注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(親平家勢力)
桓武平氏の内、保元の乱、平治の乱で頭角を現した伊勢平氏出身の武士・平清盛は武士として初めて太政大臣となり、
平家の全盛期を築き上げるが次第に公卿や武士団の中に反感を持つ者も現れ、1180年の以仁王の挙兵にて治承・寿永の乱が始まり日本は戦乱期に入る。
以仁王の挙兵は早い段階で鎮圧されるも、以仁王が全国各地に送った令旨により各地の反平家勢力が決起した。清盛は反乱鎮圧に追われてそのさなかに病没。
東国においては清和源氏の源頼朝が東国武士団を纏めて一大勢力を築き、さらに甲信越では源義仲の快進撃により平家は都を追われた。
義仲が頼朝らにより滅びた後、平家は反撃を伺うも一ノ谷の戦いにより大敗し壇ノ浦の戦いによって平家一門は滅亡、征夷大将軍となった頼朝による鎌倉幕府の時代が始まった。
清盛の一族郎党は概ね滅びたが、清盛の弟である平頼盛は、実母の池禅尼が源頼朝の母方の縁戚である熱田大宮司家と親しい関係だったため、助命された。
※頼朝系は鎌倉時代を参照。平家一門は平安末期(平家) を参照
斎藤実盛
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1111年 | 1183年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 85 | 71 | 56 | 78 | 矍鑠 | 豪傑 | 殿軍 | 血路 | 奮戦 | 斉射 | 大喝 | 三令五申 | 王道 | |||
【サイトウサネモリ】
平安時代末期の武士。
武蔵国幡羅郡長井庄を本拠とし源義朝・義賢兄弟が争った際には義賢の配下で敗死した義賢の遺児・駒王丸(後の木曽義仲)を
密かに信濃の中原兼遠の下へ送り届けた。その後は義朝の配下を経て平家に仕え、治承・寿永の乱でも平家方の将として各地を
転戦したが、篠原の戦いにおいて敗戦の中で孤軍奮闘し木曽義仲配下の手塚光盛に討たれた。
義仲は命の恩人である実盛の死に涙したという。
親愛武将 源義賢 木曽義仲 中原兼遠
妹尾兼康
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1123年 | 1183年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 75 | 88 | 66 | 72 | 51 | 豪傑 | 猛者 | 振興 | 召募 | 奮戦 | 突撃 | 急襲 | 罵声 | 大喝 | 地域振興 | 覇道 | |
【セノオカネヤス】
平安時代末期の武将。
平家譜代の家人で古くから清盛に仕えて保元・平治の乱に従軍した剛勇の士で、鹿ケ谷の陰謀では藤原成親を呵責した。
倶利伽羅峠の戦いの際に捕らえられて一時義仲軍に属したが、自領がある備中にて監視役を殺害して
挙兵し義仲軍と交戦したが戦死した。自領があった備中においては用水路の開発などにも尽力していたという。
伊藤忠清
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 81 | 64 | 48 | 63 | 諌止 | 山戦 | 慎重 | 高慢 | 地勢研究 | 割拠 | ||||||
【イトウタダキヨ】
平安後期の武将。平清盛、平重盛に仕えた御家人。藤原系伊藤氏で藤原秀郷の子孫。
清盛、重盛ら平家に仕え、保元の乱では先陣を務め源為朝と争い、平治の乱では
二条天皇の側近である藤原惟方を捕えた。その後平重盛に従い、比叡山の強訴では
院の防備にあたる。重盛が早逝するとその嫡男維盛に従い、以仁王の乱では源頼政を
討ち取り、血気にはやる維盛、重衡を諌止する。しかし富士川の戦いでは撤退を進言して
清盛の激怒にあった。平家都落ち後は同行せず、本領伊勢伊賀で反乱を起こし源氏を揺さぶり
続け、反乱鎮圧後も逃亡を続けたが、1185年捕えられて刑死した。
親愛武将:平重盛 平維盛 平田家継
藤原景清
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 95 | 46 | 27 | 68 | 豪傑 | 猛者 | 泰然 | 怒髪 | 短慮 | 怪力無比 | 罵声 | 大喝 | 奮戦 | 強襲 | 鋒矢強化 | 我道 |
【フジワラノカゲキヨ】
藤原(伊藤)忠清の七男。平景清とも。
勇猛な平家の侍大将で「悪七兵衛」の異名を持つ。
治承・寿永の乱にて活躍し、屋島の戦いにおいては源氏方である美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎった剛力振りが有名である
