注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(島津家)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝の落胤と言われる惟宗忠久(他、讃岐の秦氏出身説もある)が、近衛家の領する荘園、島津荘の
地頭に任じられ、島津を称し始めたのが由来とされている。忠久は比企能員の変に連座して一時的に守護職を失うが、
北条時政の失脚に伴い再び所領を回復。忠久の子である島津忠時が承久の乱で活躍し、多くの所領を得たが最終的には
薩摩、大隅、日向の守護を兼任。忠時の孫である島津忠宗の代になって薩摩に土着し始めた。
島津忠宗の子、島津貞久は中央で政争を繰り広げる後醍醐天皇や足利尊氏をよそに、南北朝の争乱を
利用して勢力を拡大。薩摩、大隅、日向の地盤をより強固なものとする。しかし後継者の島津宗久に先立たれたため、
三男の島津師久、四男の島津氏久が総州家、奥州家として分離してしまい、南北朝の動乱が終わると、この総州家と奥州家が
相争い始め、最終的に奥州家が勝利する。奥州家当主、島津貞久の曾孫、島津忠国が当主となるも、後継者の島津立久と
争乱を起こし、また忠国の係累から数多くの分家が輩出され再び内紛を起こすことになる。
この内紛に終止符を打ったのは、島津忠国の三男、伊作久逸の係累であった。久逸の孫、伊作忠良(島津忠良)は出家して日新斎と号し、
嫡男の島津貴久を島津奥州家の養子に送って事実上権力を掌握。また「いろは歌」など教育論を創始して、自身の孫の教育に力を注いだ。
日新斎らに育てられた孫は、やがて島津貴久の4人の息子、島津義久、島津義弘、島津歳久、島津家久として世の表舞台に立ち、
諸氏豪族を討伐して九州を席巻し、その大部分を支配下に置く。しかしやがて天下人、豊臣秀吉による九州征伐軍に降伏し、豊臣政権に参画。
関ヶ原合戦には島津義弘が参戦するも義弘の蟄居という形で本領は安堵され、江戸時代には南九州の雄藩として存続。幕末まで雌伏の時を過ごした。
当主
島津貴久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 63 | 85 | 86 | 85 | 洞察 | 求心 | 英名 | 振興 | 特使 | 文事武備 | 割拠 | |||||
| 72 | 63 | 85 | 86 | 85 | 調練 | 求心 | 英名 | 振興 | 特使 | 文事武備 | 割拠 | |||||
| 72 | 63 | 80 | 81 | 85 | 調練 | 求心 | 英名 | 振興 | 特使 | 文事武備 | 割拠 | |||||
| 77 | 63 | 80 | 81 | 85 | 調練 | 求心 | 英名 | 振興 | 特使 | 斉射 | 鼓舞 | 牽制 | 鎮静 | 奮戦 | 文事武備 | 割拠 |
【シマヅタカヒサ】
島津忠良の長男。島津家第15代当主。
第14代当主である島津勝久に請われて養子となり家督を譲られるも、勝久の裏切りによってわずか1か月で当主の座を追われる。
父の支援を受けて、勝久・実久との三つ巴の家督争いに勝利をして当主に復帰するが、薩摩・大隅の一門・国衆の反乱を鎮圧するまでには20年近くかかっている。
この間に種子島時尭がポルトガル人から入手した鉄砲を献上されて生産と実戦配備を進め、フランスシスコ・ザビエルと会見している。
室町時代以来続いてきた島津一門の内紛を収めて薩摩と西大隅の再統一を回復させた。
※島津氏の内紛を統一して雄飛の土台を築いた、と言われているが、彼の存命時代は伊東、肝付相手に優位には立てていない。
島津義久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 84 | 70 | 83 | 83 | 95 | 神眼 | 地利 | 胆力 | 仁政 | 柱石 | 先従隗始 | 王道 | |||||
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 74 | 83 | 88 | 92 | 神眼 | 地利 | 胆力 | 仁政 | 柱石 | 図南之翼 | 斉射 | 鼓舞 | 混乱 | 治療 | 先従隗始 | 王道 |
