みんなの新武将/倭・日本(河内畠山・雑賀根来)

Last-modified: 2025-12-05 (金) 18:31:39

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集?のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

倭・日本(室町時代末期)

倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。


京で11年続いた応仁の乱は、将軍権力の低下と全国における争乱を活性化させ、日本は戦国乱世の時代へと突入する。
応仁の乱の結果将軍職を引き継いだ室町幕府の9代将軍足利義尚は、近江国守護の六角高頼を討伐中のさなか、わずか25歳で急死。
このため、応仁の乱で争った足利義視の子、足利義材が10代将軍となるが、やがて管領の細川政元が彼と対立し、
足利義政の正室日野富子と組んで、足利義政の甥(義政の兄、政知の子)である足利義澄を11代将軍に据え、明応の政変が発生する。


将軍同士の権力争いは長期化し、足利義材の流派からは14代将軍足利義栄が、足利義澄の流派からは12代将軍足利義晴、13代将軍足利義輝、
そして15代将軍足利義昭が輩出され、最終的には織田信長によって双方とも権力を失墜した。
義昭は影響力を失しながらも毛利輝元に庇護され再起をうかがったが、最終的には豊臣秀吉に拝して将軍職を正式に返上し、これにより室町幕府は完全に滅亡した。
なお、織田信長が本能寺の変の直前、俗にいう「三職推任問題」で既に将軍位が言及されており、通説では信長が義昭を京都から追放した時点で幕府滅亡となっている。


9代将軍足利義尚以前の治世については室町時代(応仁・文明の乱)を参照。



河内畠山総州家

室町幕府初代将軍である足利尊氏に従った、足利一族の畠山貞国を祖とする勢力。貞国の兄、畠山高国は二本松畠山氏の祖である。
貞国の曾孫である畠山基国は、足利義満に仕えて南北朝の動乱の際、楠木正成の孫にあたる楠木正勝を攻め破り河内を支配し、
明徳の乱や応永の乱でも義満を支え、河内、紀伊、能登ら5か国の守護となる。基国の跡を継いだのは次男の畠山満慶だが、
満慶は兄である畠山満家に家督を返上して「天下の美挙」と称され、兄からは返礼として能登を返され能登畠山家の祖となった。

一方、家督を返上され当主となった畠山満家であったが、満家の孫である畠山義就、畠山政長の代になって総領争いがはじまり、
これが高じて応仁の乱の原因の一つとなった。この乱を境に河内畠山家はいくつかの系譜に分裂し、畠山義就の系譜が
総州家と呼ばれた。総州家は阿波細川家と関係を密にして畠山尾州家らと対立し、義就の孫にあたる畠山義英の代には
一度勢力を盛り返したが、以後は新興勢力である三好長慶ら三好氏に押される形で衰退。義英の孫、畠山尚誠の代に消息が途絶えた。

畠山義豊

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6365516259捕縛動員嚮導人脈金剛突撃激励牽制地域巡回割拠

【ハタケヤマヨシトヨ】
室町時代の人物。畠山義就の次男。初名は「基家」
兄が早逝したため、父の死後家督を継いだ。
父の政敵である畠山政長と対立し、政長が室町幕府10代将軍
足利義材を支持したため、細川政元らと手を組み明応の政変を
起こして、畠山政長を自害に追い込んだ。しかし足利義材を支持した政長の子、
畠山尚順との戦いで劣勢となり、1499年河内で戦死した。

木沢長政

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5624907257侵略荒廃覇道

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7654857957策士動員扇動捕縛強欲酖毒混乱挑発牽制斉射侵略荒廃覇道
7654897557策士動員扇動捕縛強欲酖毒混乱挑発牽制斉射侵略荒廃覇道

