みんなの新武将/明

Last-modified: 2023-08-09 (水) 02:44:56

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

明(1368~1644)

貧農出身の朱元璋が、紅巾軍の組織と江南の経済力を背景に集慶(南京?)に樹立した王朝。
開祖の洪武帝は元朝を大都(北京?)から逐い、1382年には雲南?の梁王を平定して全国を統一し、
深刻な疑獄によって中央集権と君主専制の強化を行なう一方で、法制の再編・農村復興などに
尽力して王朝の基盤を固めたが、経済と政治の中心の合致という構造は、
靖難の変で奪権した永楽帝が自身の勢力基盤の北平(北京)に遷都したことで永続しなかった。
永楽帝の大規模な外征によって、明朝は漢人王朝としては空前の直轄版図を示し、殊に南海経略は世界史上でも稀有の壮挙として特筆される。
君主権強化の一環として洪武帝は特務機関を設け、宦官に対しては諸種の制限を設けて
識字すら禁じたが、永楽帝は宦官を重用して大権を与え、以後の宦官跳梁の悪弊を開いた。
又た洪武帝の重農抑商主義は紙幣や高額貨幣を禁じて流通形態を交換経済に逆行させ、且つ対外私貿易をも禁じ、
永楽年間を除いては概ね内向の伝統的中華王朝に終始し、結果的に文明の東西逆転を甘受することとなった。
永楽帝を襲ぎ、明君と称された洪煕帝・宣徳帝の治世にも宦官の権威・権力は増大し、英宗の正統年間には国政を壟断して
党争を激化させたばかりかモンゴルへの対応を誤り、1449年にはオイラート族の入寇による土木の変で英宗が捕虜となるに至った。
以後、明朝はモンゴル族に対して長城沿いでの専守防衛を余儀なくされ、16世紀になると後期倭寇が活発化して軍費が増大し、深刻な財政難を招いた。
万暦年間に内閣首輔の張居正によって行なわれた官界粛正と一条鞭法で財政は一時的に好転したが、
万暦帝の未曾有の奢侈は財政を再び悪化させただけでなく、東林党と非東林党の無責任な党争に
宦官勢力が加わって政局も低迷沈滞し、天啓年間には未曾有の宦官禍とされる魏忠賢の専権を招来した。
また明朝の深刻な外患となった建州女真が抬頭したのも万暦年間で、崇禎年間には北防費の増大と
濫発される雑税で民生が崩壊し、農民の大叛乱を指揮した李自成によって1644年に北京が陥落し、崇禎帝は自殺した。
李自成はまもなく山海関守備の呉三桂が手引きした満州族に逐われ、
華南には満州族に抵抗する明朝遺臣の諸勢力がそれぞれに宗族を擁立して抵抗したが、
正統論に固執した対立と前朝から続く党争によって統合される事はなく、各個撃破されて1661年までに鎮圧された。



朱元璋の挙兵~靖難の変(1356年~1402年まで)

朱元璋(国瑞)

生年没年死因
13281398自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9884909395任才機略求心怒髪水戦不撓不屈経世済民王道
9384999395任才機略求心怒髪水戦不撓不屈経世済民王道

※中華統一後(40歳以降)Ver.

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8874959875虚実節約規律農政小心酖毒政令徹底覇道
867495982虚実節約規律農政小心酖毒政令徹底覇道

【シュゲンショウ(コクズイ)】
明の洪武帝。本名朱重八。紅巾の乱に加わった際に朱元璋と改名。
貧農出身で、紅巾の乱で挙兵した郭子興の軍に身を投じ、その養女を娶る。
郭子興の死後、その軍を継承して応天府(南京?)を拠点とした。
陳友諒、張士誠を討って江南を統一し明を建国する。
徐達に北伐軍を率いさせ元を華北から駆逐、四川・雲南?も平定し天下統一を成し遂げた。
統一後は重農政策を採り農民を慈しむ一方、知識階級へ「文字の獄」の弾圧を行った。
更に「胡惟庸の獄」「藍玉の獄」など五万人規模の大粛清を行い、没する直前まで元勲・功臣の粛清を続けた。

馬氏

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2018848097節約応援寡欲補佐慈悲
3018848098節約応援寡欲補佐慈悲