【シマヅヨシヒサ】
戦国~江戸時代初期の武将。島津貴久の長男。
「三州の総大将たるの材徳自ら備わり」と祖父の忠良に評され、大いに期待されていた。
1554年に初陣を果たし、1566年父の隠居により家督を相続。1570年に薩摩統一を果たす。
前後して日向の伊東氏と対立するが、弟の義弘を派遣し伊東勢を散々に打ち破り、日向も制圧した。
のち大友氏との対立が決定的となると、自らも出陣して大軍を率い、耳川にて大友軍に大勝し南九州に覇を唱えた。
一時期織田家との外交交渉により織田信長に臣従、毛利攻めの援軍要請を受諾するが、本能寺の変で信長が倒れるとうやむやとなり、
北九州で勢力を張りつつある龍造寺氏を撃退すべく弟の家久を派遣し、龍造寺隆信を敗死させ、そのまま龍造寺氏を従属させる。
以後も大友氏との戦いを展開するが、大友氏の要請を受けた豊臣秀吉の九州征伐軍に敗北して降伏、所領を安堵された。
実子がおらず、のち家督を弟の義弘、ついで甥の忠恒に譲るが、以後も権力を持ち続けた。1611年死去。
※その他候補となった特技:仁政
島津忠恒
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 79 | 71 | 70 | 68 | 威風 | 強奪 | 文化 | 粗暴 | 酒乱 | 斉射 | 牽制 | 鼓舞 | 混乱 | 挑発 | 侵略荒廃 | 覇道 |
【シマヅタダツネ】
戦国時代から江戸時代初期の武将。島津義弘の三男。薩摩藩初代藩主。
伯父の養子となっていた兄、島津久保が早逝したため、伯父である島津義久の婿養子として
家督を継ぐ。慶長の役では武勇をふるって明・朝鮮の軍勢をたびたび撃退した。帰国後は、
伊集院忠棟を殺害してその一族を討伐するなど自身の権力確保に奔走。
関ヶ原合戦の際には徳川家康と昵懇な関係を築くも、実父の島津義弘が西軍に
加担したため家康に赦免し許された。のちに家康の差配で琉球王国を征伐し、占領して従属国とした。
晩年には伯父、島津義久や実父、島津義弘と対立しながらも、薩摩藩の祖として地盤を築いた。
補足:1638年に死去。晩年は島津家久と名乗るが、同名の叔父と区別するため初名の忠恒で呼ばれることが多い。
補足:伯父、島津義久との対立は、近年島津家の後継者問題に由来するという。島津家の内部では島津義久の外孫にあたる島津久信(垂水家、島津以久の孫)を後継者にしようとする話があがっていた。
補足:伊集院忠棟の殺害や島津義久家老の平田増宗の粛清もこの後継者問題に由来すると言われている。
嫌悪武将 伊集院忠棟 伊集院忠真
一門・分家
伊作忠良(島津忠良)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 59 | 88 | 89 | 88 | 神将 | 督将 | 泰然 | 教化 | 王佐 | 先従隗始 | 王道 | |||||
| 73 | 59 | 88 | 89 | 88 | 眼力 | 督将 | 泰然 | 教化 | 王佐 | 先従隗始 | 王道 | |||||
【イサクタダヨシ/シマヅタダヨシ】
島津家庶流伊作家当主。号は日新斎。
島津氏一門の内紛が激化すると、敵対する島津実久を恐れた宗家当主・島津勝久が忠良の嫡男・貴久の養子縁組を条件に支援を求める。
ところが、貴久に家督を譲った勝久は後悔して実久の支援を得て貴久を追放する。
これに憤慨した忠良は勝久・実久との戦いを決意、薩摩半島を根拠に反撃して薩摩を制圧して貴久を家督に戻した。
隠居後も日明貿易や産業振興、家臣教育などの面で貴久を支え、「島津氏中興の祖」「薩摩藩島津氏の祖」とされている。
親愛武将 伊集院忠朗
島津忠将
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 75 | 77 | 69 | 54 | 75 | 疾走 | 一心 | 血路 | 調練 | 軽率 | 三令五申 | 覇道 | |||||
| 65 | 77 | 69 | 54 | 75 | 疾走 | 一心 | 血路 | 調練 | 軽率 | 三令五申 | 覇道 | |||||
