オークスが終わってから数日後。私は夏の阿寒湖特別、ひいてはその先の神戸新聞杯、菊花賞に向けて、トレーニングに励んでいた。
今日のトレーニングは併走。その相手は、
「ほぉら、もっと気張りやー。あ、ごめんねえ、もしかして重賞出たなかったん?」
「この腹黒──ッ!!」
今まさに、私のことをつつきまわして追いかけ回してくるコイツ。今年のオークスウマ娘。スピードラビットその人だった。
すぐにでも抜けるぞ、今にも抜くぞ、だからもっと早く走れ走れ。そんなふうに煽られ、煽りだとわかっているのに足を早く動かしてしまう。今日の併走の目的は、こういったデバフ戦術への対策を練ることなのだが。どうにも私は煽り耐性が低いらしく、スピードラビットの煽り運転の影響を強く受けてしまう。
あのオークスで理解した。私はまだG1レースに出れる器ではない。それは単純なスペック、身体能力的なものでもそうなのだが、それ以上にレースの戦術が甘すぎる。クラシック級であそこまでできるのは珍しいと、ハゲはそんなふうに褒めていたものの、そういう存在が同世代にいる以上、対策は必要不可欠だ。G1を目指すのだから、いつかはぶつかることもあるだろうし。
阿寒湖特別は2勝クラス、オークスのスピードラビット級のエグい戦術を使ってくるウマ娘は少ないだろう。しかし、その先に待っているのは神戸新聞杯。重賞だ。スピードラビットができるのだから、他のウマ娘を甘く見ることはできない。甘く見て惨敗、なんて冗談じゃない。
そういう背景もあり、私とハゲでデバフ対策をする方針を決めたのがオークス直後。対策のための合同トレーニングを提案されたのが昨日で、相手がスピードラビットその人であると知ったのは今日のトレーニング直前だった。相変わらず連絡が遅い!
「集中切らしてええの?」
余計なことに思考能力を使ってしまった私の耳に、スピードラビットの嘲笑が差し込まれる。背筋に悪寒が走り、自然と足を早めてしまう。ああっ、クソッ! またやってしまった!
後ろから呆れ果てるような気配。併走トレーニングとは言え、今日は私達が依頼した形だとハゲが言っていた。デバフ対策のために、徹底的に追い立てる形で頼む、と。そのため、スピードラビットが私を抜くことはないとわかっている。わかっているのだが、こうして後ろから煽られるとつい乗ってしまう。
結局、その回の併走では、全く自分のペースで走ることができず。最終直線の時点でスタミナが完全に枯渇しており、ゴールした直後にターフに倒れ込むことになった。ゲー。
身動き一つとれないほどに疲れ果てた私に、スピードラビットが近づいてくる。その表情はやっぱり呆れ果てたもので、私は自分の煽り耐性の低さを痛感させられる。いやでも仕方ないじゃん! あんなに煽られて冷静でいられるほうがおかしいんだって!
「何言うてんの。あないな煽り、G1ウマ娘は何の反応もせえへんよ?」
「嘘でしょ」
マジで? G1ウマ娘あの煽りに耐えられんの? こっわ。G1こっわ。メンタル強者ばっかかよ。
「せやから、色ぉんなやり方を勉強しておくとええよ。レースのルールもちゃあんとお勉強しとき。ギリギリを攻められるようになる」
「……うっす」
一応同世代の相手だというのに、しっかりとしたアドバイスをしてくれる。それは私をライバルとして見なしてすらいないからだろうか。実際、私はG1に出られていないし、未だに彼女に一度も勝っていないのだから、見られてなくても仕方ないことだが。
くそう、絶対にやり返してやるからな。絶対に背中を見せて、この悔しさを味わわせてやるからな。
現時点の力の差、立ち位置の差に歯噛みしていると、スピードラビットが隣りに座ってきた。どうやら彼女も休憩するらしい。
「なあ、ワットハイアちゃん」
「なんですか、先輩」
未だに座り直すこともできず、寝そべって空を見上げたままの体勢で、雑にスピードラビットに返事をする。彼女も別にこちらを見ているわけではないようだし、そこまで礼儀にうるさいわけでもなさそうだ。気にせず続きを促す。
「アタシ、トリプルティアラが欲しかったんよ」
「はあ……そういやそんなこと言ってましたね」
あれは確か、桜花賞が終わってしばらくした日のことだった。自主トレを終えかけたところで、この人を見かけた。やたらと落ち込んでいる様子だったから、ハゲにどうにかしろって頼んだんだっけ。そしたら併走することになって、なんか気がついたら立ち直ってたけど。
「でも実は、欲しかったのはトリプルティアラじゃなかった」
「…………? はあ、そうなんですね」
よくわからない。トリプルティアラが欲しかったけど、欲しくなかった? というかなんだこの話。なんで私に聞かせてるんだ、この人。
理解できないまま、視線をスピードラビットに向ける。彼女もまた、視線をこちらに動かしている。なんとなく目がある。いやまあ、この人は糸目だから、なんとなく「目があった」気がするだけなんだけど。
ただなんとなく、その視線に若干の感謝が込められているように感じる。その感情に、心当たりはまったくない。なんかしたっけ、私。
「アタシが欲しかったものは、実はもう手に入ってた。それを気づかせてくれたんは、ワットハイアちゃんなんよ。だから、ありがとうねえ」
その言葉にも心当たりなんてない。強いて言えば併走トレーニングのときに泣きながら抱きつかれたことだが、アレだってなんでされたか知らない。
なので、言える言葉なんて、
「そりゃ、どうも」
くらいなもの。心当たりのないことに感謝されたところで、実感がないのだから受け止められない。受け流すような言葉になってしまうのも仕方がないことだろう。私悪くない。
怪訝そうな私を見て、少しだけ笑うスピードラビット。伝わってなくても構わない、ただ自己満足のために感謝したんだ、とでも言うかのような態度。少しだけ腹が立つも、あまりにも笑顔が穏やかだったせいで、毒気が抜かれてしまった。行き場のない感情だけ残しやがって。後でレスバとスレ爆破で発散しよう。最近どうにも、私のスレが立ったりすることがあるしちょうどいい。
「さ、休憩おしまい。ほら、早く立ちー。またいっぱい、追いかけ回したるさかい」
「ゲー?! も、もうちょい休みを! ギブミー休み!」
「あきまへん。G1、出るんやろ?」
ほらほら、なんて言いながら、スピードラビットは私の手を取って無理矢理に立たせる。疲れはわずかに抜けたものの、まだ足が重いというのに。なんてスパルタだ! ハゲ助けろ!