【バシ】
洪武帝の皇后。
紅巾の乱で頭角を現した郭子興の養女である。
朱元璋が郭子興のもとに身を投じたとき、
郭子興が朱元璋の人物を見出して気に入り、養女である馬氏を与えて結婚させたという。
1368年に明が建てられた後、馬氏は皇后に冊立された。
慎み深く質素だった彼女は、皇后となっても驕ることがなく、贅沢もほとんどしなかったといわれている。
このため、周囲から人望があり、皇帝になって逆に猜疑心を増大させ粛清に走り出した朱元璋を時には支え、
時には諫言したと伝えられている。
1382年、夫の朱元璋に先立って病死した。

常遇春(伯仁)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9497725670掃討遠矢威風操舵規律虎弓大喝急襲強襲矢嵐鋒矢強化覇道
9097725670掃討遠矢威風操舵規律虎弓大喝急襲強襲矢嵐鋒矢強化覇道

【ジョウグウシュン(ハクジン)】
明初の将。懷遠の人。容貌魁偉で武勇に冠絶していた。
劉聚傘下の盗賊だったが、朱元璋が和陽に到ると麾下に入った。
渚磯の戦いでモンゴル軍を破ってからは、采石を巡る攻防で活躍。
徐達元帥に従い各地を転戦し、陳友諒の追撃の際には留守居を担当。
法を厳格に執行し軍民ともに粛然としていたという。
邵榮の造反時は、処断すべきであると主張し、羅友賢・張士誠の打倒に功を挙げる。
太祖が呉王に即位すると鄂国公・副将軍を拝命し、さらに重用された。
徐達と共に北伐を成功させたが、帰還の途上、柳河川で病没した。

李善長(百室)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5238909862王佐眼力詐謀運搬法律

【リゼンチョウ(ヒャクシツ)】
明初期の政治家。
紅巾の乱の最中で朱元璋と出会い、漢の高祖劉邦?に倣って統一を成し遂げるよう促す。
その後、朱元璋の謀臣として活躍し、明建国の元勲として覇業を支えた。
明建国後は明の制度・行政の整備に尽力し、筆頭功臣として左丞相となり韓公に封ぜられる。
胡惟庸らと派閥を形成し劉基を讒言で追い落とすが、劉基の死を発端とする「胡惟庸の獄」に連座して失脚。
その後の洪武帝による功臣大粛清の波を受け、十年後に連座の罪を再び問われ自害させられた。
親愛武将:胡惟庸
嫌悪武将:劉基

劉基(伯温)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
64441009092火神神機詩想策士文化神火計火計研究王道

【リュウキ(ハクオン)】
明初の軍師。天文・兵法・数理などに精通し、詩文に優れた才能を持ち、明の建国に大きな功績をあげた。
朱元璋は劉基を礼節を持って招き、以後、劉基は朱元璋の下で常に適切な助言をした。
朱元璋が急難に直面すればすかさず打開策を講じ、平常時には王道を説いて聞かせたという。
明王朝成立後も重用されたが、政敵の讒言よって中央から遠ざけられ失意の晩年を送った。
中国では魔術師的な力を持っていたと信じられており、彼の著書『焼餅歌』は、遥か未来を占った予言書であると言われている。

※三国志演義における諸葛亮?のモデルにされたといわれる。

李文忠(思本)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9092857087勇将妙計諌止教唆築城掎角の計突撃文事武備覇道
9392857087勇将妙計諌止教唆築城掎角の計突撃文事武備覇道

【リブンチュウ(シホン)】
明の武将。朱元璋の甥。
十九歳で親軍を率い、軍功を重ねていく。
張士誠が諸全に侵攻すると、徐達らが援軍として来ると偽報を流して張士誠を撤退させた。
また、新城の防衛戦では援軍として駆けつけ、寡兵ながら奮戦して大勝した。
元への北伐では常遇春の指揮下で上都を攻略、常遇春の陣没後は軍の指揮をとる。
さらに応昌を攻略して北元の皇族を捕えて玉璽を奪う功績をあげた。
その後も四川の慰撫、第二次北伐、反乱平定などで活躍した。
洪武帝に対しては功臣粛清、日本侵攻、宦官重用などを諌めるなど直言を憚らなかった為に最期は洪武帝に毒殺されたともいわれる。