【キザワナガマサ】
室町時代の武将。畠山、のち細川家の家臣。河内守護代。
はじめ畠山義尭に仕えていたが、主家の衰退に伴い細川晴元へ接近。細川高国ら反晴元連合と戦い、
その一角である細川尹賢を攻め滅ぼした。また台頭著しい三好元長を危険視して、三好政長や
一向一揆衆と語らい、これを誅滅した。その後、法華衆や一向衆、畠山家細川家を巧みに操り、
独自の勢力を拡大して畿内の盟主たらんとしたが、三好元長の遺児であった三好長慶につけこまれ、
太平寺の戦いで敗死した。遺領は主に細川氏綱らによって引き継がれたが、三好畠山細川らの
内乱は収まるところを知らず、畿内の安寧は織田信長の到来を待つことになる。

補足:畠山家臣でありながら、細川京兆家に仕えて中枢までのぼりつめるなど、畠山家と細川家の両属状態にあった。

河内畠山尾州家

室町幕府初代将軍である足利尊氏に従った、足利一族の畠山貞国を祖とする勢力。貞国の兄、畠山高国は二本松畠山氏の祖である。
貞国の曾孫である畠山基国は、足利義満に仕えて南北朝の動乱の際、楠木正成の孫にあたる楠木正勝を攻め破り河内を支配し、
明徳の乱や応永の乱でも義満を支え、河内、紀伊、能登ら5か国の守護となる。基国の跡を継いだのは次男の畠山満慶だが、
満慶は兄である畠山満家に家督を返上して「天下の美挙」と称され、兄からは返礼として能登を返され能登畠山家の祖となった。

一方、家督を返上され当主となった畠山満家であったが、満家の孫である畠山義就、畠山政長の代になって総領争いがはじまり、
これが高じて応仁の乱の原因の一つとなった。この乱を境に河内畠山家はいくつかの系譜に分裂し、畠山政長の系譜が尾州畠山家として
勢力を伸ばした。しかし畠山政長の曾孫の畠山高政は、三好長慶と覇権を争い教興寺の戦いで敗北して紀伊の領主に転落。
足利義昭や織田信長と連携して勢力の再興をはかるも果たせず、高政の甥、畠山貞政が羽柴秀吉の紀州征伐軍に降伏して滅亡した。

畠山尚順

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7577757277不屈扇動掃討召募
7577757277不屈扇動掃討召募斉射侵略荒廃割拠

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7577757277不屈扇動再起召募名声斉射激励挑発牽制鉄壁侵略荒廃割拠

【ハタケヤマヒサノブ】
父は足利家将軍義政・義尚・義材の3代に仕えた畠山政長。
室町幕府管領「畠山家」に連なる家系だが、彼の頃には「畠山尾州家」と「畠山総州家」と分かれており、前者の出身である。
彼も義尚・義材に仕えて実績を挙げていったが、明応二年(1493年)に明応の政変が発生。
足利義材は捕らえられ、畠山政長は自刃。尚順も辛くも紀伊に逃れるという有様であったが、後に紀伊を地盤とし、和泉も味方につける。
また、足利義材が北陸から出陣すると、畠山尚順も呼応。尚順自身は順調だったが、義材が六角に敗戦したためこれは失敗に終わり、
義尹が大内氏を頼って西国に逃走すると、細川政元とその命を受けた畠山義英の攻勢で再度紀伊に敗走。
1507年に細川政元が暗殺されると、一度は和睦をした畠山義英と戦い嶽山城を攻略。
その翌年には大内義興が足利義材を引き連れて上洛すると、澄元と対立する細川高国とともにこれに同調。
大内義興、細川高国、同族の能登守護・畠山義元とともに義稙政権を構成する4人の守護の一人となる。
1516年には京から紀伊に戻る。家督はこのころ息子の畠山稙長に譲って隠居したが、1520年に家臣と対立して堺に逃れる。
最終的には紀伊の奪還に失敗し、そのまま京を追われ淡路に落ち延びた足利義稙のもとに仕え、同地で没した。

雑賀衆

雑賀衆とは、紀州国(現在の和歌山県)付近に存在する、地侍集団である。「紀州惣国」「雑賀惣国」「雑賀一揆」とも言われている。
存在としては有名であるが、実態は研究途上であり、イメージと史実の乖離が激しい存在でもある。信長の野望などと史実の相違点は以下の通り。


