Mの増殖/来訪者たち
悪い夢を見ているようだと、思った。
俺が現実だと思っていた世界は偽りの世界で。
現実の俺は、培養液に浸った惨めな姿で眠りについている。
そんな悪い夢。
けれど、どちらの俺が本当の俺なのか。
それすらもわからなくなって。
夢が現実なのか、現実が夢なのか。
全てが偽物に思えてしまった。
そんな世界なら、いっその事。
なにもかも壊れて無くなってしまえばいいと、俺は思っていた。
俺の名は、双葉娘太郎。
職業は探偵。元々、眠都《ミント》の住民ではなく、単に飯の種になりそうなトラブルが多いこの街に流れ着いただけの風来坊だ。
周囲からは、いつも寝ていると思われがちだが、それは大きな間違いで、別に眠っているわけじゃない。
眠る街、眠都のもうひとつの顔、電脳空間《サイバースペース》に没入しているときは、他人から見れば眠っているようにしか見えないからだ。
俺の場合、それが頻繁なだけなのだが。
残念ながら、あんまり信じてもらえてないけどな。
事務所の名は、曙探偵事務所という。
所長だった奴は既に鬼籍に入っているので、目下のところ俺、双葉娘太郎が所長代行として営業しているところだ。俺のビジネスの相棒、アリップ(仮名・本名不詳)は、コンピュータに関する知識は皆無な為、電脳空間にあるオフィスは、俺一人で営業している状態だった。
とはいえ、自分で言うのもなんだが、このオフィスに依頼人が訪れる事は稀だ。
なにしろ宣伝らしい宣伝もしてなければ、口コミで噂が広まることもない。
依頼人は月に2、3人程度。
しかしまぁ、俺はそれでいいと思っている。
それは世の中が平和な証。
こんな場末の寂れた探偵屋に依頼をしなければならない程、どうしようもなく追い詰められた依頼人は、少ないに越した事は無いだろう。
そうして、今日も暇を持て余していたところへアイツはやってきた。
「曙探偵事務所は、ここでいいのかしら?」
鈴の鳴るような澄み切った少女の声。
それは、このオフィスには最も相応しくない声でもあった。
目線を上げ、ここは子供の来るところじゃねぇ、と言いかけた俺の口から、しかしその言葉が出る事はなく。
10歳くらいのゴスロリ少女が、俺の目の前に立っていたのだ。
なにせ、こちらは裏社会どころか深淵にまで浸りきった身である。
どんな強面が訪れたところで怯むどころか、大歓迎、手厚く迎撃…もとい出迎えるところなのだが、ゴスロリ少女。これほど俺の日常から懸け離れたものもなかった。
そう考えれば、一瞬だけ呆けてしまったのも無理はないだろう?
金髪碧眼、ピンクのドレス。これ以上の描写は控える。だって俺そういう趣味ないもんな。
逆に言えば、そういう趣味を持つ輩には、心を奪われるであろう、そんな少女が俺の前にいた。
「きったないところねー。あーやだやだ」
言ってる事は最悪だが、それすらも眩惑させる天使の声。
なんだこれは。どんな精神攻撃だ。
「お嬢ちゃん、うちに何か用か…ぶっ!?」
それでも平然と受け答えることができたのは、しがないプロ根性の成せる業だろう。
途中で顔面に何かを叩きつけられて、最後まで言う事はできなかったのだが。
叩きつけられたのは、少女の履いていた靴だった。ナイスコントロールすぎる。
「このガキ!何しやがる!?」
「いえ、なんとなく?」
「なんとなくかよ!」
首をかしげて、ちょっと考える仕草とか、いちいち可愛らしい。でもそんな趣味ないけどな!