乱後は捕らえられて八田知家の邸で絶食し果てたとも、逃れて頼朝暗殺を謀ったとも様々な伝説が残り古典芸能の世界においては景清が登場する作品を「景清物」という。
嫌悪武将 源頼朝
飯富季貞
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 74 | 78 | 84 | 62 | 能吏 | 運搬 | 召募 | 調練 | 詩想 | 駆逐 | 激励 | 運搬開発 | 覇道 | |||
【オブスエサダ】
清和源氏の流れを汲む平家の家人。源季貞とも。
清盛の祐筆として平家の知行国支配に関わり、軍事面においても平家の侍大将として活動し兵站などの
後方支援を行った。壇ノ浦の戦い後に捕縛されてからの去就は不明。
戦国時代の飯富虎昌は末裔という。
親愛武将:平盛澄
田口成良
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 71 | 64 | 78 | 46 | 築城 | 改修 | 調達 | 水戦 | 嚮導 | 駆逐 | 矢嵐 | 業火 | 罵声 | 運搬開発 | 名利 | |
【タグチノシゲヨシ】
平安末期の武士。
阿波・讃岐に勢力を持つ豪族で平清盛に仕えて大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易に従事
する等平氏政権の有力人物として活動、治承・寿永の乱においても平家の主力武将であったが、
子の教能らの一族が屋島の戦いで源氏側に降ったのもあり壇ノ浦の戦いの際に源氏側に寝返った。
その後は裏切りを責められて処刑されたと云われる。
平田家継
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1184年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 75 | 52 | 58 | 51 | 山戦 | 召募 | 奮戦 | 急襲 | 地勢研究 | 覇道 | ||||||
【ヒラタイエツグ】
平家譜代の家人。平家貞の長男。
伊賀国を本拠とし治承・寿永の乱では近江源氏や源行家と交戦、
平家の都落ち後は同行せずに伊賀にて抵抗を続け、1184年に伊藤忠清らと共に三日平氏の乱を起こして
伊賀守護大内惟義の館を襲撃する等の活動を行うも戦死した。
親愛武将 藤原忠清
大庭景親
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 55 | 70 | 36 | 42 | 58 | 動転 | 短慮 | 我道 | |||||||||
【オオバカゲチカ】
平安時代の武将。坂東平氏の末裔の1人。兄に大庭景義。
兄とともに源義朝に仕え、保元の乱では源為朝に兄とともに挑みかかるが、
為朝の強弓に敗れ、負傷した兄景義を助けて退散した。その後源義朝が没落すると
平清盛に仕え、以仁王の乱では足利忠綱らとともにこれを鎮圧する。
源頼朝が挙兵すると石橋山の戦いで10倍の軍勢をもって源頼朝を破るが、当時部下であった
梶原景時の差配で頼朝を取り逃がす。以後破竹の勢いの頼朝軍の前で徐々に孤立。
富士川の戦いで平氏軍が惨敗すると頼朝に降伏するが、許されず刑死した。
武蔵有国
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1183年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 68 | 79 | 42 | 39 | 55 | 殿軍 | 奮戦 | 大喝 | 覇道 | ||||||||
【ムサシアリクニ】
平安時代末期の武士。
平家の家人で桓武平氏の平貞盛の末裔。
篠原の戦いにて三百騎を率いて義仲勢五百騎相手に奮戦、
矢を射尽くし馬を失いながらも多くの敵を討ち取ったが
最後は仁王立ちのまま矢を射られて死亡した。また巴御前に討たれたとも言われる。
末裔は島津氏に仕えた山田氏となる。
原田種直
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1140年 | 1213年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 68 | 72 | 78 | 63 | 動員 | 徴税 | 運搬開発 | 覇道 | ||||||||
【ハラダタネナオ】
平安時代末期~鎌倉時代初期の武士。
藤原純友の乱で鎮圧に活躍した大蔵春実以来、太宰府の防衛を担ってきた一族の長で
平家台頭後は平家の家人となり太宰府における日宋貿易に従事し九州における平家方の
有力武士で平重盛の養女を妻とした。
治承・寿永の乱では平家方で戦うも滅亡により所領没収され、一時は関東に幽閉されたが
後に鎌倉幕府の御家人として筑前国怡土庄の地頭となった。
