第一話 ワイちゃん、トレセン学園に入学したってよ

Last-modified: 2022-11-13 (日) 20:45:06

 ──何を、間違えたのだろう。

 トレセン学園に入ってすぐの模擬レース。地元では負け知らずだった私は、きっと学園の模擬レースでも余裕で勝てるに違いないと思っていたのに。勝つことは当たり前、後は何バ身離せるか、どこまでタイムを離せるかだ、なんて思っていたのに。その結果は、
 
 5バ身は先にある背中を見て、私は自らの世界が狭かったことを、無理やり理解させられる形になったのだ。

 トレセン学園、芝、1200メートル。新入生向けのコース。平坦で、コーナーも緩やか。同時に走ったのは6人。しかも誰もが新入生であるため、駆け引き自体もそう多くならない。地元でも似たようなコースを何度も走っていた。そしていつも勝っていた。だからこそ、今回の惨敗は、理解できないほどの衝撃。

 私の順位は、6着。5着の子から5バ身離されての、惨敗だった。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

 息切れが酷い。レースの途中で掛かってしまったこともあり、スタミナを過剰に消耗してしまっていた。他の5人はある程度回復した様子で、勝った子が喜んでいる声が聞こえる。2着と3着の子は、1着の子に祝福と挑戦の言葉を叩きつけていた。

 1着おめでとう、次は負けないよ。
 ありがとう、次も負けないよ。

 そんな言葉が、聞こえてくる。心音と混ざり、雑音になる。うるさい。うるさい。うるさい。お願いだから静かにして欲しい。
 雑音を聞いている余裕などない。それより、何故こんなことになったのかを考えなければならない。だって私は地元では負け知らずで、天才と認められていて、事実としてこうしてトレセン学園に入学することもできて、なのになんでこんなことになっている?

 5着の子は、こちらを見向きもしない。4着の子と話している。私は彼女たちの世界にいない。当然だ、同じ立場なら私だって同じことをするだろう。5バ身差とはそれほどの着差だ。見向きするしない以前に、そこに目を向けても意味がない。圧倒的な格下など、ライバルとして認めることすら難しい。

 だからこそ、彼女たちが自分よりはるかに格上であると理解して。
 私は、自分が井の中の蛙であり、中央においてはただの雑魚であったことを、心身に叩き込まれたのだ。

 故に、間違えていたというのなら、それはきっと最初から。
 トレセン学園に入学したことそれ自体が、きっと間違いだったのだろう。




「あ゛ー……やってらんねーわー……」

 寮の自室で横になりながら、あにまん掲示板を開き、適当なスレを巡回する。くだらないやり取りが溢れているかと思えば、なるほどと頷けるアニメの考察があったりする。時間を潰すにはもってこい。

 最初の模擬レースから数ヶ月。私はすっかり、向上心もモチベーションも失ってしまい、こうしてダラダラとした学園生活を送っていた。

 あの模擬レースの後、自主トレーニングはもちろん、指導教官にわざわざ頼み込んでトレーニングメニューを作ってもらい、それをこなしてみる生活をしばらく続けていた。次こそは負けない、次こそは自分が1着を取るんだ、と。粉々に砕け散ったプライドを拾い集め、自分をどうにかこうにか磨き上げ、そしていくつかの模擬レースに参加した。

 どの模擬レースにも、勝てなかった。新入生向けの模擬レースはいくつもある。条件を変え、挑み、そして負けることを繰り返していた。トレーニングの効果が全く無かったわけじゃない。事実としてバ身差は縮んでいたし、何度か3着以内にも入ることができた。
 作戦が悪いのかと思い、図書館を使って勉強もした。逃げ、先行、差し、追込、捲くり。どれもこれも試してみて、しっくり来るものがないか探った。どの作戦もある程度こなせることがわかったのは成果だろう。得意と言える作戦はないが、苦手なものもない。誰がどう走るかを理解して、最適解の作戦を選べるということだからだ。

 それでも、1着になったことは、ない。

 バ身差が縮んでいる? 何度か3着以内に入れた? どの作戦もこなせる自在脚質?
 それがどうした。1着になれないのなら、何の意味もない。

 十数回の模擬レース。それらすべてで敗北して、私はようやく、自分の無才を心の底から納得できたのだった。

 それからというもの、私の生活は一変した。
 考え抜いた自主トレメニューをゴミ箱に捨て、用意してもらったトレーニングメニューは引き出しの奥深くに眠らせ、作戦の研究成果のノートはどこに置いたかも思い出せない。とにかく、トレーニング関係のものをほぼ全て、自分の目に入らないところに隔離した。
 何足か履きつぶすことを前提に買ったトレーニングシューズは、部屋の片隅でホコリを被っている。授業で使う分には一足あれば十分だ。数ヶ月は持つだろう。わざわざ買い直すのももったいないし、潰れたらホコリを被っているそれらから一足引っ張り出せばいい。買い出しの手間が省けていいじゃないか。