・海運や貿易に優れており鉄砲技術に習熟していたのは確かだが、根は地侍集団であり「鉄砲傭兵」というわけではない。また強力な水軍も擁しており、木津川口の戦いで織田軍にも勝利している。


・信長の野望では「鈴木家」とひとまとめにされているが、内実は諸氏諸家の連合体であり、そもそも有名な「雑賀孫一(鈴木重秀とされる)」が雑賀鈴木氏ではなく土橋氏に近い立場にいる。


・本願寺に従属する勢力と見られがちだが、近年の研究では直接の主君は河内畠山(尾州畠山)家であると判明。「織田信長に味方した雑賀衆」も数多く、そもそも有名な孫一自身がのちに信長に降伏している。


史料上の初見は1535年であり、江戸時代に成立した「畠山家譜」では1561年の久米田の戦いの際に、河内畠山家に味方した「鈴木孫市重意」「鈴木孫九郎重宗」「土橋小平次種興」の名が見られる。
その後、河内畠山家が足利義昭に従ったため、足利義昭を擁する織田信長に雑賀衆も従った・・・・とされているが、このあたりは少々複雑であり、足利義昭と織田信長が三好三人衆を攻撃した
野田福島の戦いでは、足利義昭と織田信長に味方した雑賀衆と、三好三人衆や大坂本願寺に味方した雑賀衆がおり、雑賀衆同士で戦ったとされている。

その後、足利義昭が織田信長に追放され紀州に下向してくると、河内畠山氏の復興とその主君足利義昭の擁立、本願寺への救援から大多数の雑賀衆が反信長を標榜して信長包囲網に加わった・・・・
とされているが、雑賀衆を構成する「中郷」「南郷」「宮郷」がむしろ織田信長に味方して、雑賀征伐の際にも信長に協力して「十ヶ郷」「雑賀荘」を攻撃したという。
戦況には諸説あるが、一応は「十ヶ郷」鈴木孫一が織田信長に降伏した・・・とされているものの、鈴木孫一はすぐに兵を挙げて信長に味方した「中郷」「南郷」「宮郷」を攻撃。
「中郷」「南郷」を味方につけるが、根来衆と結びついた「宮郷」の太田左近なる人物が1ヶ月近くにわたって抗戦したとされる。

なお雑賀衆「十ヶ郷」の出で有名な「鈴木孫一」とされる人物は、本願寺に味方して「大坂左右之大将」とされるほど武名をあげたが、
本願寺が信長と和睦(抗戦の断念、石山退去を含む、本願寺に著しく不利な和睦)すると、むしろ鈴木孫一は信長に接近して土橋胤継と対立。
1581年に土橋胤継が鈴木孫一の継父を殺害したことをうけ、1582年には鈴木孫一が土橋胤継を殺害するなど内紛が発生した。
しかし同年6月2日、本能寺の変が起き、鈴木孫一は雑賀を去って織田信長の一族である織田信張に庇護を求めた。

鈴木孫一が雑賀を去っても雑賀衆がなくなったわけではなく、織田家で羽柴秀吉が台頭すると秀吉と対立した。しかし同時期に
秀吉が信雄と対立して小牧長久手の戦いが発生すると、雑賀衆は根来衆と協力して織田信雄に味方したとされる。これ以前に
長宗我部元親にも味方していたとされるが諸説ある。こののち、羽柴秀吉の紀州征伐によって雑賀衆は概ね壊滅し、紀伊は秀吉の弟、羽柴秀長が治めることになった。
「雑賀も内輪散々に成て自滅」と評された雑賀衆の滅亡後、鈴木孫一は子供とともに秀吉に仕えたとされるが、その後の消息は不明。生き残った多くの雑賀衆は紀伊を離れ、全国に散って行った。

鈴木佐大夫(鈴木重意)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6563677073地利堅牢名声教化動員斉射奮戦地域巡回我道

