ワイちゃん、神戸新聞杯に挑むってよ 前編

Last-modified: 2023-06-02 (金) 21:54:14

 野球観戦が、大好きだった。

 チームメンバー全員で協力して、一心不乱に勝利を追い求めるその姿に。勝ったときに一緒に喜び合う選手たちに。どうしようもなく憧れた。私もいつか、ああいうふうに、必死に何かを追い求めたいと思ったものだ。
 だからか、トレセン学園に入学することになったとしても、あまり熱意があったわけではない。地元のウマ娘野球チームにでも参加していたほうが幸せだったと思っている。

 とはいえ、トレセン学園は名門だ。たとえ未勝利でも、あるいはプレオープンで少し勝てるだけでも、その後の人生に有利に働くかもしれない。ほどほどに走って、そこそこの結果が残せれば、それはそれで良いかもしれない。そんな打算ともに、私はトレセン学園で走り始めた。

 ワットハイアと初めてちゃんと話したのは、なんてことのない模擬レースのあとだったと思う。別になんてことのない出来事で、そもそも同じクラスだから顔見知りだったから、本当にその時かはわからないけれど。

「ふぅーっ……」

 芝の1800メートル。いつものように逃げ、しかし最終直線で差されて1/2差の2着。トレセン学園に入ってからはこんな成績が続いている。まあこの場所でこれだけの成績が出せているなら、私も「そこそこ」だろう。まさか重賞が取れるなんて夢を見ているわけでもないが、オープンに上がるくらいなら行けるんじゃないかな、なんて希望を抱いていた。
 とまあ、負けたことを忘れて、そんなふうに考えていたからこそ、その姿を見た時、つい興味を惹かれてしまったのだ。

「くそっ……くそっ……! なんで、こんな……くそっ!」

 口汚く罵りながら、歯ぎしりの音がこちらに届きそうなほどに歯を食いしばっているウマ娘。たしか、そのときは1バ身差の三着のウマ娘。確か差しで走っていたけれど、ゴールまでに届かなかった子だ。あと100メートルほど距離があればわからなかったが、その場合は四着のウマ娘が勝っていたかも。
 そんなふうに思えるほどに、実力としては拮抗していた。あとちょっと何かがあれば、私か、この子か、あるいは別の子かが勝っていた。絶対的な実力差などなく、展開とか運とかが、今回一着の子に微笑んだだけ。だからこそ私はそこまで悔しく感じていないし、先程のようにオープンには上がれるんじゃないかな、くらいに思っていた。

 それなのに、その子は。ワットハイアは、そんなことは知らないと、負けたことが全てだと、そしてそれが「理解できない」と、嘆いていた。

「ねえ」
「……なに」

 その姿に、何故だかわからないけれど、妙に惹かれてしまって。気がつけば私は、ワットハイアに話しかけていた。返ってきた反応が、あまりにもトゲトゲしかったから、つい気圧されてしまう。
 とはいえ、別に殺されるわけでもない。応援していた野球チームが試合で負けたあと、ブチギレている野球ファンと同じようなものだろう。……あれ、関わらないで放置するのが良いやつだなこれ。

 話しかけてしまった以上、今更「やっぱなんでもない」は無理がある。失敗したかなー、という気持ちを覚えつつも、気になっていることを聞いてみることにした。

「あー、いや、レースお疲れ、ってさ。同じクラスでしょ」
「ああ、うん……お疲れ。それだけ?」

 うわあ、あからさまに話を切り上げたそうだなこの子。さっきの様子を見ればわからなくもないけれど。とはいえ、先程の雰囲気が気になっている。悪い内容のレースではなかっただろうに、なんでこの子はあんな様子だったのだろう。そのあたりを知りたいし、感想の交換くらいしてもいいだろうと思う。
 なので、