視線をハゲに向けてみれば、こちらを全く見ないでウマホをいじっている。どう見てもあにまん見てるだろアレ。後で絶対しばいてやる……!
「ぐぬぬ……先輩、なんでこんなに熱心なんですか! ありがたいですけど、何か私より熱心じゃないですか?!」
「え、そんなん決まっとるやん」
ハゲやキツいトレーニングに対する鬱憤を含めて、スピードラビットに疑問を投げつける。その疑問を聞いた彼女は、なんとも不思議そうな顔。私が理由をわかっていないことに、それこそ理解できないのが不思議だ、なんて言いたげ。
「アタシが、ワットハイアちゃんと走りたいから。理由なんてそんだけ」
「…………はあ?」
そして返された理由に、今度は私のほうが混乱する。え、スピードラビットが私と走りたい? なんで? 私はまだプレオープンのウマ娘で、スピードラビットはG1ウマ娘だ。それもティアラ路線の樫の女王。そんな相手が、認めたくないけれど、格下の私となんで走りたがる?
「だから、ワットハイアちゃんには──ハイアちゃんには、早く強くなってもらわんと」
こんな併走トレーニングの場ではなく、ちゃんとしたレースで。できればG1レースで。私とぶつかり合うことを、心の底から楽しみにしているような、そんな表情のスピードラビット。
私のことを、勝手に愛称で呼び始めたりして。でも、本当に、私とのレースを心待ちにしているようだったから、否定する気にもならない。
「G1で待っとるさかい、あんま待たせんといてな?」
未来のレースを夢見るように、スピードラビットはこちらを誘う。早く、早く、なんて言いたげに。その楽しそうな笑顔に、何かを言うこともできなくなる。仕方ないな、なんて気持ちで、目標の先輩の手に引かれるまま、私はまた走り出した。
結局の所、その未来のG1レースが実現されるのは、一年以上先のことになってしまうのだけれど。それはまた別の話。ともかく、この話はこれでおしまいだ。
若駒ステークスから今に至るまで、先輩にもきっと色々とあったのだろうと思うが、それを深く聞くつもりはない。先輩は先輩で色々とあったのだろうし、顔を見ればハッピーエンドだったのだろうと思える。ならば、それで良いのだと思っておこう。
後日談というか、今回のオチ。
年末に開催されるG2、ステイヤーズステークス。あの後から色々なことがあり、重賞レースに出走できるようになった私は、来春にある天皇賞・春を見据え、超長距離レースの感覚を掴むべく、このレースに出走を決めていた。
そして、今いる場所はその地下バ道。その場所で、
「……………………」
「……………………」
めちゃくちゃ気まずい沈黙が漂っていた。そりゃもう気まずい。半端なく気まずい。なんでって、そりゃあ、
「……あの、パイセン」
「……なに、後輩」
目の前にいるのは、あの日ああしてG1レースでの勝負を約束したスピードラビット。相手もなんとも気まずそうで、なんとも居心地悪そうで。
いやだってそりゃそうだろう。
「『G1で待っとるさかい、あんま待たせんといてな?』」
私がそう言うと、先輩がビクッと震える。冷や汗が浮かんでいるのが見える。ダラダラ。やっべー、やっちまったー、みたいな気持ちを抱いているようにしか見えない。
「…………あの、パイセン」
「…………なに、後輩」
「カッコつけといてG2でぶつかってんですけど何やってんスか芝3600メートルなんスけどステイヤーズステークスだけに」
「うっさいわ!」
私のツッコミに耐えられなくなったのか、顔を真っ赤にしつつギャースカ叫ぶ先輩。うわあ。チャンスじゃん。煽ってやろ。
「いやあ残念だなあ! 私もいつかG1に出て、先輩と競い合って、今度は私が先着してやろうと思ってたんだけどなあー! G2でやっちゃうことになるとはなあー!!」
「はあー?! アタシにまだ一度も勝ったことのない後輩が随分な口やねえ! そういうのは実力身につけてから言いなはれ!」
「言いやがったな……! 言っちゃあならねえことを……!」
「売り言葉に買い言葉って言葉をご存知ないようどす。辞書、買うてあげましょか?」
「──ぶっ潰す」
「──やってみなはれ」
散々な言い合いをして、お互いをにらみ合う。まったく、どうしてこの先輩とはこの距離感になってしまうのだろう。これからのことも思い、見えないように苦笑い。先輩の方からも似たような音が聞こえてきたし、きっと同じようなことを考えたのだろう。
さあ、レースの時間だ。今度こそ、この先輩を下して、私こそが一着を獲ってやることにしよう。
『ゴール! 最初に駆け抜けてきたのは──!』
「ぐえ」
「んげ」
なお。そのレースはお互いを意識しすぎた結果、二人揃って負けるという、なんとも締まらない決着をしたことを追記しておく。
めでたし、めでたし。いやめでたくねえよ。