注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集?のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
真田家
海野棟綱またはその娘婿真田頼昌を祖とする。歴史の記録上においてその存在が明らかになるのは
それら2人の子、真田幸綱(真田幸隆)からである。武田信虎に敗れて所領を追われた海野一族であったが
その海野一族の一人、真田幸綱は信虎の子、武田晴信に味方して旧領を回復させた。幸綱はそのまま武田家に仕えたが、
長篠合戦で武田勝頼が織田信長に敗れた際、幸綱の二子である真田信綱、真田昌輝が戦死し、家督は三男の昌幸が相続する。
真田昌幸は武田、織田、北条、徳川、上杉、豊臣と巧みに主従を変えたが関ヶ原合戦で西軍に所属して改易となった。一方、
昌幸の嫡男信之は徳川の与力大名として東軍勝利に貢献し、そのまま昌幸の旧領を相続して江戸時代の有力大名として存続した。
当主
真田幸隆
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 67 | 90 | 78 | 76 | 崩壁 | 一心 | 封殺 | 山戦 | 策士 | 地勢研究 | 割拠 | |||||
【サナダユキタカ/サナダコウリュウ】
戦国時代の武将。信濃の名族・海野家の庶流。真田昌幸らの父で幸村の祖父。正式な諱は幸綱。
諏訪・村上らの侵攻によって旧領を失い、長野業正らの下で過ごす。
後に武田晴信が信濃侵攻を開始すると、海野家再興を掲げた晴信に帰参。
主家の仇である村上義清征伐に多大な功績を残し旧領回復を果たした。
以後も川中島合戦では別動隊に従軍するなど武田家臣として貢献した。1574年死去。
真田信綱
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 90 | 58 | 66 | 82 | 動員 | 殿軍 | 驍将 | 猛者 | 豪傑 | 突撃 | 激励 | 鶴翼強化 | 王道 | |||
【サナダノブツナ】
戦国時代の武将。真田幸隆の長男。
弟の昌幸、信尹らとともに武田信玄に側仕えし、
川中島合戦では父の幸隆とともに別働隊で奮戦。父の幸隆が上州方面へ向かうと
家督を譲られ、真田本領を支配。1568年の駿河攻めでは先鋒を務め、1569年の
三増峠の戦いでは内藤昌秀とともに殿で奮戦した。三方ヶ原でも先方衆として活躍するが、
1575年の長篠合戦で首級16を取るも、織田徳川連合軍の鉄砲により落命。
真田昌幸
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 58 | 93 | 78 | 90 | 洞察 | 妙算 | 堅牢 | 地利 | 築城 | 文事武備 | 王道 | |||||
| 87 | 58 | 93 | 78 | 90 | 虚実 | 妙算 | 堅牢 | 地利 | 築城 | 文事武備 | 王道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 89 | 71 | 93 | 80 | 85 | 虚実 | 妙算 | 堅牢 | 地利 | 築城 | 機知奇策 | 混乱 | 斉射 | 鼓舞 | 足止 | 文事武備 | 覇道 |
事実上近世大名真田家を築いた人物。関ヶ原の戦いで改易されたこと以外は失点知らずで、一応嫡男が家継いでいるので失点自体もさほど大きくはない。
この人に限った事ではないが、真田家は過大評価の反動で過小評価されたり、過小評価の反動で過大評価されたりと評価が意外と安定しない。その人気故であろうか。
徳川家康との戦いが超有名でそれ以外が霞むことも多いが、武田勝頼時代から上野を独力で切り取っていたり滝川一益の撤退を手助けしたり、
天正壬午の乱で北条氏邦と凌ぎを削ったりと、随所に戦才、知才が光る。
【サナダマサユキ】
戦国時代の武将。真田幸隆の三男。
武田信玄に重用され、奥近習として側近くに仕えた。
2人の兄が長篠合戦で戦死すると、真田家の家督を相続。勝頼政権下でも
上野を攻撃し、謀略をもってして安定させたが、天目山の戦いで武田家は滅亡。
以降織田家、北条家、徳川家、上杉家と家名存続のために何度も主家を鞍替えした。
第一次、第二次と徳川軍相手に籠城戦を展開し、上杉家などの連携を取って所領を防衛。