「やー、いいレースだったからさ。感想戦? みたいなのしたいな、って……」
「『いいレース』?」

 気軽に発した言葉への反応に、ぞくり、と背筋に寒気が走る。オウム返しされたその言葉が、じっとりとした湿度と、ねっとりとした粘度を伴っていて、明らかに地雷を踏みぬいたことを自覚する。
 暗い情念が垣間見えるような、そんな視線で射抜かれて、体が萎縮する。失敗したことを自覚して、撤回しようと口を開きかける。しかし、

「……何でもない。ちょっと気が立ってて」

 無理矢理に何かを飲み込むように、ワットハイアは直前の暗い雰囲気を打ち消した。余りにも極端な変わりようだったから、頭がその速度に追いつかない。数回ほどまばたきを繰り返し、次に取るべき反応を考える。とりあえずは、

「ごめん、無神経だった」

 謝罪だろう。直前にあれだけ悔しそうな姿を見ていたのだから、もっと言葉を選ぶべきだった。
 私の謝罪が意外だったのか、ワットハイアはキョトンとした表情。そしてすぐに、なんだかバツの悪そうな表情に。先程の雰囲気からここまで、ころころと変わる表情と雰囲気に、少しおかしくなってしまう。
 そんな私の気持ちが伝わったのか、今度はジト目でこちらを見てくる。本当に忙しない子だ。

「それで、どう? 感想戦」
「あー……うん、やろう」

 ともあれ、感想戦。少し逡巡するような様子だったが、了承してくれた。先程の雰囲気から断られる可能性も考えていたけれど、受け入れられたのは素直にありがたい。

 私の場合、序盤からつつかれたのが痛かった。しかしワットハイアから見ると、どうやら先行集団が相互に煽り合っていたらしい。その結果、耐えられなくなったウマ娘が掛かって速度を上げ、それを「つつかれた」と感じたということらしい。逃げはペースメイクが重要だから、このあたりの対策が必要になりそうだ。
 ワットハイアの場合、最終直線で差そうと思ったものの、仕掛けどころを間違えたようだった。最終コーナーのあたりで見た限り、差し追込の集団のなかでも好位置にいたと思うのだが。それを伝えると、酷く苦い表情を浮かべた。

「やっぱ途中までは良かったんだ……くっそぅ……」

 レースは一瞬の判断で決まる、なんてのは使い古された言い回しだろう。ちょっとした体の上下の差で一着を逃す、なんてこともある。今行くか。いや、まだか。いや、今か。一秒以下の世界で、最適解を引く能力。今回は模擬レースだったので、そこまでシビアではなかっただろうけれど。

 そんなふうに、ワットハイアと感想戦をする。ああでもない、こうでもないと言い合いつつ。これが思っていたより話しやすく、言葉を投げかければすぐに反応が返ってくる。普段からこうした議論……あるいはレスバに慣れているように感じた。

 感想戦も一区切りして、お互いの課題も見つかった。一息つこうと軽く伸びをしてみせれば、ワットハイアも同じようにしていた。その雰囲気が、先程の不穏なそれとはすっかりかけ離れていたものだから、つい、

「なんであんなに荒れてたの?」

 先程の疑問を、気軽にぶつけていた。雰囲気が問題なさそうだったし、今なら答えてくれそうに思えたから。
 ワットハイアは「うへえ」みたいな表情を浮かべつつ、軽いトーンでそのときの気持ちを教えてくれた。

「そりゃ、負けたら荒れもするでしょ」

 しかしそれが、あまりにも「当然」の理由だったもので、少し拍子抜けしてしまう。

「……そんだけ?」
「そんだけ」

 その言葉と態度が、やっぱりあまりにも「当然」のもので。「当然」のことのように、勝つことにこだわっているようで。敗北した事実を噛み締めつつ、勝てない事実を受け入れつつ、その上でなお、「当然」のように、その現実を拒絶していた。