【シマヅタダマサ】
島津忠良の次男。
忠良が一時当主を務めた相州家を相続する。
兄を助けて各地を転戦し、薩摩統一後は大隅に派遣される。
縁戚関係にあった大隅の肝付氏と開戦すると、最前線で戦うが、孤立しかけた味方の兵を助けに駆けつけた際に肝付軍の攻撃を受けて戦死する。
子孫は日向国佐土原藩主となっている。
島津尚久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 59 | 68 | 52 | 39 | 62 | 遠矢 | 威風 | 果敢 | 強奪 | 動転 | 雁行強化 | 我道 | |||||
【シマヅナオヒサ】
島津忠良の三男。
兄を助けて各地を転戦し、五尺の大太刀を振るい、弓の達人であったと伝わる。
次兄である忠将が戦死した直後に病死、一説には一緒に戦っていた兄を助けられなかったことを悔やんでいたという。
日明貿易に関わっていた他、倭寇との密接なつながりも指摘されている。
島津義弘
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 97 | 94 | 85 | 76 | 94 | 飛将 | 地利 | 胆力 | 泰然 | 医術 | 三軍強化 | 覇道 | |||||
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 92 | 94 | 85 | 75 | 94 | 飛将 | 地利 | 胆力 | 泰然 | 医術 | 三軍強化 | 覇道 | |||||
大志では統率(士気)・武勇(部隊攻撃)・智謀(部隊防御)に分割されているため、各能力値を平均した数値を統率とした。
また政治も内政と外政で分割されているため、双方を平均した数値を政治としている。
※バランス調整用
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 92 | 89 | 81 | 72 | 89 | 飛将 | 地利 | 胆力 | 泰然 | 医術 | 三軍強化 | 覇道 | |||||
能力値は最新作である信長の野望・大志の-5%。本家三國志14の能力値と適合調整されたもの。他の武将を無調整で使う場合はこちらを。
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 93 | 94 | 81 | 72 | 83 | 飛将 | 地利 | 胆力 | 泰然 | 医術 | 三軍強化 | 覇道 | |||||
| 93 | 94 | 81 | 72 | 83 | 飛将 | 掃討 | 胆力 | 泰然 | 医術 | 三軍強化 | 覇道 | |||||
合計ステータスは上と同じ。義弘の持つ武勇に優れたイメージを前面に出したもの。下は関ヶ原の敵中突破のイメージだが、この話が史実かどうかは諸説ある
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 94 | 97 | 85 | 76 | 94 | 飛将 | 堅守 | 威風 | 求心 | 泰然 | 三軍強化 | 覇道 | |||||
| 94 | 97 | 85 | 76 | 94 | 矍鑠 | 堅守 | 威風 | 求心 | 泰然 | 三軍強化 | 覇道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 92 | 90 | 72 | 73 | 90 | 矍鑠 | 堅守 | 威風 | 求心 | 泰然 | 長駆直入 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 斉射 | 三軍強化 | 覇道 |
【シマヅヨシヒロ】
戦国~江戸時代初期の武将。島津貴久の次男。
当主である父の貴久、兄の義久を補佐し、その剛勇でしばしば敵を圧倒した。伊東、大友との戦いでは
少数ながらも果敢に敵に挑んで破り、島津氏を九州最大勢力へと押し上げた。豊臣秀吉の九州征伐でも果敢に抵抗するが、
数の差は如何ともしがたく降伏。実子のなかった兄の義久の跡を継ぎ、島津家当主になったとも言われる。朝鮮出兵でも