「まぁいいさ。用がないなら帰れ」
「用がなかったら、こんな所には来ないわ」
そういうが早いか、少女はつかつかと俺の前まで足早に近づいてきた。
そして俺の手から靴をひったくると、びしっと、俺の鼻先に向けてこう言った。
「あなたが、ふたばにゃんたろー?」
「そうだが」
「時代遅れの冴えない探偵さん。今すぐに、ここを引き払ってちょうだい」
「はい?」
にこーっと笑いながら恐ろしい事を言い切った、小悪魔のような天使はなんと、ここの大家だった。
少女の名は、柊りおんと言った。
俺が知らないのも当然のことだった。彼女はつい先日、ここの大家になったばかりだという。
訳あって前の大家から、この物件を譲り受けた際に、ここの探偵事務所の様子を見に立ち寄ってみたらしい。
「なによこれ。まったく仕事してないじゃない」
書類に眼を通しながら、呆れた口調でりよんはつぶやいた。
「宣伝らしい宣伝もしてないし。毎日ここで日向ぼっこしにきてるのかしら」
いやまぁ、言い訳のしようもなかった。する気もなかったが。
「ねえ、生きてて楽しい?ぐうたら過ごす奴はそれだけで犯罪よ?」
10歳の少女に罵られる俺。やばい趣味に目覚めそうな気がする。
「家賃はちゃんと納めている。問題ないだろう」
「問題ない、ですって?お金さえ払えば問題ないっての?んな訳あるかーい!」
だんっ!と机を叩きつける10歳児。
要するに、ここで毎日暇を持て余しているのが気に入らないらしい。
だが、家賃を払っている以上、そこまで言われる筋合いはない。
俺はだんまりを決め込むことにした。
相手は子供だし、反論するのも大人気ない。
そのうち諦めるだろう。俺はそう思っていた。
だが、何かが俺に引っかかった。
それが何なのか考えているうちに、俺は「あっ」と声に出していた。
「…柊、だって?」
思い出した。柊。
今、こいつは柊りおんと名乗っていた。
それは、つまり――。
「ええ。柊啓十郎は私の身内よ」
柊啓十郎。ここ曙探偵事務所の初代所長であり、俺の最初の相棒だった男。
そして一年前のあの夜。俺にアリップと悪夢の記憶を託して逝った男でもある。
柊啓十郎とは、それなりに長い付き合いだったのだが。
「マジかよ…。あいつに妹がいるなんて聞いたことがねぇ」
「所詮、その程度の付き合いだったってことでしょ。それよりも…」
まだ言い足りないのか、先程の話題に戻そうとしたので、さすがに俺はそれを押し留めた。
「家賃を納めている限り、このオフィスは俺のものだ。余計な口出しはしないでくれ」
ふわり、とスカートが捲れあがったかと思った次の瞬間。
いきなり蹴られていた。
てか、どんなサービスシーンだ。
「何しやがる!?」
「口を出さずに脚を出してみたわ」
いや確かに、ちょっと言葉にするのも抵抗のあるくらい見えてたけど。
何が?
脚が。
脚かよ。
「いい大人なんだからさ。仕事しなよ」
子供にしみじみと言われると、キツイ台詞だなぁ。
「依頼がないんだから仕方ないだろ」
「うわ、開き直るのね?自分の無能さを棚にあげて開き直るのね?」
「誰が無能だ」
「仕事のできない男なんて不能でしかないじゃない」
「不能とか言うな!?」
それ全国の男性諸君にとっては禁句だろ。
ていうか、そんな単語をどこで覚えた10歳児。
「あの…」
「とにかく!ぶらぶらしてるだけなら、出て行ってもらうんだから!」
「まぁ落ち着きなって」
「あんたは落ち着きすぎてんのよ!」
「あのぅ…」
「そうだ、飴でも舐めるか?」
「子ども扱いするなぁ!!」
お互い一歩も譲らないのはいいのだが、だんだん会話のレベルが低下してきている気がする。
「わかったわかった!依頼を捜してくればいいんだろう?」
「はっ!今から捜してそう簡単に見つかると思っているの?バッカじゃないの?」
鼻で笑われてしまった。
「あのですね…」
さっきから妙な横槍が入ってきて、このガキをどう追い返すか、まったく考えが纏まらなかった。
それは、りおんも同じだったらしく、俺たちは同時に怒鳴っていた。
「うるせえよ!」
「うるさいわよ!」
「ひ…っ!」
顔を上げたその先には、見知らぬ中年の女性が、脅えた様子で俺たちの前にいた。
「あ、あの…お願いしたいことがあってきたんですけど…」
知らない間に依頼人らしき女性がやってきていた。
てか10歳児との口論に夢中になって来客にも気付かない探偵ってのもどうかと思った。
気まずい。ものすごく空気が思かった。
「あらあら☆いらっしゃいませぇ♪曙探偵事務所にようこそ!」
俺が固まっている間に、りおんはいつの間にか女性客の真横に瞬間移動していた。
まるで子供が母親に甘えるかのように、その腕に纏わりついている。…逃がさないように確保したということか。
あれだけの剣幕で怒鳴った直後にこれか。すげえな10歳児。