 その姿が。私の心に、ほんの少しだけ、チクリと。このときは自覚できないほどに、小さな痛みを、産んでいた。

 ――これが私こと、ウイニングショットと、ワットハイアの出会い。長い付き合いになる、友人との出会いだった。




 神戸新聞杯といえば、菊花賞の前哨戦。トライアルレース。3着までに優先出走権が与えられるG2レースだ。夏合宿の成果をぶつけつつ、菊花賞への出走を目指すウマ娘たちがぶつかり合う舞台。
 夏合宿の合間に出走した阿寒湖特別で勝利した私は、出走条件をギリギリ満たしたこともあり、神戸新聞杯へと駒を進めていた。

 私はまだプレオープンのウマ娘。最近細々と続いている私のファンスレですら、まず事前人気は出ない、結果も掲示板入りすれば大健闘、くらいの評価を受けている。いやこれファンスレの評価だぞ。あにまん民バレしているらしく、その影響かコアなファンついたっぽいけど、そういったファンからすら勝つと思われてないってどういうことだちくしょう。
 見てろよ、私のストライドで脳みそこんがりさせてやるからな……!

 とか言いつつも、現実的に見れば、相当厳しいであろうことは認めなければならないだろう。神戸新聞杯には例年、クラシック路線で有力なウマ娘たちが多く参加する。今回も当然、皐月賞、ダービーで好走したウマ娘たちも多く出走している。中でも最注目なのは、間違いなく今年のクラシック二冠ウマ娘だろう。そんな中で、プレオープンのウマ娘が人気上位に入ることは難しい。

 そんなことはわかっている。しかし。

「人気だからって、必ず勝つわけじゃないからな。あまり気にするなよ」
「わかってる」

 神戸新聞杯の出走者が、レース前の準備をする控室。レース前の最終準備をしている私に、励ますようなハゲの声が聞こえてきた。その口調が、内容とは裏腹に少し緊張気味であることがわかる。私の出る初の重賞ということもあってか、ハゲも緊張しているらしかった。
 しかし、どうにもそれだけじゃないように感じる。なんか、こう、ハゲ自身も初重賞みたいな?

「ねえハゲ」
「ハゲ言うなって。なんだよ」
「なんでそんな緊張してんの。初めてってわけでもないでしょ、重賞」

 ハゲの様子に違和感を覚え、疑問をそのままぶつけてみた。それを聞いたハゲは、少し苦い表情を浮かべる。というより、なんだろう、この表情。苦いことは苦いんだけど、それ以上に、何か、少し似つかわしくない色が見える。
 その色の名前が何かわからず、戸惑う。ただの緊張でもなく、嫌なことがあったというだけでもないように見える。これは……?

 私のその疑問を置き去りにするように、ハゲは緊張の理由を語った。

「初めてじゃないのはそうなんだが……一度も、勝たせてやれたことがないんだよ」
「ふーん」
「出走も、G3を三回だけ。全部掲示板外だったよ」

 なるほど。理解した。
 G1が目立つものの、重賞はそもそも狭き門だ。出走できるほうが少なく、そこで勝つなど夢のまた夢。ハゲも経験豊富なほうではないらしいので、勝ったことがないのも当然かも知れない。
 しかし、本当にそれだけだろうか。何か、勝てなかっただけでないような雰囲気を感じたけれど……。

 追求すべきかしないべきか迷っていたところに、ふと、ノックの音が響いた。思わずハゲと顔を見合わせる。え、誰? ハゲも心当たりがないようで、戸惑いの表情。
 もしかして、レースに関わる何かでもあったのだろうか。どうぞ、とドア越しに返答する。扉が開くと、そこには、

「ハイア、こんにちは」
「あれ、ショット?」

 クラスメイトで友人の、ウイニングショットがそこに立っていた。

 見知った顔が訪ねてきたことに驚く。神戸新聞杯に出走することは、前から知っていた。公式のレースでは初対決ということもあり、お互いにそこそこ意識しあっていたと思っている。
 実力差は、そこまでないと思う。いや、若干格上だろうか。ショットは8番人気。すでにオープン入りしており、重賞にも一回出走していることから、私より評価が少し上だ。くそう、見てろよ、絶対勝ってやる……!

