「虹夏さん。それ本当に言ってるんですか?」
「うん。本気。喜多ちゃん私と別れてください」
ガヤガヤしたファミレスの雰囲気とは違い、テーブルを挟んで私の向かいに座るしかめっ面をした赤い髪の女性。
私の恋人の喜多郁代ちゃんだ。
「私のどこがダメでした?」
「喜多ちゃんはいい人だったよ。でも,いい人過ぎたかな」
もっとも,今は別れ話の最中。
数時間もしたら元恋人になる可能性が高い。
喜多ちゃんとは高校生のときに組んだ4人組のバンドで出会った。
私がドラムで喜多ちゃんがボーカル兼ギター。
残りの2人が,積極的に話すタイプではなかったから自然と喜多ちゃんとの会話は増え,会話が増えるに連れひたむきな明るさに惹かれていった。
そんな私たちの出会いであったバンドは約8年の活動を経てこの間解散した。メジャーデビューも果たしたがトップレベルにはのし上がれなかった。
私とメンバーの1人が25歳,喜多ちゃんともう1人のメンバーが24歳。
これ以上活動を続けても成長は見えないこと,転職するなら年齢としては今が最後のチャンスなのだろうとみんなで決めて解散した。
「いい人過ぎたって何ですか? 性格が悪いとかで振られる方がマシです。バンドが解散して会う時間も減って私にも飽きちゃいましたか?」
喜多ちゃんはいい人だった。
友達のようないい距離感で,元々優しい喜多ちゃんは特に私に優しくて。
でもその優しさが辛いときもあった。バンド解散前の私はとにかくメンタルが不安定で,それでも隣にずっといてくれた。慰めてくれた。
それが返って辛いと感じてしまった。
これからそれぞれの道を歩む中できっと私はまたメンタルが安定しないときが来ると思う。
そのとき今回のようにずっと隣に寄り添ってもらうのがものすごく申し訳なく思った。
『虹夏さんがドラムをしているときが1番好きです!』
なんて言ってくれてたけど,バンドが解散すれば今までのように日常的にドラムを叩くことはない。
喜多ちゃんにとっての1番好きな私じゃなくなってしまうのも怖い。
バンドが解散する前は,プライベートでも,仕事としても,もちろんほぼ毎日顔を合わせていたけど,解散してからはお互い転職活動で時間がなかったのは本当。
私たちが出会ってから1番会わない期間だったのではないか。
喜多ちゃんはバンド関係でもそれ以外でも交友関係がとにかく広い。
喜多ちゃんにとって1番好きな私じゃなくなること、お互い今までと別の道へと進むこと、喜多ちゃんの交友関係が広いこと。
きっとこれから喜多ちゃんは私よりももっともっといい人を見つけられるだろう。
「そんなことないよ。喜多ちゃんのことは好き。でも私よりもっといい人がこれから見つかると思うんだ」
「それならなんで!好きならなんで…。好き同士なのになんで別れないといけないんですか?…私のためにいろいろ考えてくれているのはわかります…優しすぎるのは虹夏さんの方じゃないですか」
喜多ちゃんが一瞬声を荒げたが次は目に涙を浮かべている。
「虹夏さん。好きです。大好きです。それでも別れないとダメですか?」
「うん」
*
お互い好き同士だったけど,これからを考えて別れを告げた。
『6年間付き合えて楽しかったです。ありがとうございました』
嫌々と言っていた喜多ちゃんに負けじと私も考えを曲げなかった。
結局最後は喜多ちゃんが折れた。
泣き腫らした顔で最後に私に笑って見せた。
それでも繋いだ右手は名残惜しそうにしばらく離してくれなかった。
「…ああ。またあの日の夢」
そんな別れた日の最後の時間を何度も何度も夢に見る。
今,私はお姉ちゃんの伝手を辿りライブハウスの経営に携わっている。