その力を発揮し、敵将を数多討ち取った。関ヶ原の戦いでは西軍に属し敵陣目掛けて撤退する前代未聞の退却戦を敢行、寡兵で東軍に損害を与えた。
戦後は実子の忠恒に家督を譲り隠居。1619年に病没。
※その他候補となった特技:勇将・威風
島津歳久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 70 | 91 | 77 | 74 | 虚実 | 地利 | 胆力 | 策士 | 酒乱 | 上兵伐謀 | 名利 | |||||
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 73 | 88 | 87 | 79 | 虚実 | 地利 | 胆力 | 策士 | 直情 | 奇計九条 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 斉射 | 上兵伐謀 | 名利 |
近年の野望では軍事能力が高めだが、どちらかと言えば内政や外交での活動が主である。
【シマヅトシヒサ】
戦国時代の武将。島津貴久の三男。「知謀の歳久」と言われる。
「始終の利害を察するの智計並びなく」と祖父忠良に評され、兄義久に近侍して支えた。
兄とともに初陣を果たし、兄の薩摩統一に貢献。その後も対立する伊東氏や大友氏との
戦いに参加したが、以後は内治を主とし、外征に出る兄義弘や弟家久と異なり、薩摩大隅での
活動が中心であった。一方で娘婿の島津忠隣を婿養子として迎え、兄義弘の外征の補佐をさせている。
その後秀吉の九州征伐軍が押し寄せると、家久、義久の降伏後も徹底抗戦を行い、秀吉の駕籠に矢を射掛けた。
秀吉の唐入り計画前哨となった朝鮮出兵にも参陣しなかったため、秀吉の不興を買い、家臣が多く関わった梅北一揆の
責任を取らされて、兄義久の追手を受け自害した。この時既に病にかかっていたと言われている。家督は娘の子、常久が継いだ。
※その他候補となった特技:明鏡・能吏
島津家久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 91 | 96 | 85 | 54 | 79 | 洞察 | 神機 | 地利 | 胆力 | 猛者 | 文事武備 | 我道 | |||||
| 96 | 91 | 85 | 54 | 79 | 洞察 | 神機 | 掃討 | 胆力 | 機略 | 文事武備 | 我道 | |||||
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 95 | 93 | 88 | 73 | 65 | 洞察 | 神機 | 掃討 | 胆力 | 機略 | 瞞天過海 | 兵貴神速 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 文事武備 | 我道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 96 | 88 | 79 | 71 | 66 | 神機 | 掃討 | 沈着 | 胆力 | 規律 | 瞞天過海 | 斉射 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 文事武備 | 我道 |
| 96 | 88 | 82 | 70 | 64 | 神機 | 掃討 | 沈着 | 胆力 | 規律 | 瞞天過海 | 斉射 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 文事武備 | 我道 |
| 97 | 88 | 81 | 70 | 64 | 神機 | 掃討 | 沈着 | 胆力 | 規律 | 瞞天過海 | 斉射 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 文事武備 | 我道 |
【シマヅイエヒサ】
戦国時代の武将。島津貴久の四男。四兄弟の中で家久だけ母が異なる。子に島津豊久。
当主であった兄を助け、肝付氏との戦いで初陣を飾る。その後、畿内の織田信長と昵懇にすべく
上洛し、織田信長・明智光秀と交渉している。1584年の龍造寺家との戦いでは有馬氏を救援し