 こうしてできた空き時間で、やっていることといえばあにまんを覗いているだけ。なんともクズ学生のお手本のようだ。事実としてクズなのだから、まあ丁度いいんじゃなかろうか。

「トレセン学園のご飯美味しいしなー。こりゃ捨てらんねーわ」

 ダラダラとスマホの画面を見て、そんなことを呟く。時間を無駄にしている自覚はあったし、くだらないことに時間を使うのなら、トレーニングしたほうが地元の連中への義理も立つだろうことを理解している。しかし、やる気はない。無才が頑張ったところで、天才どもが蹂躙するのがこの世界。
 トゥインクルシリーズに出れるのは中央でもごく僅かだと、授業で言っていた。地元にいたときに妄想したG1レースなど、天才の中の天才どもの戦場だ。私が出られる余地などない。それどころか、メイクデビューの勝利、未勝利戦からの勝ち上がりですら僅からしい。そもそも大抵の場合、レースに出る能力すら不足していると判断され、メイクデビューへの出走を許可されない。

 その割合、実に4割。少ないと思うならそれでも良いが、入学した生徒のうちの4割は、デビューすることすら許されないという世界は、過酷を通り越して地獄というのがふさわしい。

 にもかかわらず、私がこの場に残っている理由は、正直なところ特になかった。ただなんとなく、ご飯が美味しいことと、地元に帰ってもやることがないこと、その2つの理由が大きかったくらい。このままダラダラ生活して、卒業して、その後は適当に生きていくことになるだろう。たぶん。わからんけど。

「はー、何だこいつ。うっざ」

 あにまんをダラダラ巡回していたところ、一つのレスが目に止まった。今見ていたのはウマ娘カテゴリのスレで、スレタイは「正直さ」。本文にあるのは「メイクデビューできないレベルの子なら俺でも」……まあ、ここから先はいつものウマカテだ。バカが妄想を書き連ねるいつものやつ。
 爆破してやろうかなー、と思っていたところ、一つのレスが目に入った。メイクデビューできない子の擁護レスから加熱して、酷い罵り合いのレスバになっている。その中の一つに書いてあったのは、

『勝てない子でも必死なんだよ。くだらない妄想してんなアホ』

「…………ちっ」

 そのレスに、どうにも心がささくれ立つ。勝てない子。メイクデビューすらできない子。それは今の自分とぴったり噛み合っていて、ちょっと前の自分の努力をちょっとだけ肯定された気がして、それが情けないことに、なんだか少し嬉しくて。
 ストレス解消のつもりで見ていたのに、こうして心を荒らされるのは不愉快だ。私はその苛立ちに身を任せ、そのスレを爆破する作業に移った。

「あー……やだやだ。冗談じゃないっての。間違いなくハゲてるな、あのレスしたやつは」

 無事スレが爆破されたことを確認した私は、もうあにまんを見る気力も失せてしまい、スマホから目を離した。目に映るのは、いつもの天井。寮の天井は無機質な白で、そのまま見つめていると色々なことを思い出したり、余計なことを考えたりしてしまいそうだ。
 だから、その日はもう眠ることにして、色々なことから目を背けるように瞼を落とした。




 ダラダラ生活をして、数ヶ月ほど立った日のことだった。

『ワットハイアさん、シンボリルドルフ会長がお呼びです。生徒会室までお越しください』

 授業が終わり、今日も寮に引きこもってレスバでもするかと考えていたタイミングのことだった。校内放送から自分の名前が呼ばれたかと思うと、その内容はシンボリルドルフ会長が自分のことを呼んでいるというもの。
 私とシンボリルドルフ会長の間には、一切の関係がない。絶無だ。話したことがないどころか、下手するとすれ違ったことすらないんじゃないだろうか。何しろ相手は七冠バ、私は一方的に知っているものの、相手がこちらを認知しているとは考えづらい。
 にもかかわらず、私のことを呼び出す? なんだそれ。とまあ、多少とぼけてみたものの、正直なところ心当たりは十分にあった。

「そろそろ言われるとは思ってたけどさ」

 まさか、こんな形になろうとは。連絡先として登録してあるメールアドレスに、義務的に送られてくるものと思っていた。それが、かの七冠バ直々に沙汰を下されることになるなど、どうやらトレセン学園は随分と学生に優しい組織であるらしい。
 七冠バたるシンボリルドルフに憧れる生徒は多い。恐れ多くて生徒会室に相談にいくことなどできないが、熱い視線を彼女に送っている姿を何度も見たことがある。彼女との会話を夢見る生徒も多いだろう。

 そんな彼女と、退学前に一度は話す機会を設けてやろうなど、これを「優しい」と表現せずしてなんと言えばいい?