鄧愈(伯顏)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8883645078堅守改修屯田慎重規律

【トウユ(ハクガン)】
明の武将。初名は鄧友徳。
朱元璋の旗揚げ時から従い、この参軍時に鄧愈を名乗る。
太平、集慶?、鎮江の攻略に従い、広徳を攻め落とすと広徳を拠点に元軍を防ぐ。
鄱陽湖の戦いでは、緒戦となる陳友諒の洪都府(南昌)包囲を三ヶ月守り抜き、朱元璋の援軍まで持ちこたえた。
その後、常遇春に従い江西の諸都市を落とし、襄陽?の守将となる。
北伐では南陽?に侵攻し河南を征服、その後は徐達に従って征西にも参加、吐蕃ら諸族を服属させる。
その後も南方や西方の諸族の叛乱鎮圧に活躍するが、吐蕃からの凱旋途中に病に倒れ、寿春?で没した。

兪通海(碧泉)

生年登場没年
1330年1367年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9088825377水戦操舵果敢沈着規律苦肉の計駆逐強襲矢嵐火矢水軍育成覇道

【ユツウカイ(ヘキセン)】
明の武将。濠州の人。
廖永安らと共に巣湖の水賊であったが渡河の為に水軍を欲していた朱元璋に降り水軍を率いて勢力拡大に貢献した。
1363年の鄱陽湖の戦いにおいては火砲を搭載した船団を率いて風の向きを利用し陳友諒の水軍を焼き払い
さらに敵船団に斬り込んで奮戦、敵水軍の退路を封鎖する事を進言して実行したことにより陳友諒を敗死に追いやる功績を挙げた。
以後も活躍したが流れ矢による傷が元で死亡し朱元璋はその最期に涙したという。

王銘(子敬)

生年登場没年
1393年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7995466468豪傑掃討改修築城猪突単騎駆大喝突撃城壁拡張覇道

【オウメイ(シケイ)】
明の武将。
当初は兪通海の配下で1356年には元の蛮子海牙を撃破した。
勇猛で決死隊を率いてしばしば戦功を挙げ、一人敵陣に突入して三度にわたる突撃で
多数の敵を討った事もあった。
特に槍術に秀でており南京に槍を得意とする者が集められた際は王銘にかなう者は居なかった。
温州を守った際には城壁を補修を行って以前よりも堅固な城塞となり温州を去る際には
多くの者が見送ったという。最後は右軍都督僉事となる藍玉の獄に連座して処刑された。

廖永忠

生年登場没年
1323年1375年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8885716368水戦操舵火攻地利慰撫錦帆強襲矢嵐火矢業火水軍育成覇道

【リョウエイチュウ】
明の武将。
元々は兄の廖永安や兪通海・兪通源の兄弟らと共に巣湖に割拠していた水賊で、1355年に長江を渡ろうとした朱元璋に降った。
以降は兪通海らと共に水軍を率いて張士誠や陳友諒らとの戦いで活躍し、鄱陽湖の戦いにおいても多大な功績を挙げており
1368年には広州方面に遠征して各地を平定し民衆をよく慰撫した為、祠が建てられた程であった。
しかし1375年に無断で竜鳳の紋様を用いる等の不法行為を咎められて死を賜った。

胡大海(通甫)

生年登場没年
1362年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9077816582人脈仁政慈悲慰撫直情三令五申王道

【コタイカイ(ツウホ)】
朱元璋配下の武将。
挙兵して間もない朱元璋と出会い滁陽にて配下となり元軍や張士誠、陳友諒らとの戦いにおいて活躍した。
長身で学問は知らないが知力に秀でて用兵は巧みで、また率いる軍が略奪暴行を行う事を嫌い禁じていた。
常に剛勇・知力あふれる人材を求め劉基や宋濂らの招聘にも功績を挙げたが、かつて撃破した苗族の楊完者
の配下であった蔣英らを配下にした後、弓矢の競技会にかこつけて蔣英の襲撃を受けて殺害された。
胡大海の死により多くの者が涙を流したという。