お姉ちゃんはSTARRYで働けばいいと言ってくれたけど、バンドのこと、喜多ちゃんのことを思い出すのが辛くて断った結果だ。
喜多ちゃんを含めメンバーとは今も連絡は取るしSNSも繋がっているからある程度近況を知ることはできている。
でも解散してから約1年、みんな忙しいのか会うことはできていない。
案外みんな音楽とは離れた一般社会に溶け込んでいるように見える。
特別変わりはなさそうだ。
喜多ちゃんと別れる前に同棲していたアパートに私は残った。元々一人暮らししていた私のところに喜多ちゃんが転がり込んできてたし、今の職場からはちょうどいい距離に合ったから。
『虹夏さん。やっと起きましたね。今日は遠出のデートって言ってたじゃないですか』
夢に見たり、たまに喜多ちゃんの幻影が見えるのも思い出の詰まったここが原因なのかもしれない。
さすがに夢や幻影を見る頻度が高過ぎて引っ越しを考えている面もある。
「まだ見慣れないな」
毎朝鏡で自分を見るたびに思う。
喜多ちゃんと別れてから決別の意味としてベタだけど髪の毛をショートにした。
『虹夏さんの髪の毛、結構長いですよね。今度ポニーテールしてみましょうよ』
ショートだから月一くらいで美容室に行くけど新たにショートになるたびに思う。我ながらいい加減見慣れてほしい。
SNSの写真で知ったけどたまたまなのか喜多ちゃんもショートヘアになっていた。
付き合っていた頃は喜多ちゃんの髪の毛をいろいろな方法で結ぶのが楽しかったのにな。
別れてから1番悲しかったのは喜多ちゃんが私を呼ぶ時に虹夏さんから付き合う前の伊地知先輩に戻ったことだったな。
今日は仕事関係であったちょっといい感じになった人とご飯を食べに行く予定。
お酒も飲む予定で電車だ。
喜多ちゃんと別れて以降、新しい生活に馴染むので精一杯で色恋には目が向けられていなかったし喜多ちゃんと付き合っていた期間も長かったから久しぶりのトキメキがあるといいけど。
*
なんか違ったな。
今日ご飯食べに行った人、悪い人ではないんだけどなんか気が利かない。喜多ちゃんなら皆まで言わずとも割と初めの方からいろいろと気を回してくれたのに。
2件目に誘われたけど断って思いの外早く1人になったからまだ帰宅せずふらふらと歩き回る。
「いけない。また喜多ちゃんのこと」
気を抜くとすぐに喜多ちゃんと比較してしまう。
「…それだけ好きだったんだな」
別にお互い歪み合って別れたわけじゃない。
私が勝手に将来のことを考えてお互い好き同士なのに無理矢理別れた。
ふと見かけた居酒屋に吸い込まれるように入って行く。
1人だと告げるとカウンターに通された。
いい感じに酔いも回ってきたところで居酒屋には人が増えて来た。
「お姉さん1人?」
ふとすると右隣に座る同い年くらいの男性に声をかけられた。
「はあ」
不意に声をかけられたから中途半端な返事になる。
「それなら一緒に飲もうよ」
1人で飲んでるとはいえ、男待ちをしているわけではないのだけど。
「いえ。1人がいいんです」
「そんなこと言わないで」
しばらく押し問答を続ける。
「あの!」
そろそろしつこいと怒ろうとした。
「伊地知先輩じゃないですか」
私の左隣から聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「喜多ちゃん」
喜多ちゃんだ。別れて以降初めて会う。
伝票を持っているからたまたま同じ店の奥にいたと思われる。
レジに行く途中でこのカウンターの側を通ったのだろう。
「あなた誰ですか?伊地知先輩の知り合いですか?」
怪訝な顔をしながら男性にそう問いかける。
6年も付き合っていた私達は双方の家族はもちろん、おおよその友達関係はお互い把握していた。