【スズキサダユウ/スズキシゲオキ/スズキシゲモト)】
戦国時代の武将。雑賀衆の実力者と伝わる。一時期「鈴木孫一」と名乗った。
父は鈴木重家、兄に鈴木長重とも。元は紀州畠山当主の畠山高政に従い、三好氏との抗争に参陣した。
久米田の合戦や高屋城の戦いに畠山方として従軍記録が見られる。
その後、織田信長の雑賀征伐で敗れて自刃したとも、秀吉の紀州征伐後に藤堂高虎に欺かれて死亡したとも伝わる。

※信長の野望では重意と佐大夫を同一人物扱いしているが、別人説もある。(別人説では、後述の鈴木孫一(重秀と仮託される)の兄の実名が重意ではないかと言われている。)
※事跡もやや不透明。雑賀衆を率いて畠山高政に味方したと伝わるが、後述の鈴木孫一(「大坂之左右之大将、伝鈴木重秀」)の事績が彼のものとして伝わっている可能性が指摘されている。
※親子関係も定かではない。鈴木佐大夫は雑賀荘を拠点にしていたが、後述の鈴木孫一は十ヶ郷を拠点にしており勢力圏が異なる。秀吉の紀州征伐時も孫一は秀吉に与したが、多くの雑賀鈴木氏は秀吉に抵抗した。

鈴木孫九郎(鈴木重宗・鈴木宗忠)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6369575155動員遠矢補佐斉射激励地勢研究我道

【スズキマゴクロウ/スズキシゲムネ/スズキムネタダ】
戦国時代の武将。鈴木孫一の伯父。佐大夫の弟とされている。
雑賀での紛争の際に鈴木孫一とともに雑賀衆の実力者として紛争解決に奔走、
のちに鈴木孫一(佐大夫?)に従って畠山高政への援軍として久米田の戦いに参陣した。

※高屋城の戦いには参戦記録がないことや、久米田の戦い以降の消息がないことから同合戦で戦死したとみられる。
※重宗、宗忠には別人説もあるものの、事績や立場を考えると恐らくは同一人物と思われる。

鈴木孫一(雑賀孫市)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8088745687勇将猛者胆力堅牢不屈雁行強化我道
8893847687神機勇将猛者胆力堅牢瞞天過海斉射鉄壁激励奮戦雁行強化我道

【スズキマゴイチ/サイカマゴイチ】
戦国時代の武将。紀伊国にある鉄砲、地侍集団、雑賀衆の頭目の一人と伝わる。「雑賀孫市」とも。
織田、本願寺双方にその軍事的才能を高く評価され、はじめ本願寺につき石山戦争に従事。
法主顕如からも格別の信頼を持って迎えられ、織田軍を苦しめた。同じく本願寺の坊官である下間頼廉とともに
「大坂之左右之大将」とまで称された。石山戦争の終結後は顕如を鷺森へ迎え入れ、織田信長とも接近。
一方で雑賀衆の土橋氏と対立し、これを暗殺して雑賀衆の一本化をはかっている。本能寺の変後は先述の理由もあって
敵対する土橋氏の攻撃を避けるべく雑賀の地を出て織田領に逃亡。当時岸和田城主であった織田信張の庇護を受けた。
その後は羽柴秀吉に従い、小牧・長久手の戦いや紀州征伐にも参戦。以後の動行は不明である。

※諱は「重秀」ともつたわるが、異説もあり。
※通説では、鈴木佐大夫の三男で、兄が2人いるとこまでは濃厚。弟がいる説もある。ただし父親を佐大夫以外とする説もある
※対立した土橋氏を暗殺したのは、前年に孫一の継父が土橋氏に殺害されたことが理由とされる(信長公記より)が、この継父が誰なのかは不明。

中嶋順勝(鈴木孫太郎)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6579556872疾走名声地利輿望功名斉射激励地域振興我道

