注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
蝦夷
蝦夷(えぞ、えみし、えびす)とは、3世紀頃から確認される現代日本に続く当時の大和朝廷から見て、東方及び北方に住んでいた人々の総称である。
文献の初出は日本書紀と言われ、武内宿禰が現在の関東地方や東北地方に住まう国々の人々を指して言ったと言われている。
その後は大和朝廷の勢力拡大に伴い、飛鳥時代頃には現在の宮城県及び山形県以北が蝦夷の勢力圏となり、阿倍比羅夫や坂上田村麻呂が討伐に赴いた。
やがて奥州では蝦夷を先祖の血縁にもつ「奥州藤原氏」が台頭するが、源頼朝率いる鎌倉幕府軍によって鎮定され、ここに東北地方の蝦夷勢力は駆逐された。
鎌倉幕府の支配が確立された中世以降は、蝦夷=現在の北海道と徐々に定義化されるようになり、鎌倉幕府の執権北条義時によって
安藤氏が蝦夷管領として封じられた。やがて鎌倉幕府が滅亡すると安藤氏は安東と姓を変えるようになった。しかし室町時代になると南部氏が
勢力を伸ばして陸奥地方を掌握し、その南部氏の家臣である蠣崎氏(現在の青森県下北半島蠣崎を領する)が蝦夷地(当時の定義による北海道)に移って勢力を伸ばしたという。
蠣崎氏はやがてアイヌの抗争にも勝利し、道南に勢力を割拠させて豊臣秀吉や徳川家康から支配を追認された。
江戸時代に入ると、ロシアの軍艦がたびたび蝦夷地に入るにいたり、江戸幕府は蝦夷地を直轄領と定めた。戊辰戦争では旧幕府軍の一党が蝦夷地を掌握して
「蝦夷共和国」と呼称されるが、やがて新政府軍に敗れて蝦夷地も新政府が掌握した。1869年、明治政府は当時の蝦夷地を「北海道」と制定し、蝦夷の呼称は消滅した。
蝦夷共和国
榎本武揚
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1836年 | 1908年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 84 | 68 | 85 | 88 | 82 | 水戦 | 運搬 | 寡欲 | 振興 | 屯田 | 水軍育成 | 王道 | |||||
【エノモトタケアキ】
江戸時代幕末期の幕臣・明治時代の軍人・政治家。
旗本の出身で海軍伝習所に学び、開陽丸を受け取る為にオランダに留学し帰国後は開陽丸艦長として幕府海軍を率いた。
戊辰戦争における江戸開城後は幕府艦隊を率いて抵抗を続け、蝦夷地にて独立政府を築き総裁となるが箱館戦争により敗北して降伏した。
戦後は投獄されたが、後に赦免され日本初の海軍中将となり開拓使や外務大臣などを歴任した。
大鳥圭介
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1833年 | 1911年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 61 | 90 | 82 | 76 | 封殺 | 泰然 | 築城 | 調練 | 学者 | 文事軍備 | 王道 | |||||
【オオトリケイスケ】
江戸時代幕末期の幕臣・明治時代の軍人・政治家・学者。
摂津尼崎藩の村医者の息子で医学等の多様な学問を学び、旗本に登用されて開成所の教授となる。
1867年に創設された伝習隊に属して幕府陸軍を統括する歩兵奉行に昇進、
戊辰戦争においては江戸開城後も関東各地や東北にて新政府軍に抵抗を続けた。
蝦夷地に逃れた後は蝦夷共和国の歩兵奉行として箱館戦争に参加し、
降伏後は赦免されて技術官僚となり工部大学校の校長や枢密顧問官を務めた。
松平正親
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1839年 | 1909年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 56 | 45 | 86 | 84 | 78 | 能吏 | 調達 | 徴税 | 割拠 | ||||||||
【マツダイラマサチカ】
江戸時代幕末期の幕臣。松平太郎の名で知られる。
幕臣の家に生まれ奥右筆・外国奉行支配組頭を務めた。
戊辰戦争においては榎本武揚や大鳥圭介らと共に抗戦派で多額の軍資金を
持ち出すのに成功し大鳥圭介率いる伝習隊の抵抗を支えた。
蝦夷共和国においては総裁選で榎本武揚に次ぐ得票を得て副総裁に就任し、共和国の内政・外交を担う活躍をした。
明治時代においては官僚となるも早く辞職し実業家となるも経営は失敗に終わり不遇の後半生であった。
中島永胤
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1821年 | 1869年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 75 | 73 | 81 | 70 | 65 | 発明 | 堅牢 | 不屈 | 水軍育成 | 王道 | |||||||
【ナカジマナガタネ】
江戸時代幕末期の幕臣。中島三郎助の名で知られる。
若い頃より砲術を筆頭に多くの学問や武術を学び、父の後を継いで浦賀奉行与力となる。
ペリー来航の際は通詞の堀達之助と共に小舟でサスケハナ号に乗り込み、軍艦の構造を
丹念に観察した経験もあり軍艦の製造を主張し日本初の洋式軍艦鳳凰丸の製造に携わり、
長崎海軍伝習所の第一期生となった。
戊辰戦争では榎本武揚に従い蝦夷地に赴き、箱館戦争においては千代ヶ岱陣屋を守り、
抵抗を続けた末に二人の息子と共に戦死した。
伊庭秀穎
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1844年 | 1869年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 87 | 48 | 39 | 76 | 猛者 | 護衛 | 不屈 | 奮戦 | 急襲 | 鯨波 | 三令五申 | 王道 | ||||
【イバヒデサト】
江戸時代末期の幕臣。一般的には「伊庭八郎」の名で知られる。
幕臣で心形刀流の剣客である伊庭秀業の子で若くして剣の才を認められ、将軍家茂配下の護衛である奥詰隊に入る。
奥詰隊が遊撃隊となった後は隊長の一人として戊辰戦争を戦い、箱根での戦闘で左腕を失い隻腕の剣客として後世に知られるようになる。
その後は箱館の旧幕府軍に合流し歩兵頭となり、箱館戦争では遊撃隊を率いて奮戦するも致命傷を負いモルヒネを飲んで自害した。