 とにかく、そういう相手なので、この場所に登場することに違和感はない。しかしこうしてレース前に訪れてくるとは思っていなかったので、不意を打たれた気分になる。

「どうしたの、突然」
「んー、まあ、ちょっと話したいことがあって」
「話したいこと?」

 私の問い返しに、うん、と頷くショット。そして、真剣な表情を浮かべた。そのことに、また驚く。話すようになってから今に至るまで、見たことないような表情と、感じたことのない雰囲気。
 それはどこか刺々しく、肌を刺すようなもの。これまでのレースでも、味わったことのないような――

「宣戦布告だよ、ハイア。この神戸新聞杯――あんたには絶対に負けない。勝つのは、私だ」

 ――敵意と。そう呼べるような、痛烈な感情だった。




 19回目の敗北。その瞬間を、私はこの目ではっきりと見ていた。

 あの模擬レースの後から、私とワットハイア――ハイアは、そこそこ親しい友人という関係性に落ち着いていた。感想戦で感じた話やすさは、ハイアも同じように感じていたものであったらしく、自然とそういう関係になっていった。ネット掲示板という共通の趣味があることも追い風だったのだろう。私は彼女ほどハマってないけど。
 ともあれ、そういう関係性に落ち着いたために、彼女の模擬レースを見る機会は、人より多かったのは間違いない。それは、つまり。

 彼女の心が折れていく過程を、最も近くで見続けた、という意味だ。

「……ハイア」

 だからこそ、1バ身差で三着になった彼女の表情を見て、ぽきり、という音を幻聴したのだ。

「いやあ、また負けちゃったわー。やっぱ中央のレベル高いなー」

 模擬レースを終えて、観戦席にいた私のところまで来たハイアが、声音だけ明るくして、そんなことを言った。取り繕っていることなんて、すぐにわかる。私でなくたってわかるはずだ。声と表情がバラバラで、今にも泣き出しそうなのに、声だけ明るいなんて。

 痛々しくて、見ていられない。

 でも、だからといって、なんと言えば良い? なんと声をかければ良い?
 今回は負けちゃったけど、次また頑張ろうって? ここに至るまでの彼女の努力を知っていれば、そんなこと絶対に言えるわけがない。

 それに、彼女の気持ちが私には理解できない。なんでこの子は、こんなボロボロになるほどに、こんな心が壊れかけるほどに、何度も何度も挑戦するんだ。休んだって良いじゃないか。負けたって良いじゃないか。
 トレセン学園はたしかにトップレベルのアスリートを養成する学校だ。だからといって、トップレベルのアスリートにならなければならない決まりなんてない。

 それなのに、なんで――

「……ごめん、ショット。今日はもう帰るわ。疲れちゃったし」

 私の戸惑いを見抜いたのか、あるいは誤魔化すことすら辛かったのか、ハイアは背を向けて、寮の方へと帰っていく。右腕が上がって、何度も何度も左右に動いているのがわかる。
 その背中が、目に焼き付く。全力で取り組んでいたことに破れて、敗れて、立ち去っていく後ろ姿。大声で泣くことすら許せず、それでも悔し涙が止まらなくて、本当に欲しい物に手が届かなくて。

 心が、血を流し続けている。

「……あ」

 だから、そこで気がついた。

 その姿が、チームが負けたときの彼らに、あまりにも似ていたから。大好きな野球。必死に勝利を求める憧れの選手たちが、それでもその手から勝利を取りこぼした瞬間に見せる姿。悔しくて、悔しくて。勝ちたくて、勝ちたくて。それでも、手が届かなかった勝利に焦がれる姿が。
 あまりにも、その背中に。ハイアの背中が、似ていたから。

「あ、は、はは……」

 なんてことだ。私があのとき感じたのは。初めて見たハイアの模擬レースで見た、彼女が悔しがる姿を見た時に感じたあの感情は。

「ただの」

 自分よりも、憧れの彼らに近いところにいるワットハイア――彼女への、ただの嫉妬だった。