しかし関ヶ原の戦いの戦後、改易され紀伊九度山に蟄居。そのまま同地で没した。
補足:基本的に「過大評価」とやり玉にあがりやすい真田家であるが、武田家で方面軍の司令官的立ち位置に収まった人物はあまりいないので、この人は必然高評価になると思われる。
真田信之
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 68 | 54 | 79 | 86 | 80 | 機略 | 地利 | 胆力 | 輿望 | 仁政 | 経世済民 | 王道 | |||||
| 58 | 54 | 79 | 86 | 80 | 特使 | 論客 | 策士 | 輿望 | 仁政 | 経世済民 | 王道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 60 | 81 | 86 | 88 | 論客 | 仁政 | 補佐 | 輿望 | 虚弱 | 八俊之誉 | 鼓舞 | 鎮静 | 治療 | 混乱 | 地域振興 | 王道 |
「父と弟に比べて地味」という評価を抱かれやすく、その反動で「父や弟より過大評価」されるようになってしまった、内政や領土運営に優れた真田家存続の名君。
30代頃から病を得ていたことも明らかになっており、93歳まで生存した信之に赤特性「虚弱」の付与はかなり迷ったが、65歳で亡くなった公孫恭や
70歳で亡くなった士廞にもついていたので付与。基本的なコンセプトは史実そのまま「地味に万能」「縁の下の力持ち」。父と弟より目立たないはもはや個性。
なお上田から松代への転封は信之自身が「誠家之面目外実共残無仕合ニ而」と記したように栄転であり、後任の仙石家への嫌がらせ(書類破却など)は史実ではない。
【サナダノブユキ】
戦国時代の武将。真田昌幸の嫡男。弟に真田信繁。のち徳川家康の家臣。
父に従い武田家滅亡後の真田家躍進に貢献し、徳川家康の養女を娶った。
主に外交で活躍し石田三成や本多忠勝らと交渉を務め、真田家安泰に尽力。
関ヶ原合戦の際は父と弟と別れて東軍につき、戦後信濃上田藩を領した。
大坂の陣では病床にあって出陣できず、息子2人を派遣している。
のち信濃松代に加増転封されるも、明治に至るまで真田家の祖として基礎を築きつつ晩年まで重きをなした。
補足:江戸時代に真田家を残した名君であるが、近年の信長の野望では、とりわけ軍事面は過大評価と言わざるを得ないだろう。
補足:戦場には数回ほどしか従軍しておらず著名な功績も特にない。93歳と長寿を保ったが、実は40代頃から病をしばしば患っていたことが史料にある。
一門
真田昌輝
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1543年 | 1575年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 75 | 74 | 81 | 64 | 71 | 果敢 | 殿軍 | 奮戦 | 突撃 | 鋒矢強化 | 覇道 | ||||||
【サナダマサテル】
真田幸綱の次男。
武田信玄の近習となり百足衆にも抜擢された。
駿河攻略や三増峠の戦いで活躍したが、長篠の戦いにて織田軍との激戦の末に兄の信綱と共に戦死した。
真田信尹
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1547年 | 1632年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 68 | 75 | 74 | 69 | 論客 | 特使 | 混乱 | 牽制 | 縦横術 | 我道 | ||||||
【サナダノブタダ】
真田幸綱の四男。
最初は兄と共に武田氏に仕えて加津野氏の名跡を継いでいた。
武田氏の滅亡後は上杉氏を経て徳川家康に仕え、その後も各大名家を
転々としたが最後は徳川家に戻り旗本となった。
真田信繁/幸村
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 91 | 73 | 31 | 86 | 神威 | 潜在 | 堅牢 | 地利 | 胆力 | 鋒矢強化 | 我道 | |||||
| 87 | 94 | 75 | 31 | 86 | 神威 | 潜在 | 堅牢 | 地利 | 胆力 | 鋒矢強化 | 我道 | |||||
※晩年(48歳以降)Ver.
