれば、後は邯鄲を落とすのみである。
対する幽繆王は当然のように李牧を大将軍に起用し、また副将に司馬尚を任命して、全軍を与えて秦軍迎撃に当たらせた。
王翦も李牧には苦戦したが、始皇帝は尉繚子の策に基づき「反間の計」を実行に移す。
狙いは趙国の大臣・郭開。彼はBC.245年に廉頗の趙国帰参を妨害した人物だったが、十六年を経た現在は幽繆王の信任を得ていた。

また幽繆王の母・悼倡后も李牧を疎んでいた。
『列女伝』によれば、もともと彼女は低い身分で素行もよろしくなかったようだが*4、美貌ゆえに先王・悼襄王から後宮に迎えられ、ついには王妃となった経緯がある。
しかし李牧は、悼襄王が悼倡后を容れることに反対していた。
その悼倡后の産んだ子が幽繆王である。つまり彼女にとって、李牧が自分と息子を放逐することはあり得る話だった。

秦は彼らに大量の賄賂を送って味方に付けると、「李牧と司馬尚は秦軍と結託して邯鄲に攻め込み、王位を奪おうとしている」との噂を流させた。
もともと幽繆王自体が、兵権と人望を握り母と対立した李牧を警戒していたこともあり、幽繆王は李牧の粛清を決定。
王族の趙葱(ちょうそう)と、斉国からの亡命者・顔聚を派遣して李牧・司馬尚と交替させた。
李牧は驚きながらも邯鄲に戻って幽繆王に弁明するが、幽繆王は一切を聞き入れず即座に李牧を処刑。司馬尚は身の危険を察して逃亡した。

なお、李牧の最後は資料により差異がある。
『史記・廉頗藺相如列伝』では李牧は将軍解任の通達に抵抗したため、「抗命罪」により幽繆王が派遣した将校によって斬首された。直後に司馬尚も逃亡。その後に趙葱・顔聚を後任として派遣したとする。
一方『戦国策』では、李牧は悲嘆して自殺したという。なおこの『戦国策』では李牧は腕に障碍があり、拝礼も難しかった。そして剣を抜いて自殺しようとしたが、ちゃんと握れないので切っ先を口にくわえて柱に押しつけるようにして死んだという。とはいえ、その身体障害の描き方が「荘子」と似ており、さすがに寓話と推定される。

また李牧が粛清されるまでには『戦国策』には三つの話が記載されている。
『戦国策・欲見頓弱』では「秦大夫・頓弱が趙国に派遣され、万金を投じて工作して李牧処刑に誘導した」、
『戦国策・文信侯出走』では「幽繆王の寵臣・韓倉が李牧を讒言し、李牧に短刀を届けさせて死を賜った」、
『戦国策・秦使王翦攻趙』では「王翦が反間の計を用い、郭開に賄賂を送って李牧粛清に持って行った」、とする。
また上述した悼倡后の話は主に『列女伝』の記述による。
一番上の『戦国策・欲見頓弱』の話は尉繚子が始皇帝に示した反間の政略と一致する。このことから頓弱とは尉繚子の別名とする学説もある……が、「反間の計を進言する人物が、必ずしも賄賂の送り方や宮廷工作の具体的なやり方に通じているとは限らない」と言うことで、「尉繚子の策略を実行した工作員として頓弱(あるいはそれに相当する人間)がいたのは事実だろうが、尉繚子本人が邯鄲まで出張ったというわけではなかろう」というのが通説。

いずれにせよ、趙国は最後の名将であった李牧を自らの手で消し去った。
そして李牧の死を確認した秦軍は趙国攻略を再開
BC.228年、王翦は総攻撃を開始し、東陽の地で趙軍を大いに破る。趙葱は戦死して顔聚は邯鄲に逃亡した。
秦軍はそのまま邯鄲に攻め込むとこれを攻略し、幽繆王と顔聚を捕縛した。
幽繆王は房陵に流されたという。

趙国の公子嘉(幽繆王の異母兄)はかつて李牧が治めていた代に逃亡して代王を名乗るが天下の趨勢に影響をもたらすことはなく、BC.222年にやはり秦によって滅ぼされ、公子嘉も捕虜となり趙国は完全に滅亡した。

【人物評】

始皇帝の統一戦争を正面から阻む可能性のあった人物として、楚国の項燕とともに知られる人物。
唐朝・徳宗の建中三年(782年)には、礼儀使・顔真卿の建議で歴代の名将六十四人を讃えて「武廟」を設立した。その筆頭は太公望だが、続く諸将の中には李牧の名前も入っている。
(他の春秋戦国時代後期の武将からは、孫臏・田単・廉頗・趙奢・王翦が選出)
宋代の宣和五年には「武廟」は七十二人の武将が名を連ねるが、ここにも李牧の名がある。