 生徒会室の前に立つ。豪華な扉だ。金使ってんなー、なんて感想が心の端っこで生まれるが、その程度。
 二つ、ノック。室内から「どうぞ」の声が聞こえた。

「失礼します、呼ばれたワットハイアです」

 言いつつ、扉を押し開けた。
 まず目に入ったのは、部屋の中央にあるテーブル。その両脇には黒いソファが置いてある。地面には絨毯が敷かれており、踏んだら柔らかい感触が返ってきそうに思える。
 次いで、視界をちょっとだけ上に上げれば、奥に豪奢な机があることがわかった。小学校のときに見たことのある校長室を思い出す。そこと違うのは、装飾にはさほどこだわっておらず、単純に実務的に有用であるからこれを使っている、と思わせる使用感だった。机の上に山と積まれている書類の紙束が、その仮説を補強する材料になっている。

 そして、その紙束の向こうには、まるで歓迎するような表情の七冠バ──シンボリルドルフが立っていた。

「やあ、よく来てくれたね、ワットハイア」

 言いつつ、こちらをソファに座るように促してきた。思っていたよりも気さくな人物に思える。七冠などというバカげた偉業を成し遂げた人物だ、てっきり気難しさや気高さがウマ娘の形をしているような人物と思っていたのだが。
 促されるまま、ソファに座る。ここに呼ばれた要件にはすでに当たりが付いているし、そもそも数ヶ月前から向上心もモチベーションも尽き果てた身だ。投げやりな心地でずっといるし、だから緊張もさほどしていない。ただ淡々と、沙汰が下されるのを待つだけだ。

(さらば……カフェテリアの美味しいご飯……!)

 美味しかったんだけどなあ。地元のどのレストランに行っても、あの味は難しいだろう。何より無料であの美味しさだ、しばらくは寂しく感じるに違いない。
 内心でそんなことを考えつつ、シンボリルドルフの言葉を待つ。彼女はテーブルを挟んだ向かい側のソファに座って、こちらを改めて見つめてきた。

「その様子だと、ここに呼ばれた理由はすでに理解しているかな」
「あー、はい、まあ、たぶん」

 穏やかな笑みから、少しだけ真剣な表情に。先程感じた気さくさより、イメージしていた姿に近づいた。とは言え、話しづらさは全然感じない。もともと七冠バへの憧れは薄いほうだ、そうしたことも影響しているのだろう。
 私のぼやけた返答に、彼女は一つ頷く。

「率直に伝えよう。君への退学勧告案が出ている。模擬レースはおろか、トレーニングもしていないウマ娘を、学園においておく余裕はない、とね」

 そして、予想していた内容と、ちょっとだけ違う内容が、私に伝えられた。

「……え、退学勧告『案』なんですか? 退学勧告ではなく?」

 予想していたものと比べ、一歩手前。勧告そのものではなく、あくまでも案。そういう形で、私のトレセン学園生活の終わりが提示された。
 まだ猶予のありそうな言い回しに、思わず戸惑う。私なら容赦なくぶった切ると思うんだが。その内心が表に出たのか、シンボリルドルフは表情をちょっとだけ緩め、続けた。

「ああ、まだ案だ。トレセン学園はそこまで薄情ではないよ。ただし、執行される可能性の高い案ではある」

 前半は穏やかに。後半は緊張を強いるような、僅かな威圧を込めて。
 心臓が跳ねる。こんな僅かな態度の違いでも、この人物が七冠バであることが実感できた。これまでの態度で勘違いしそうになったが、このウマ娘は史上空前の大偉業を達成した、とんでもない化け物なのだ。
 たらり、と冷や汗の感触を覚える。私のような雑魚ウマ娘にとって、僅かであろうとシンボリルドルフの威圧感は劇毒だ。諦観に支配されていた私でも、これを完全に流すことは難しかった。
 そんな様子の私を気にした様子もなく、シンボリルドルフは、その条件を提示した。

「最後通告だ、ワットハイア。一ヶ月後に開催される選抜レース──その一週間後までに、自身のトレーナーを見つけ、契約すること。達成できなければ、本当に退学勧告をすることになる」

 こうして、私は退学の是非を問われることとなった。それに対して私が思ったことは二つ。

 一つは、まだしばらく美味しいご飯が食べれるという安堵。
 もう一つは、一ヶ月くらいあにまんを見てる余裕はなさそうだな、という──かつての努力の残骸だった。