龍造寺隆信を討ち取るという大戦果をあげ、島津氏の九州最大勢力への躍進を決定的なものとした
大友家と戦いさらに領土を広げ、戸次川の戦いで援軍として参上した四国連合軍を破っている。
だが豊臣秀吉による九州征伐に伴い軍を撤退。島津の命運をかけた根白坂の戦いでは、
慎重論を唱えるも豊臣秀長軍と激突。だが宮部継潤に阻まれ、小早川隆景、黒田孝高、藤堂高虎の救援軍に敗退した。
のち豊臣秀長と単独講和して島津の和平を促したが、島津家の降伏直後に病死。毒殺説もある。
※その将器を立花道雪、高橋紹運から名指しで警戒されるなど、尋常ならざる才の持ち主。一方で、割と独断専行の気があり、阿蘇氏との和睦や島原への出兵も家久の独断である。
島津豊久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 75 | 93 | 52 | 44 | 85 | 殿軍 | 頑健 | 果敢 | 胆力 | 猛者 | 魚鱗強化 | 王道 | |||||
| 75 | 93 | 52 | 44 | 68 | 殿軍 | 血路 | 果敢 | 胆力 | 猛者 | 忠勇義烈 | 激励 | 奮戦 | 牽制 | 斉射 | 魚鱗強化 | 王道 |
【シマヅトヨヒサ】
戦国時代の武将。島津家久(貴久四男)の嫡男。初名は「忠豊」
沖田畷の戦いで未元服ながら初陣を遂げ、その後も父の家久に従い軍功を立てた。
家久が九州征伐直後に急死すると、秀吉から直々に遺領である佐土原を与えられる。
豊臣政権樹立後は叔父である島津義弘に従い、朝鮮では敵首を数多取る豪勇を見せつけた。
島津家内紛の庄内の乱でも活躍したが、同年の関ヶ原の戦いで叔父義弘を逃すべく奮闘し、戦死したという。
※ 関ヶ原の顛末には諸説あるが、とりあえず一番メジャーなのを簡潔に。
重臣・家臣
新納忠元
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 82 | 84 | 71 | 73 | 80 | 威風 | 柱石 | 胆力 | 規律 | 教化 | 豪気衝天 | 投石 | 大喝 | 鯨波 | 激励 | 奮戦 | 軍制改革 | 割拠 |
【ニイロタダモト】
戦国時代の武将。島津家臣。
武勇に秀でて島津家の勢力拡大に貢献し、島津家臣の中で剛勇として名の挙がる武将を指で数えた際に最初に名が挙がる事から「大指武蔵」と称された。
武勇のみならず文芸にも秀で、また後の薩摩藩における郷中教育の基礎を築いた。
上井覚兼
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 51 | 38 | 74 | 81 | 75 | 文化 | 医術 | 史官 | 能吏 | 治療 | 鎮静 | 太学 | 王道 | |||||
【ウワイカクケン】
戦国時代の武将。島津家臣。
貴久・義久の二代に仕えて主に行政面にて活躍し日向国制圧後は日向地頭を務めた。
文化人としても高い教養を持ち、「上井覚兼日記」等の記録も残している。
伊集院忠朗(島津忠朗)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 77 | 66 | 83 | 67 | 63 | 調練 | 策士 | 智嚢 | 撹乱 | 連弩 | 鎮静 | 混乱 | 挑発 | 雁行強化 | 割拠 | |||
【イジュウインタダアキ】
戦国時代の武将。島津家臣。本姓は「島津」。
島津忠良に仕えて家老として重んじられて数々の戦において活躍した。
忠良と共に「釣り野伏」の戦法を考案し鉄砲の実戦使用を進言したと云われる。
伊集院忠倉(島津忠倉)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 67 | 64 | 71 | 72 | 59 | 法律 | 地利 | 急襲 | 撹乱 | 地域巡回 | 割拠 | |||||||
【イジュウインタダアオ】
戦国時代の武将。島津家臣。伊集院忠朗の子。本姓は「島津」。
父と共に肝付氏の軍勢を暴風を利用した奇策で破る等島津家の勢力拡大に貢献し、筆頭家老として国人の統制に務めている。