馮勝

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9087677261掃討調練築城強欲粗忽魚鱗強化覇道

【フウショウ】
明の武将、政治家。初名は馮国勝。
兄の馮国用と共に朱元璋に仕える。
石灰山の戦いで活躍、鄱陽湖の戦いにも参加し軍功を重ねる。
高郵攻略戦では敵の偽投降を見抜けず杖罰が与えられるも、これに奮起して諸城を落とした。
北伐に参加し、ココ・テムルを二度破る活躍をする。
金山の納哈出討伐では総大将としてこれを討伐。
しかし戦功報告の場で娘婿の常茂と対立して讒訴し合い、朱元璋の怒りを買って将軍位から解任される。
徐達・常遇春に次ぐ功臣第三位とされたが、その功績の大きさから朱元璋に猜疑され、藍玉の獄の最中に賜死した。

馮国用

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7984875872護衛察知方円強化王道

【フウコクヨウ】
元末の混乱期に弟の馮国勝とともに決起し、その後朱元璋の軍に投じた。
その際、天下の大計を朱元璋に問われ、金陵?(集慶、後の応天府、南京のこと)の攻略を進言する。
元軍との戦いでは朱元璋の近衛を務め従軍し功績を上げる。
元の降将・陳野先の反乱を見抜き、陳一党を打ち破りその軍勢を捕虜とする。
この際、五百人の捕虜を親軍に加え、馮国用一人の護衛で朱元璋が兵と寝をともにしたため捕虜は心服した。
進言通り集慶を手中にした朱元璋によって、親軍都指揮使に任じられる。
しかし、紹興の戦いの最中で突然の病に倒れ没した。

傅友徳

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8688522865調練一心怒髪操舵屯田長蛇強化覇道

【フユウトク】
明の武将。
元末の乱の中で、李福通、陳友諒らの群雄を渡り歩き、朱元璋に仕える。
鄱陽湖の戦いでは軽船に座乗して先鋒を務め、負傷しながらも力戦した。
武昌攻略では要害の高冠山を攻め取り、以後も江淮の諸城攻略に従事した。
徐達の北伐に従軍し、軽騎を率いて埋伏への誘導や敵陣への夜襲を行う。
陝西に到達すると漢中?を抑え、蜀に侵攻して湯和とともに明夏を滅ぼした。
征南将軍となって雲南?を平定し、東川の反乱鎮圧や燕王朱棣の征北で活躍した。
晩年は馮勝とともに山西で屯田と練兵を行うが、洪武帝に召還され死を賜った。

康茂才(寿卿)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8478838170水戦農政振興運搬文事武備覇道

【コウモサイ(ジュキョウ)】
明の武将。
もとは元の水軍の武将だったが、徐達や常遇春に敗れ朱元璋に降伏する。
水軍元帥として張士誠の軍を破り、都水営田使に任じられ応天府(後の南京?)の農業復興を委ねられる。
陳友諒が朱元璋を攻めると、偽の投降によって陳友諒を伏兵のもとへ誘き出し大勝する。
水軍を率いて陳友諒を追撃して滅ぼし、さらに長江を遡上して江陵?・湖南を攻略するのに功績があった。
徐達の指揮下で北伐に参加、洛陽?を落とし、陝州(弘農)の守備に就いて兵站を整える。
さらに西方へ遠征して定西を落とすが、その中で陣没した。

沐英(文英)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8583748280長駆屯田農政慰撫親蛮地域振興王道

【モクエイ(ブンエイ)】
明の武将。孤児で朱元璋の養子となり朱姓となる。
十八歳で帳前都尉に任じられ鎮江を守り、軍功によりもとの沐姓に戻る。
吐蕃の叛乱では鄧愈の副将として遠征し、これを鎮める。
雲南?の梁王国(元の分封国)征討では征南副将軍として別動隊の騎兵を率い、
梁王国軍を打ち破って梁王を自殺に追い込む。
その後は小規模な叛乱平定に従事し、雲南一帯を平定した。
雲南で民を慰撫し、屯田や養蚕を奨励して土地を開墾した。
皇太子朱標の急死を憂いて病に罹り、後を追うように亡くなった。

宋濂(景濂)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1134847876学者史官太学礼教

【ソウレン(ケイレン)】
元、明の政治家、学者、史家。号は潜渓、玄真子など。
貧家の出身だったが、幼い時から聡敏で呉莱らに師事した。
元の至正年間に翰林院編修となるが間もなく辞職し、龍門山に隠棲して著書に打ち込む。
洪武帝が即位すると招聘され、太子の朱標に「春秋」や「尚書」を講授する。
元史編纂の主幹を務め、礼楽制度の制定に精勤し、開国文臣の首席とされた。
胡惟庸の獄に巻き込まれ誅殺されそうになるが、
朱標らの執り成しで助命され、流刑の途上で没した。
明初の詩文三大家として高名で「太史公」と称され、北伐の際には檄文を著している。