「いや、今ここで知り合って」
男性がそう答えると喜多ちゃんが私の方を見る。
「先輩にこんな男の人は合いませんよ。行きましょう。伊地知先輩」
目線で助けてと伝えたのが伝わったようだ。
喜多ちゃんは私の伝票を自分のと合わせて持つと伝票を持っていない手で私の腕を引っ張る。
そのままレジに行き、流れで喜多ちゃんが私の分も支払ってくれた。
「あの、喜多ちゃんありがとう。お金返すね」
店の外に出てから財布を探すために鞄を探る。
「別にいいですよ。伊地知先輩が無事だったならお金は要りません」
「そっか。ありがとう」
素直にお礼を言うと嬉しそうに笑う。
「先輩これから駅に行きますか?」
「うん。もう帰るから。喜多ちゃんは?」
「…私も駅に行きます。また先輩が変な人に絡まれたら困りますから」
「え?そうなの?誰かと一緒に来てたんじゃないの?」
奥から出て来たからてっきりテーブル席で団体で来てたかと思ってたけど。
「いいんですよ。会社の集まりでどのみちこの後解散予定でしたし。私は幹事だったのでお酒飲んでないですし先輩と駅までご一緒しますよ。それに…あの人たちよりも先輩の方が大切ですから」
「え?何?」
後半になるにつれてゴニョゴニョと言っていたのを聞き取れなかった。
「とにかく。私も帰るので駅まで行きます」
*
さっきは助けてもらったからそれで会話が少しあったけど。
「「…」」
今は終始無言で2人で駅まで歩いて向かう。
それでも気まずい感じがないのは相手が喜多ちゃんだからだろう。
「元気だった?今の会社は楽しい?」
「はい。程々に。慣れるのは時間かかりましたけど」
「どんな会社なの?」
「アパレル系ですね」
オシャレな喜多ちゃんらしい。
「伊地知先輩は今何やってるんですか?」
「ライブハウスの経営してるよ」
「てことはSTARRYで働いてるんですか?」
「ううん。違うよ」
「そうなんですか。店長のところで働く方がいろいろうまくいきそうですけど」
「まあ慣れてるからね。でもやっぱり青春が詰まった場所で挫折した後に働くのはちょっと、ね」
「それは…そうですね。ところで髪の毛切ったんですね」
私は喜多ちゃんがショートにしたのをSNSで知ってたけど私は自分の顔をSNSには載せないので直接会わないとわからない。
「そうだよ。似合うかな?」
「すごくかわいいです」
「喜多ちゃんもショート似合ってるよ」
「ありがとうございます。…髪型変えたのって新しい彼氏の好みですか?」
「彼氏?いないよ。ただの気分転換。…喜多ちゃんは?彼氏できた?」
喜多ちゃんが立ち止まり、私も2歩くらい先を歩いてから止まる。
「…できるわけないじゃないですか。私はまだ伊地知先輩のことが好きなんですから。他の人のことは考えられません」
「…そう、なんだ」
「誰ですか?環境が変われば伊地知先輩よりいい人が見つかるとか言ったのは。いい人全然いないじゃないですか。…どこに行っても楽しい思い出を思い出します。…まだ好きです。伊地知先輩以上にいい人はいません。やり直せないですか?」
「…っ」
「世間体とか私のためを思ってとかはやめてください。伊地知先輩は私のことどう思ってますか?」
「今でも別れた日のことを夢に見る。家の中でも外でも喜多ちゃんならこうしてたなとか考えちゃう。忘れられない。やっぱり好き。他の人のところに行って欲しくない」
「そうですか。そう聞けてよかったです。伊地知先輩私と付き合ってください」
あの日離れた手と同じ右手を真っ直ぐ出される。
「私でいいの?理不尽な振り方したのに」
「お互い好きならそれでいいんです。次は絶対離れませんからね」
私は右手を握り返す。
「またよろしくお願いしますね。虹夏さん」