伊集院忠棟(島津忠棟)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 58 | 73 | 74 | 42 | 詩想 | 論客 | 癇癪 | 悪名 | 強欲 | 縦横術 | 名利 | |||||
【イジュウインタダムネ】
戦国後期の武将。島津家臣。忠倉の子。本姓は「島津」。
伊集院家は島津家重臣筆頭を受け継ぐ名門で、秀吉が九州遠征に乗り出すと降伏を進言。
これは却下されたが秀吉との交渉で御家安堵を勝ち取ったばかりか、
論客ぶりを気に入られ、太閤検地時には秀吉から直々に所領を与えられた。
しかしこの破格の待遇は本家に危険視され、秀吉死後の1599年に島津忠恒(義弘の子)に暗殺されている。
佞臣呼ばわりされることが多い忠棟だが、擁護論もある。
親愛武将 豊臣秀吉
嫌悪武将 畠山盛淳
伊集院忠真(島津忠真)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 75 | 76 | 46 | 53 | 55 | 掃討 | 怒髪 | 直情 | 突撃 | 挑発 | 撹乱 | 地勢研究 | 我道 | |||||
【イジュウインタダザネ】
戦国時代の武将。島津家臣。伊集院忠棟の子。本姓は「島津」。
慶長の役に参加し活躍したが、慶長四年に島津忠恒により父が誅殺された事により庄内の乱と呼ばれる反乱を起こした。
家康の仲介もあり和睦したが主君との不穏な関係は続き、慶長七年に一族と共に粛清された。
嫌悪武将 島津忠恒
種子島時尭(肥後時尭)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 1528 | 1579 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 54 | 56 | 68 | 74 | 67 | 発明 | 改修 | 察知 | 特使 | 調達 | 連弩 | 投石 | 兵器強化 | 割拠 | |||
【タネガシマトキタカ】
種子島領主14代。本姓は「肥後」。
自領にポルトガル商人の乗る船が漂着すると、商人の所持していた鉄砲二丁を購入。
うち一丁を分解して調べさせ、日本国内での鉄砲生産技術を確立させる。
また島津忠良の娘を娶り、貴久の大隅攻めに協力。さらに娘を義久の後妻として嫁がせるなど島津との関係も強化している。
種子島久時(肥後久時)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 79 | 83 | 56 | 61 | 67 | 封殺 | 遠矢 | 連弩 | 斉射 | 足止 | 牽制 | 雁行強化 | 王道 | |||||
【タネガシマヒサトキ】
戦国時代の武将。島津家臣。本姓は「肥後」。種子島時尭の子。
兄の時次の早世により父から種子島島主の地位を継承した。
鉄砲の運用に秀でており、九州各地や文禄・慶長の役において活躍し島津家の家老となる。
畠山盛淳
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 50 | 31 | 72 | 74 | 58 | 論客 | 能吏 | 血路 | 嚮導 | 鎮静 | 鉄壁 | 縦横術 | 礼教 | |||||
【ハタケヤマモリアツ】
戦国時代の武将。島津家臣。
長寿院盛淳の名で知られる。
薩摩畠山氏の出自で若い時に僧籍に入り高野山で修行したが、後に還俗して島津氏に仕えて九州征伐後の中央との外交や太閤検地での知行配分に携わる。
関ヶ原の戦いでは撤退の際に義弘の影武者を務めて戦死した。
親愛武将 島津義弘
嫌悪武将 伊集院忠棟
羽生時房
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 52 | 64 | 58 | 66 | 58 | ||||||||||||
【ハブトキフサ】
種子島家臣。右京。娘に安姫。
屋久島に生まれ、1493年、種子島忠時の命令で種子島・安城の地頭となった。
安城の開拓に努め、善政を敷いた。また、武者修行を行い武術にも優れていたと伝わる。
一方、種子島・納曽の士族に河野又四郎という者がおり、相撲が強く島の大関となっていた。