朱標

生年登場没年
1355年1392年(自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6452767583仁政諌止先従隗始王道

【シュヒョウ】
明の皇族。朱元璋の長男。
明の成立により皇太子となり温厚な性格により父の行う粛清を諌めたりもした。
しかし父に先立ち急死し、子の朱允炆が皇太孫となる。

胡惟庸

生年登場没年
1380年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1915838430能吏人脈高慢強欲政令徹底我道

【コイヨウ】
明の政治家。
定遠の出身で知人である李善長の推挙により朱元璋に仕えた。
明王朝の成立後は中央統治機関である中書省の官僚から左丞相にまでなるが次第に驕慢な振る舞いが
目立ち劉基ら朝廷内で敵対する派閥の人間を排除する専横振りにより朱元璋に警戒され、謀反の疑いをかけられ処刑された。
この時胡惟庸に関わる人間が多数処刑され、「胡惟庸の獄」と言われた。

親愛武将:李善長 汪広洋
嫌悪武将:劉基

汪広洋(朝宗)

生年登場没年
1379年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2823757746能吏詩想高慢小心酒乱政令徹底礼教

【オウコウヨウ(チョウソウ)】
明の政治家。高郵府の人。
元末の動乱で朱元璋に仕えて元帥府令史となり、中書省の官僚や常遇春の軍務に参与した。
明の成立後は李善長の病気により左丞相となり一時は右丞相の楊憲との対立で讒言を受け
流罪となるが楊憲の失脚で復帰、李善長の引退により右丞相となる。
性格は柔和で慎み深く煩雑な業務を的確に処理し賢明な献策を行った人物であったが左丞相の胡惟庸
と同調して自身の地位を保持する事しか考えなくなり何も建白せず朱元璋からも度々訓戒を受けた。
胡惟庸が劉基を毒殺じた疑惑の際に否定し、さらに過去の不正を追求された事で処刑された。

親愛武将:胡惟庸

王弼

生年登場没年
1394年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8194553267豪傑果敢督励胆力功名疾風怒濤急襲鋒矢強化覇道

【オウヒツ】
明の武将。
双刀の使い手で「双刀王」の異名を持ち、平江での張士誠軍との激戦においては
常遇春の「君の腕でこの窮地を脱することができるか?」という求めに応じて双刀
を奮い多数の兵を討ち、張士誠の軍を撃破した。
その後も各地の遠征に参加して功績を挙げ、1388年のモンゴル遠征では敵軍が発見できない中で
大将である藍玉の撤退案を退けて先鋒として北元軍を発見し奇襲攻撃をかけて大勝を収めた。
しかし朱元璋の粛清からは逃れられずに賜死を命じられ死亡した。

藍玉

生年登場没年
1393年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8983623538掃討長駆果敢高慢功名魚鱗強化我道

【ランギョク】
明の武将。定遠の出身。
姉が常遇春の妻であった事で当初は常遇春の配下として活動し、
その後は周辺各地の遠征に従軍して功績を挙げ、1388年にはモンゴルへ遠征しブイル・ノールの戦いで
トグス・テムル率いる北元軍に大勝して涼国公に封じられた。
傲慢な振る舞いが多く朱元璋から度々叱責されていたが、行動が改まず1393年に謀反を疑われて誅殺された。
誅殺事件は多数の連座者が続出して処刑され、「藍玉の獄」と呼ばれた

親愛武将:常遇春

朱允炆

生年登場没年
1377年1402年?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2615585476優柔消沈軽率歳出改善王道
2615637484優柔消沈軽率慈悲名声歳出改善王道

【シュインブン】
明の第二代皇帝・建文帝。朱元璋の長男である朱標の子。
父の早世により祖父によって皇太孫に立てられ、祖父の死により即位した。
側近の方孝孺らと共に権力の安定の為、各地の王に封ぜられていた叔父らの勢力削減に
務めるが、最大勢力である燕王朱棣(後の永楽帝)の挙兵を招き南京の陥落により行方不明となった。
乱戦の中で死亡したのが濃厚と見られるが生存説もある。