【ナカジマジュンショウ(スズキマゴタロウ)】
戦国時代の武将、僧侶。専光寺2代目住職。寺伝によると、鈴木孫一(大坂之左右之大将)の兄と伝わる。
弟の孫一とともに本願寺について石山戦争に従軍し織田信長と抗争。
天王寺・今宮での戦いでは、一番槍をつとめ「一番槍の孫太郎」との武名を轟かせた。
石山戦争終結後は出家して専光寺の住職となり、鷺森にやってきた顕如に近侍したという。

※一説には「鈴木重意」という名前は彼の諱ではないかと言われている。なお彼もまた一時期「孫一」と名乗っている。

鈴木重幸

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7170837561堅守地利石兵妙算虚弱斉射混乱墨守研究我道

【スズキシゲユキ】
戦国時代の武将。鈴木佐大夫の子とも、甥とも伝わる。飛騨守、孫一。重行とも。
石山戦争において本願寺顕如に協力し、大日砦を守備し織田軍の攻勢を防いだ。
石山軍記においては数々の謀略でもって織田軍の攻撃を退けたと伝わる。
しかし心身を病んで病身となり、顕如への最後の奉公として織田信長の暗殺を試みるも失敗。敗死した。

※去就や由来が諸説ありすぎる人物。実在したのは確かのようだが、石山戦争中に戦死した説、生存説、熊野隠棲説がある。
※1576年に織田信長が「さいかの孫一」の首を取って晒し首としたが(信長公記、言継卿記など)、当時孫一と名乗っていたこの人物と雑賀孫一(鈴木重秀)を誤認した可能性が指摘されている。

平井義兼

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3531728685運搬調達富豪徴税特使鼓舞混乱政令徹底我道

【ヒライヨシカネ】
戦国時代の武将。鈴木佐大夫の子とも、別系統の雑賀衆とも伝わる。「平井孫一」。
主に後方での政務や兵站を担当し、雑賀衆や本願寺を裏から支えたと言われている。
小牧長久手の合戦の際には、織田信雄や徳川家康に味方し、紀州征伐後も平井の居館で隠棲した。1589年死没。

※非常に謎の多い人物。信長の野望では佐大夫の子、重秀の兄である「鈴木重兼」として登場しているが、諸説あって定かではなく、一部の列伝で中嶋順勝との混同が見られる。
※一般的に、「大坂之左右之大将」と呼ばれ、織田信長を苦しめた雑賀孫一は鈴木重秀と言われているが、その正体を彼に比定する説もある。(能力値は別人説で作成)
※彼が築いたとされる蓮乗寺では、彼の息子が雑賀孫一と名乗り、豊臣秀吉に仕えて関ヶ原の戦いで西軍に属し~とあり、信長の野望の重秀重朝親子説はここからきている。

鈴木孫六

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7265536475昂揚求心長駆強運潜在斉射牽制兵器強化我道

【スズキマゴロク】
戦国時代の武将。鈴木氏一族。「平井孫一」の弟とされるが、鈴木佐大夫の末子ともされる。
雑賀衆とともに石山戦争で顕如に与して奮戦し、顕如が鷺森へやってきたあとも近侍した。
その後、紀州征伐では当初抵抗するも、顕如や孫一の説得を受けて開城。以後秀吉に仕えた。子孫は紀州徳川家の藩士となったという。

※本能寺の変直前、織田軍に攻撃されたが九死に一生を得た。本能寺の変で撤退する織田軍を後目に踊った踊りが雑賀踊りの起源になったとされるが、良質な史料ではこの時戦闘はなかったとされる。
※浅井家の救援のために江北へも行っていたらしいが詳細不明

鈴木孫市(鈴木豊若)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6079515368潜在遠矢特使強運求心斉射激励先従隗始我道

【スズキマゴイチ/スズキトヨワカ】
戦国時代の武将。「大坂之左右之大将」と称された鈴木孫一の子。
鈴木重朝(孫三郎)と同一人物とも言われるが、定かではない。
1576年に14歳で初陣を果たして活躍、以後父とともに石山戦争を戦い抜く。
その後、父に追従して豊臣秀吉に仕え鉄砲頭となった。のち水戸徳川家に仕えたとされるが不明である。