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 98 | 80 | 15 | 96 | 神威 | 飛将 | 堅牢 | 地利 | 胆力 | 三軍強化 | 我道 | |||||
| 88 | 99 | 82 | 15 | 96 | 神威 | 飛将 | 堅牢 | 地利 | 胆力 | 三軍強化 | 我道 | |||||
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 88 | 99 | 82 | 15 | 96 | 神威 | 飛将 | 堅守 | 地利 | 一騎 | 神威穿貫 | 忠勇義烈 | 斉射 | 急襲 | 突撃 | 激励 | 三軍強化 | 我道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 82 | 96 | 80 | 60 | 86 | 神威 | 掃討 | 堅守 | 地利 | 一騎 | 単騎駆 | 奮戦 | 斉射 | 急襲 | 突撃 | 激励 | 三軍強化 | 我道 |
戦場での活躍自体は数少ないが、その数少ない活躍の大坂の陣のインパクトが極めて強い武将。
能力値で盛るよりも個性で盛る方がらしいと思い、能力値は多少控えめ?にしつつ、個性で彼らしさを再現した。
戦法は迷ったが「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」の逸話や無双シリーズの親和性から三國無双では主人公的立ち位置の趙雲の戦法である単騎駆に。
【サナダノブシゲ/ユキムラ】
戦国後期の武将。幸村の名で著名。
信州上田の国主・真田昌幸の次男として生まれ、上杉家、豊臣家の人質として育った。
関ヶ原の戦いで西軍に属した事が切掛で、父親と九度山に蟄居。
大坂の陣が始まると豊臣家の要請で大坂城入し、豊臣軍の主力武将の一人として活躍した。
大坂冬の陣では堅牢な出城・真田丸を築き、押し寄せる関東の大軍を度々撃破。
大坂夏の陣の道明寺の戦いで伊達政宗を破る功績をあげる。
敗色濃厚となった天王寺の戦いでは、武士の意地を示すために3千の兵を率いて徳川家康本陣を急襲。
総員玉砕し信繁も打ち取られたが、家康をあと一歩の所まで追い詰めたと伝わる。
その卓越した武功は諸侯や朝廷貴族からも絶賛を受け、島津忠恒は「真田日本一の兵」と彼を讃えている。
真田幸昌
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1600年 | 1615年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 58 | 69 | 59 | 30 | 74 | 堅牢 | 一心 | 潜在 | 突撃 | 鼓舞 | 三令五申 | 我道 | |||||
【サナダユキマサ】
真田信繁(幸村)の長男。通称は大助。
父に従い大坂に入城し大坂の陣で戦功をあげた。
父が戦死した最後の突撃の前に父の命で秀頼の元へと近侍し、大坂落城の際に秀頼に殉じた。
親族・縁戚
矢沢頼綱
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 84 | 83 | 78 | 65 | 70 | 森戦 | 山戦 | 地利 | 胆力 | 長駆 | 長蛇強化 | 割拠 | |||||
| 76 | 77 | 78 | 65 | 70 | 森戦 | 山戦 | 地利 | 胆力 | 長駆 | 斉射 | 鉄壁 | 鼓舞 | 長蛇強化 | 割拠 | ||
【ヤザワヨリツナ】
戦国時代の武将。真田幸隆の弟。
武田晴信の下で兄や甥の信綱と共に転戦する。上野岩櫃城攻めで活躍し、岩櫃城主に任じられた。
長篠合戦の後沼田城攻略の指揮を執り、これを落城させる。
武田氏が滅亡すると昌幸の下で北条氏との戦いの最前線である沼田城の城主として北条氏の大軍を度々撃退した。
上田城の戦いにおいても知謀をもって活躍。嫡子の頼康に家督を譲り、1597年病没。
矢沢頼康
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1553年 | 1625年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 63 | 75 | 56 | 55 | 59 | 地利 | 奮戦 | 墨守研究 | 我道 | ||||||||
【ヤザワヨリヤス】
真田家臣。矢沢頼綱の子。頼幸、頼貞とも。
信繁が上杉家へ人質へと赴く際に同行している。
武勇に秀でて神川合戦においては九尺の大長刀を振りかざして奮戦した。
大坂の陣では真田信之の子である信吉・信政の補佐として参陣した。
河原綱家
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1634年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 56 | 55 | 70 | 71 | 68 | 徴税 | 運搬 | 粗忽 | 挑発 | 地域振興 | 割拠 | ||||||
【カワハラツナイエ】
真田家臣。河原隆正の子で信綱・昌幸兄弟の従兄弟にあたる。