嫌悪武将:朱棣

斉泰(尚礼)

生年登場没年
1402年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5743776954召募戸籍整備王道

【セイタイ(ショウレイ)】
明の政治家。
朱元璋の孫朱允炆が皇太孫に立てられた際に傅役となる。
朱允炆が即位した際に兵部尚書となり方孝孺らと共に補佐し、
藩王の削減に務めたが靖難の変により処刑された。

親愛武将:朱允炆
嫌悪武将:朱棣

方孝孺(希直)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3827898790学者不屈太学王道

【ホウコウジュ(キチョク)】
明の政治家。別字に希古。正学先生と呼ばれる。
宋濂に師事し、儒学を修める。
朱元璋に対して仁政を以て統治するよう諫言した。
蜀王朱椿に招聘され「正学」の号が贈られる。
建文帝が即位すると翰林侍講・翰林学士となり重用され、国家の大事を教授し治世を支えた。
燕王朱棣が挙兵すると朱棣討伐の檄文を書き上げる。
南京応天府?が陥落すると投降を拒み捕縛される。
朱棣が簒奪を正当化する為に即位の詔書を書くよう命じるが、「燕賊簒位」と書いた。
怒った朱棣により弟子・友人・一族九百名を目の前で処刑された後、磔にされ腰斬に処された。
永楽帝は更に彼の著作を焼棄て、門下生や使用人まで処刑。
この大虐殺は「滅十族」と称され、後世まで怖れられた。

鉄鉉(鼎石)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7540867585堅牢詐謀法律墨守研究王道

【テツゲン(テイセキ)】
明の政治家。
洪武帝の代に疑獄で明白な裁判を行って賞賛され、鼎石の字を賜る。
建文帝の代に山東に赴任し、燕王軍に済南城が包囲されると、盛庸とともに死守した。
朱棣殺害を狙って詐降し、朱棣の入城時に橋を落とすも脱出され、
怒った朱棣の猛攻を受けるも三ヶ月耐え撤退させた。
盛庸を補佐して東昌の戦いで燕王軍を大破し、張玉を戦死させる。
再起した朱棣が黄河を渡ると、
遼東の楊文と燕王軍の後背を討とうとするが、楊文の敗戦により失敗する。
永楽帝の即位後に捕縛され、磔刑に処された後に遺体を油鍋で煮られた。

補足:忠義不屈の人物として永楽帝の没後に「鉄公」と讃えられ、各地の祠で祀られるようになった。

平安

生年登場没年
1409年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8392544563掃討豪傑消沈魚鱗強化王道

【ヘイアン】
明の武将。幼名は保児。
父の平定は常遇春の配下で大都攻略の際に戦死した為、朱元璋は引き取って養子とし父の職を継がせた。
靖難の変では建文帝側の武将として活動し朱棣率いる部隊に斬り込み、自らの槍が朱棣の体を数度捉える程の
勇戦を見せ、朱棣軍を敗退させた。
以後も朱棣軍に善戦したが霊壁の戦いで捕らえられて助命され北平都指揮使となる。
しかしある時永楽帝が「平保児はまだいたのか」という発言をした事により自殺した。

李景隆

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2541163038動転高慢惰弱縦横術割拠

【リケイリュウ】
明の武将。
明の元勲で朱元璋の甥であった李文忠の子。
靖難の変の際に最初に大将軍に任じられた老将の耿炳文が敗退して更迭された為、
大将軍として討伐軍を率いたが軍事経験は乏しく兵器の使い方さえ分からない有様で、
敗退を重ねて結局は更迭され、後に燕王側との講和交渉を担うも失敗に終わる。
靖難の変後に助命はされたが完全に失脚した。

盛庸

生年登場没年
(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9177826372剛将妙計堅牢召募水戦投石王道

【セイヨウ】
明の武将。
靖難の変の際に建文帝側の武将として活動し、
当初は耿炳文や李景隆の指揮下にあったが、鉄鉉と共に済南城の防衛に成功して徳州
の奪回に功績を挙げ、以後は建文帝側の軍の指揮を担った。
東昌で朱棣率いる軍に大勝する等有能な将であったが次第に押されるようになり、
最後は降伏するも後に廷臣に弾劾を受けて自殺した。