匈奴に対しても強かったことから、北方騎馬民族の脅威を常に受けていた漢民族からの信仰も強かった。
例えば、前漢の名君・文帝は「廉頗や李牧がいま我が部下にいれば、匈奴など恐れることもなかったであろう」と延べ、その臣下の馮唐は「天下の将軍はただ廉頗と李牧のみだ」と嘆いた。

他にも彼に言及する人物は多いが、ほぼ全て賞賛一色
唐初期の歴史家・司馬貞が「廉頗と李牧を用いなかったために趙国は滅んだ」と評したのを筆頭に、あまたの文章家が李牧を絶賛し、その死を惜しんだ。

もっとも、李牧がそこまで絶賛されたのは、やはり儒教の理想に背く悪の帝国?を作った極悪人・始皇帝の野望を、唯一阻める人物だったから」という点が最も大きかったのだろう。
三国志」の王允も、どちらかというと狭量な逸話が多いのに董卓?を討ち果たした」の一点のみで美化されているところがある。
李牧への英雄視も「もしあのとき李牧が勝っていたら」という、一種の願望もあったと思われる。実際「秦は汚い謀略を使って罠に填めた」と罵倒をぶつける文人もいた。例えば、宋の司馬光は「虜帳方惊避、秦金已闇来(秦の金は闇より来たれり)」と書いている。
「秦の侵略を阻んだ」のは項燕も同じだが、彼の場合は「中国史上最強の暴れ武者」項羽?のイメージがあまりにも強く、また「全力を出し切ってそれでも秦の大軍に負けた」という展開のため、「もし郭開のような佞臣がいなければ」というようなIFも見いだしにくかったのだろう。

【李牧の一族】

  • 李曇(字:貴遠)
    李牧の祖父。趙で武将として働き、柏人侯の封号を受けた。その後は秦に入朝して御史大夫となる。
    さらに後には退官して趙に戻り、柏人(現在の邢台市隆尭県)に葬られた。
  • 李璣
    李牧の父親。李曇の第四子。活躍などは記録されていない。
  • 李左車
    李牧の孫。
    楚漢戦争から前漢初期の時代の人物。
    秦末に六国残党?が蜂起した際、趙歇と陳余を中心とする趙国に参加。「広武君」の封号を受ける*5
    歴史における李左車の初登場は紀元前204年。漢の大将軍・韓信(&一緒にいる張耳)が三万の兵で趙に侵攻した。
    趙はこれを迎撃するためにほぼ全軍、二十万*6を投入。趙王歇と陳余が自ら参戦していた。
    李左車はこの際、陳余の副将として参戦。
    「韓信軍は数こそ少ないが勢いに乗っていて手強い。しかし井陘(地名)にいるので、隘路に苦戦している。この道を前後から封鎖してしまえば韓信軍の兵站を断ち崩壊させられるだろう。私が趙軍から三万を率いて韓信軍の背後に回るので、陳余閣下は残る大軍で正面から出口を封鎖してください」
    と献策した。

    だが陳余は「敵は寡兵でこちらは大軍。このような時は数に任せて短期決戦にすべし」と却下。少数の敵に対して持久戦を展開すれば志気に関わるともしていた。
    「趙国」といっても陳勝の反乱からの混乱のなか突貫工事で立ち上げた勢力であり*7、求心力を高めなければならないというのは切実な問題であった。
    また陳余が短期決戦にこだわった理由として、西からの韓信軍に加えて南方で劉邦?軍が旧魏領地に展開しており、言わば西と南の両面から挟撃されていたことも指摘される。つまりさっさと韓信を倒して劉邦に備える必要があったと言うこと。もっとも、劉邦が韓信と連携していたかは資料で一致しない。

    しかし韓信は「背水の陣」を敷いて陳余と趙軍主力を「韓信隊など一戦にして壊滅させられる」と思い込ませて誘い出す。それで手薄になった趙軍本陣に、韓信が送り込んだ別働隊が襲撃、前後に敵を迎えさせて、ついに趙軍を壊滅させた。この「井陘の戦い」は趙軍の完敗となり、趙歇・陳余は前後して戦死、趙国は滅亡した。
    この際に李左車も捕らえられた。

    しかし韓信は李左車の見識が高いことを知っており、彼を説得して自らの幕僚に加えた。李左車も韓信軍の疲弊と再建の必要性、および燕・斉を直接的な武力ではなく威圧によって降伏させる戦略を進言し、韓信はこれを受け入れた。
    彼は「広武君略」という兵書を書き記したと言うが、現在は散逸している。
    なお「敗軍の将は戦を語らず」とは、李左車が韓信に捕縛された際の言葉。趙歇・陳余をよく補佐できなかったことを念頭に置いている。
    それでも説得する韓信に対して、自分は愚者ではあるがという謙遜を表現した「智者には千慮すれども必ず一失あり。愚者には千慮すれば必ずや一得あり」という言葉もまた有名である。

    「史記」や「漢書」などにおける李左車の記述は以上となる。劉邦が天下を取ってからの受勲者の中に李左車の名前はない。
    ただ、民間信仰では非常に人気が高く、主に旧趙国こと河北でさまざまな説話に登場するほか「死後に雹の神となった」とも伝わる。