家老職にあり真田家の上野方面の奉行人を務め、関ヶ原の戦いでは大坂留守居役を務めていた。
一方で昌幸に同行したという資料もあり犬伏にて信幸・信繁と密談した際に迂闊にも顔を出した為に
下駄を投げられて前歯を折ったという。
高梨内記
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1615年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 58 | 56 | 61 | 63 | 堅牢 | 斉射 | 激励 | 墨守研究 | 我道 | |||||||
【タカナシナイキ】
真田家臣。
第一次上田合戦で功績を挙げ、真田昌幸・信繁親子の高野山配流に同行した。
娘が信繁の側室であった事もあり昌幸死後は信繁に仕えて大坂にも入城し、
大阪夏の陣で戦死した。
親愛武将:真田信繁(幸村)
堀田興重
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1615年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 54 | 61 | 46 | 40 | 51 | 農政 | 突撃 | 地域振興 | 我道 | ||||||||
【ホッタオキシゲ】
真田家臣。通称は作兵衛。
妹が信繁の側室となり、信繁が大阪に入城した際に出奔して合流する。
以後は信繁と共に大坂の陣を戦ったが夏の陣で戦死した。
親愛武将:真田信繁(幸村)
家臣
鈴木重則
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1547年 | 1589年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 58 | 63 | 33 | 26 | 47 | 軽率 | 城壁拡張 | 割拠 | |||||||||
【スズキシゲノリ】
真田家臣。通称は主水。
上野国名胡桃城を守ったが北条家臣猪俣邦憲の謀略により
城を奪われ、その責任を取って自害した。
この事件が秀吉による小田原征伐の契機になった事でも知られる。
出浦昌相
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1546年 | 1623年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 77 | 75 | 51 | 58 | 地利 | 山戦 | 崩壁 | 混乱 | 撹乱 | 業火 | 急襲 | 地勢研究 | 我道 | |||
【イデウラマサスケ】
真田家臣。盛清とも。
信濃国出浦荘を統治した豪族で村上氏を経て武田氏に仕え、
真田昌幸の与力となり武田氏滅亡後は家臣となった。
信之の家老として活動し、忍びの棟梁として活躍したともいう。
禰津幸直
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 1567年? | 1618年 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 54 | 47 | 73 | 75 | 54 | 能吏 | 調達 | 法律 | 鎮静 | 政令徹底 | 王道 | ||||||
【ネヅユキナオ】
真田家臣。
信濃の滋野三氏の出身で信幸(信之)とは乳兄弟であったともいう。
信幸の元で近臣として重用され上野国の統治に参加し信幸の正室である
小松殿の輿入れの際にも奉行を務めた。
また大坂の陣後には出浦昌相と共に信繁に従い大坂方に加わった残党の
探索を行っている。
親愛武将:真田信之
樋口角兵衛
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 1655 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 38 | 80 | 74 | 3 | 13 | 豪傑 | 強奪 | 猪突 | 癇癪 | 粗暴 | 名利 | |||||||
【ヒグチカクベエ】
武田・真田家臣。兼周の三男。母は山手殿(真田昌幸の正室)の妹。
武田勝頼に仕え、主家滅亡後真田家に仕えた。
河原綱徳『本藩名士小伝』によると、荒っぽくわがまま者で、人に疎まれていたが、
力が強く剣鎗の達人であったため、昌幸は相応の知行を与え、信繁の側近に付けさせていた。
信繁が舅の大谷吉継に贈られた来国俊の太刀を、賭のイカサマで巻き上げたことがある。
大坂の陣でも信繁に従って参陣するが、信繁が戦死すると後追いを禁じられ脱出した。
信幸(信之)に帰参を認められるが、200石の条件が気に食わず出奔し、
尾張藩に仕えたが、賭の諍いで同僚を6人殺害し、またも出奔した。
信幸は最初帰参を認めなかったが、家老の矢沢頼幸・小山田茂誠らの家に日参して帰参を願った。
たまりかねた家老達の要請で、信幸も200石の条件ならと折れ、角兵衛も従った。
その後も、茂誠の老眼に人の目が薬になると聞き、本当に人を襲って目をくりぬいて
献上するなど奇行が目立ったが、天寿を全うした。
※「角兵衛」は仮名(けみょう)で、実名は不明。
池波正太郎の小説『真田太平記』で知られたため、架空の人物扱いされることもあるが、実在の人物である。