親愛武将 平重盛
山鹿秀遠
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 75 | 58 | 47 | 56 | 水戦 | 調練 | 駆逐 | 強襲 | 矢嵐 | 水軍育成 | 割拠 | |||||
【ヤマガヒデトオ】
平安時代末期の武士。
九州筑前国の山鹿城を本拠とした武士で平家に属し都落ちして九州に逃れた平家一門を迎えた。
壇ノ浦の戦いでは三百艘の水軍を率いて追討軍に善戦したが敗れて以後没落した。
真鍋助光
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 87 | 72 | 65 | 54 | 遠当て | 水軍 | 弓形陣 | |||||||||
【マナベスケミツ】
平安末期の武将。
淡路国の真鍋島を本拠とした藤原氏の傍流。橘氏の末裔とも。兄、真鍋信貞とともに平家方で参戦。
兄は一の谷、助光は生田の森の砦に配置された。弓の名手であり、生田の森に攻め込んできた河田兄弟を射抜く。
壇ノ浦の戦いでは、中川頼近、大谷国芳、雑兵20余人を討ち取る。
壇ノ浦の戦い後は、真鍋氏当主真鍋清房の子を伴って本拠地真鍋島へ逃げ、伊予に落ち延びる。真鍋水軍の真鍋貞友は助光の末裔。
真鍋清房
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 不明 | 1184(討死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 86 | 54 | 62 | 73 | 82 | 教養人 | 殿軍 | 突撃 | 騎馬突撃 | 一蓮托生 | 死兵 | ||||||
【マナベキヨフサ】
平安末期の武将。
平清盛の八男。淡路守。淡路の名門真鍋氏の養子となる。都落ちの際には、安徳天皇の八将となる。
一ノ谷の戦いでは、生田の森の守将となり、無勢に多勢ながらも、一族の奮闘と、清房の采配で、源範頼軍を足止めさせる。しかし、力攻めされることにより、陣を破られ、従兄弟の平経俊、義弟の平清貞とともに3騎で突撃した。
足利俊綱
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 56 | 58 | 48 | 63 | 56 | 短慮 | 墨守研究 | 名利 | |||||||||
【アシカガトシツナ】
平安時代末期の武士。
藤原秀郷の末裔で下野足利荘を本拠とした藤姓足利氏の当主。
足利荘を巡り新田義重や源姓足利氏の足利義兼と折り合いが悪く、
治承・寿永の乱では頼朝に抵抗したが追討を受けた末に郎党に殺害された。
嫌悪武将 新田義重 足利義康 足利義兼
足利忠綱
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 76 | 41 | 44 | 58 | 果敢 | 督励 | 功名 | 突撃 | 鋒矢強化 | 我道 | ||||||
【アシカガタダツナ】
平安時代末期の武士。
藤姓足利氏の出身で足利俊綱の子。
以仁王の乱において平家方に加わり宇治川の戦いでは宇治川を迂回する
平家方の方針に反対して宇治川の急流を馬で渡る勇猛さを見せ名を挙げた。
頼朝挙兵後は反頼朝側として志田義広に味方して野木宮合戦を戦うも敗れ、以降は西国に逃走して平家に合流したとも頼朝に従属したともいわれる。
平信兼
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 75 | 71 | 64 | 60 | 62 | 山戦 | 法律 | 奮戦 | 足止 | 鉄壁 | 地域巡回 | 王道 | |||||
【タイラノノブカネ】
平安時代末期の武士。
桓武平氏大掾氏流で伊勢国鈴鹿郡関を本拠とした為、関信兼、大掾信兼とも。
平清盛に従い各地の国司や検非違使を務め、頼朝挙兵の際に討たれた山木兼隆
は実子であるが挙兵の数年前には兼隆を訴えでて伊豆に流している。
頼朝挙兵後は平家方の武将として活動し、平田盛継や藤原忠清と共に
伊勢において抵抗を続けたが源義経の追討を受けて激戦の末に戦死した。
中原知親
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 19 | 18 | 59 | 48 | 41 | 学者 | 徴税 | 粗忽 | 太学 | 割拠 | |||||||
【ナカハラノトモチカ】
平安時代末期の公卿、学者。
官位は従五位下左衛門少尉等を務め、学者として高名で文筆に秀でて藤原忠通らに仕えた。
平安末期に伊豆国南部の蒲屋御厨の目代となるが、源頼朝が挙兵して知親とは縁戚にあった
山木兼隆が討たれた際、頼朝により蒲屋御厨での民衆に対する非道により所領を没収された。