※コーエーの信長の野望シリーズでは「鈴木重朝(孫三郎)」と同一人物扱いされているが、子孫である鈴木眞哉氏は孫三郎(重朝)が孫一の息子であることを否定している
※伏見城攻防戦で鳥居元忠を討ち取ったのは鈴木孫三郎であるが、根来と縁深く雑賀鈴木氏の同族である三河鈴木氏の出とも言われている。しかし孫三郎の去就は豊若(孫市)と混同されることも多い。

鈴木孫三郎(鈴木重朝)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6882585564猛者遠矢寡欲頑健再起斉射奮戦兵器強化我道

【スズキマゴザブロウ/スズキシゲトモ】
戦国、江戸時代の武将。雑賀衆の出とも言われるが異説もある。
豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕え、関ヶ原の戦いの前哨戦である
伏見城攻防戦では敵大将の鳥居元忠を討ち取った。
関ヶ原の戦い以降は浪人し、その後伊達家に仕えた後、水戸徳川家に仕え元和年間に死去したとされている。
諱は「重朝」と伝わるが、異説もある。

※コーエーの信長の野望では、鈴木孫一こと鈴木重秀の子供として登場するが、子孫である鈴木眞哉氏は孫三郎(重朝)が孫一重秀の息子であることを否定している。
※上記を含めて父については諸説あり、雑賀鈴木氏の出ではなく、三河鈴木氏の出ともされたりする。
※去就が明らかになるのは1592年に豊臣秀吉に仕官している時期からで、それ以前の動向は一切不明。また死没年も異説がある。
※伏見城攻防戦の感状の際も「鈴木孫三郎」表記である。前述の豊若(孫一重秀息子)は「孫一」「孫一郎」とされており、別人であろうと推測される。
※前述の子孫である鈴木眞哉氏は孫三郎を、孫一重秀の甥または弟などの近親者と考察している。孫一次兄「三吉」の息子であろうか。

土橋守重(土橋胤継)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7267401857剛将猛者不屈雁行強化覇道
7277505857剛将猛者不屈振興徴税雁行強化覇道

【ツチバシモリシゲ(ツチハシタネツグ)】
戦国時代の武将。土橋氏は雑賀衆の中でも鈴木氏に並ぶ有力者の一族。
石山戦争では他の雑賀衆とともに本願寺に与していた。
戦後は織田に対する対応から孫一ら鈴木氏と袂を分かった末に謀殺された。

嫌悪武将:鈴木孫一

※石山戦争当時、土橋守重(胤継)と鈴木孫一の関係は良好だった。

岡吉正

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5582533555遠矢豪傑猛者火矢連弩雁行強化我道

【オカヨシマサ】
戦国時代の武将。雑賀衆の一人。
狙撃に優れ、石山戦争では信長の足を撃ち負傷させたとされる。
その後、本願寺が信長と和睦して石山を退去しようとすると、
一時は抗戦を唱える教如を支持したが、結局は顕如派に従った。
羽柴秀吉の紀州征伐の際は、岡衆が雑賀衆から寝返ったことで雑賀衆滅亡のきっかけとなったが
この時に吉正が存命であったかどうかは不明である。

根来衆

根来玉宝

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6573333765嚮導堅牢不屈兵器強化覇道

【ネゴロギョクホウ】
戦国時代の武将、僧侶。根来衆だが、「鈴木孫一」の従兄弟にあたるという。
石山戦争では三好義継ついで織田信長に与し、鈴木孫一と戦った。
その後、紀州征伐では織田信雄や徳川家康に与して頑強に抵抗するも敗北した。

往来左京

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5387111559猛者豪傑侵略荒廃覇道

【オオキサキョウ】
戦国時代の土豪、僧侶。根来衆の「荒法師」。
雑賀衆の佐武義昌との戦いで名を馳せ、久米田の戦いでは三好実休の
大将首を討ち取るという大戦果をあげ、畠山高政から激賞された。
その後も畠山氏に付き従うが、三好氏との抗争中に戦死した。