    1977年には山東省で古代の墓が見つかり「李左車の墓か」と一時期大騒ぎになったという。
    しかし調査の結果、前漢時代ではなく後漢時代のものであり、李左車とは無関係と判明した。
    まあそれはそれとして考古学的資料としては大きな価値があったが。

    ただ、実は李牧の親族関係、特に李左車を李牧の孫とするのは『新唐書』宰相世系表に拠っている。
    そして『新唐書』の歴史書としての評価はやや低め。また成立は1060年、李牧や李左車の時代から1200年以上も経過しており、「李左車は李牧の孫」というのは否定的な見方をされる場合もある
    なにせ李という姓は中国には無数にあるわけで……
    ただ、陳余や韓信への献策からして李左車が能力ある人物だったことは確か。
    また趙国では求心力の向上に腐心していたはずであり、仮に本当に血縁がなかったとしても「こちらの李左車将軍はあの李牧将軍の血を引くものである!」というハッタリを利かせた可能性なら大いにあるだろう。

【各作品】

  • コーエー三國志
    「いにしえ武将」として定番の一人。
    統率力は90代後半、知力は90前後と文武両道。武力と魅力も70代半ばとこれまた悪くない。
    政略で消されたためか政治力は60台とやや低めながら、全体的にバランスのとれた武将。
  • 安能務?「春秋戦国志」
    麾下の兵士を分散・収束させて敵を攪乱し、隙を見せたところに奇襲を掛ける、戦場での駆け引きに長けた武将として描写される。
    韓非子は「政治の世界に天才というのは現れないが、軍事の世界に天才というのは突然現れる。例えば楽毅がそうだった。秦国は確かに現在最強の国家だが、軍事力で逆転されることはあり得る。そうなる前に統一を急ぐべきだ」と教えていた。
    そのため李牧の活躍を聞いた始皇帝は「これこそ韓非子が言っていた、楽毅に並ぶ軍事の天才だと懸念しつつも「韓非子は政治の世界に天才は現れないと言った。しかし、ここに俺がいる。ヤツは俺の手で倒してみせる!」と決意する。
    また魏国から来た尉繚子より「廉頗が魏国に亡命したのは、趙国で郭開の讒訴にあったから」と聞いていたこともあり、その郭開を買収(前金で一万金)して李牧を破滅させた。卑怯な政治工作と言うより、政治手腕による一騎打ちといった様相である。
    なお、郭開は「李牧を始末したら趙都・邯鄲の城門も開ける」と約束していたのだが、李牧死後も彼は開門しなかった。というのも李牧死後も成功報酬が送られなかったことで、郭開が「秦は値切るか、踏み倒す気だ」と判断。徹底抗戦に及んだのだった。
  • キングダム?
    詳細はリンク先参照。
    趙国の並み居る武将たちを総括する総司令官的な立場にあり、秦軍に対する強大な壁となる。
    なお、李牧の史実の登場は(年次不明の匈奴迎撃戦を除けば)BC.243。しかしこの頃は、外交や対燕国戦線に投入されており、秦軍に対して投入されるのはBC.233である。
    しかし本作では登場が大幅に前倒しされ、BC.244から対秦国戦線にて総指揮を執っている。
    そのせいで数々の敗戦が李牧の責任にされ、読者からは「あれは李牧じゃない別人のリーボックだ」と揶揄されることに。

【余談】

『史記』では『趙世家』と『廉頗藺相如列伝』に記述があるが、なぜか『秦始皇本紀』には一切名前の記述がない。




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*1 『史記』秦始皇本紀では燕が抜けて衛が入っている。が、一般には「燕と書くべきところを衛と書き間違えた」というのが定説となっている。いちおう、この合従当時は衛国はまだ存続していたが。
*2 韓非子の記述した最新情報はここまで。
*3 龐煖は以後、登場しない。新王から抜擢されなかったか、老衰死したかのいずれかであろう。
*4 かつてはある家に嫁いでいたが、何らかの不祥事をして一家を離散させてしまったという。
*5 ただ、いつの時期に趙国に仕えたのか、広武君の封号を受けた経緯は何かなどはよく分からない。正直、この楚漢戦争期の趙国はろくに記録も残していなかったであろう。
*6 あくまで公称であり、後述の戦闘経緯からしてもそこまでの数ではないと思われる(いくら挟撃に慌てふためいたにせよ7倍の戦力が一日で瓦解するとは思えない)が、韓信軍よりは多く、かつ趙軍にとって切り札に等しい大軍だったことは確かだろう。
*7 BC.228に趙国が滅亡し、BC.208に趙歇が陳余に擁立。二十年もたてば旧趙国の人脈はほとんどなくなっていただろう。しかも陳勝や秦や項羽の影響を常に受けて、君主もよく代わり、まともな「国」という状況ではなかった。