安姫は又四郎に恋をしたが、時房は身分違いの恋に反対し、ついには家臣に命じて安姫を殺してしまった。
又四郎もまた、それを聞き自害したという。
※種子島羽生氏は種子島氏の家老を輩出し、薩摩藩士として幕末を迎えた。将棋棋士の羽生善治(立項不可)は種子島羽生氏の出身。
江夏友賢
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 1538 | 1560 | 1610 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 7 | 12 | 74 | 50 | 64 | 占術 | 智嚢 | 地勢研究1 | 王道 | |||||||||
【コウカユウケン】
島津家臣、易者。明国福建省江夏郡の人。元の姓は黄で、日本で江夏姓を称した。号は環渓先生。
乱を避けて来日したとも、川内(せんだい)あたりの倭寇に拉致されたともいう。
易学の技術を買われ、島津家に仕えた。肥前有馬氏から事実上人質としていた安冨左兵衛尉(純清?)の帰国の可否を問われ、
認めるべきと占った。また、人事や城(加治木屋形・鶴丸城)の縄張りも占っている。
文禄の役の講和交渉に来日した沈惟敬と面識があり、これを聞きつけた豊臣秀吉に仕官を誘われたが、
「明国では賢臣は二君に仕えずと承っております」と断った。
親愛武将:沈惟敬
※江夏を姓としたのは、江夏黄氏の出身を意味するものか。『上井覚兼日記』では姓を「大明」とする。
東郷重位
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 1561 | 1577 | 1643 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 63 | 95 | 60 | 32 | 55 | 豪傑 | 猛者 | 一心 | 調練 | 鋒矢強化 | 王道 | |||||||
| 63 | 95 | 60 | 62 | 55 | 豪傑 | 猛者 | 一心 | 調練 | 輿望 | 鋒矢強化 | 王道 | ||||||
【トウゴウシゲカタ】
島津家臣。瀬戸口重為の三男で、東郷氏の庶流。示現流の開祖。
若き日はタイ捨流を極め、島津義久の上洛に付き従うと天寧寺の住職・善吉に師事し天真正自顕流を習得。
また、当初は瀬戸口姓を名乗っていたが、東郷氏本家を継いだ東郷重虎(島津忠仍)の許可を得て、先祖の東郷姓に復した。
関ケ原の後に藩主・忠恒の御前試合で実力を認められた後、大竜寺の僧・南浦文之より「示現流」の流派名を授かっている。
樺山久高
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 81 | 86 | 76 | 67 | 71 | 掃討 | 長躯 | 水戦 | 文化 | 功名 | 奮戦 | 強襲 | 矢嵐 | 激励 | 斉射 | 先従隗始 | 覇道 | |
【カバヤマヒサタカ】
戦国時代の武将。島津家臣。
島津家臣樺山忠助の子で最初は大野氏の婿養子として大野姓を称した。
島津家の勢力拡大に伴う数多くの戦いに参加して複数の首級を挙げる等の功績を上げており、養父の誅殺後は樺山姓に復して義弘の子・久保の補佐を務め朝鮮に渡海する。
久保の夭折後も朝鮮に在軍して活躍し、琉球侵攻では総大将として琉球の制圧に成功した。
教養にも秀でた文武の名臣であったが晩年は不遇であった。
平田増宗
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 58 | 53 | 78 | 68 | 65 | 諫止 | 補佐 | 鎮静 | 駆逐 | 撹乱 | 牽制 | 兵站改革 | 王道 | |||||
【ヒラタマスムネ】
戦国時代の武将。島津家臣。
島津義久の家老を務め関ヶ原の戦いでは実窓院(島津義弘室)と亀寿(義久の娘、忠恒室)を大坂から逃すのに尽力し、琉球遠征においては副将を務めた。
しかし島津内部の継承争いにより義久の外孫である忠仍を支持し、家久(忠恒)の継承に反対した事で家久に憎まれた事により討たれた。
親愛武将 島津義久