トリプルティアラの桜の冠、桜花賞。それに向けたトレーニングで、アタシは。
「正直に言って、1600は厳しいと思う」
トレーナーさんから、自らの限界を伝えられていた。苦い顔を浮かべていることから、トレーナーさんもアタシと同じように、その事実に苦い思いを感じていることが伝わってくる。
桜花賞は、芝の1600メートル。この距離がアタシにとって短い可能性は、正直なところ高いと考えていた。アタシの武器はスタミナであり、それを使った消耗戦だ。トップスピードが重要になる短距離とマイルは、自分の舞台ではない。
「それでも挑戦するのか?」
トレーナーさんが、暗に「やめておいたほうが良い」と勧めてくる。彼の言うことは正しいだろう。負ける可能性は高く、挑んで惨敗したのなら戦歴に傷がつく。そうなれば、彼のトレーナーとしての経歴にも泥を塗ることになるだろう。
でも。
「トリプルティアラは、アタシが獲ります」
そんなことは知ったこっちゃない。アタシの人生全てを賭けてきた目標を、今さら変えるつもりなどない。ずっとトリプルティアラを目標に走ってきた。距離が短い? トップスピードが足りない? 短い距離であろうと、他のウマ娘をすり潰せばいい。掛からせ、焦らせ、躊躇わせる。1600メートルという短さであろうと潰す。
適性外などという現実程度で、アタシの憧れを否定させてたまるものか。トリプルティアラを獲るんだ。あの人に近づくんだ。絶対に。
意思を変えるつもりがないことを悟ったのか、トレーナーさんは一つため息をつく。契約解消になりかねない選択だったかもしれないが、そうなったら他の適当なトレーナーを見つける。時間は少ないが、名義だけ貸してくれるトレーナーなら見つかるだろう。桜花賞に出られれば、あとは自分の力だけでどうにかしてみせる。
「わかった。君がいいならそれで行こう」
予想とは違い、トレーナーさんはアタシの方針を受諾してくれた。どことなく諦めた様子に見えるのは、議論をする時間の無駄を嫌ったからだろうか。どちらでも構わない。とにかく、アタシは桜花賞には出れそうだ。
桜花賞に向けたトレーニングは、スピードを重視するものになった。トップスピードの伸びづらさを、トレーニングで賄う。過去の三冠路線には、短距離やマイルに適性がありながら、重度のトレーニングによって克服したウマ娘もいたという。アタシは逆だが、それでも適性はトレーニングで超えられると信じる。
伸び悩み続けるものの、桜花賞の直前まではそのトレーニングを続ける。トレーナーさんの表情を見る限り、やはり十分なトップスピードを得られていない様子だった。
桜花賞が迫る。スピードが伸びない。焦る。焦る。焦る。最高速に乗るより前にゴールが近づいてしまう。スタミナが余る感覚が腹立たしい。もっと距離があれば、せめて1800あれば。200メートルの差が絶望的にすら感じてしまう。
それでも、諦めたくない。諦めない。あの日に見た輝きを。あの日に見た尊さを。そのためのトリプルティアラを。最初の一歩で躓くなんて、冗談じゃない。
結局、十分とは程遠い状態で、桜花賞の日がやってきた。こうなってしまえば、腹をくくるしかない。トップスピードで勝負できない以上、道中で可能な限りスタミナを奪う。そのための手腕は自信があるし、潤沢なスタミナはその戦術を実現するための大きな武器だ。
大丈夫、勝てる。勝つ。負けてなるものか。アタシはトリプルティアラを獲るんだ。あの人のようになるんだ。そう意気込んで、レースに臨んだ。
勝つつもりだった。勝てるつもりだった。負けるつもりなんて、一切、微塵も持っていなかった。なのに。
『最終直線、最初に駆け抜けてきたのは──!』
道中の仕掛けも虚しく、相手のスタミナを削りきれず。それどころか、マイルのペースに追いつくことだけで精一杯。それでもどうにか、逃げと先行を掛からせようと仕掛けたはずが、動揺もせずにペースを保ち続けられて。半分を過ぎたあたりで、考えていた計画は全て崩れていて。
逃げのウマ娘が遥かに遠い。残りはもう300メートル。速度勝負に持ち込まれ、アタシはまだ集団の半ば。前には壁のように、5人のウマ娘がいる。
「いや」
泣きそうになりながら、それでも必死に脚を回す。ルートを探る。外に向かおうと思っても、残りの距離では明らかに届かない。内側は完全に潰されている。アタシの通るルートは見つからない。
認めたくない。嫌だ、認めたくない! 桜花賞で負けるなんて! アタシはトリプルティアラを獲るんだ! それが、こんな、最初の一歩で躓くなんて!
現実を拒否して、それでも一着へのルートが見つからなくて。それどころか、前のウマ娘がどんどん遠くなっていって。自分の右を、左を、さらに他のウマ娘が通り抜けていって。あと100メートルしかないのに、アタシはどうして、先頭ではなくこんなところにいるんだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。どうして。あんなに頑張ってきたのに。ずっとずっと、人生を賭けてきたのに。あの輝きを。あの尊さを。ずっとずっと求めてここまで来たのに。
「まって」
もはやフォームを保つことすらできない。ただ前を進むウマ娘に置いていかれたくなくて。ガタガタに崩れた心と身体が、ズルズルと下がっていく現実を見せつけられて。
「アタシの、『とりぷるてぃあら』」
アタシより先に、ゴール板を駆け抜けていったその姿。喜びに腕を上げていく、その姿に。
「とらないで」
夢が砕ける音を、聴いた。
「痛い痛い痛い痛い痛いやめて乱暴しないで!」
「あの、ハイア先輩……まだあまり力入れてないですよ……?」
「ゲー?!」
桜花賞の衝撃から、数日経ったある日のこと。菊花賞を大目標に、目下5月末のレースに向けてトレーニングを重ねる日々だ。
今日は合同トレーニング相手に、後輩のシルバーウィークを呼んでいる。今はトレーニングの前に、プールサイドで柔軟性のためのストレッチ。私の体はどうにも固くて、押されると酷く痛む。べ、別に運動してないから固いんじゃないからな! ただ、ちょっと他の人より固いだけなんだからな!
シルバーウィーク。私の後輩。デビューは今年らしいので、世代としては一つ下になる。端的に言って陰キャであり、知り合ってからしばらくはまともにコミュニケーション取れなかった。知り合ったキッカケは、単純に陽キャに囲まれてMPを枯渇させた私が、校舎の影になるところに逃げ込んだところ、同じような理由でそこにいたというもの。陰キャは陰キャと引かれ合う……!
ちなみにこの後輩、顔がいい。メカクレだから顔全体はめったに見えないんだけど、並走しているときにチラリと見える目が超イケメン。実態を知らないウマ娘からキャーキャー言われているのを見たことがあるレベル。
ストレッチでぐったりしてしまったものの、トレーニングはむしろ今からが本番だ。気を取り直して、スタミナトレーニングに励むとしよう。しかし、この学園指定の水着、胸周りがキツいんだよな……ワンサイズ大きい水着に買い換えるべきだろうか。
「水着が可哀そう……」
「シルクなんか言った?」
「なにも……」
シルバーウィークの小さな声は聞かなかったことにして、そちらを見る。スレンダーだが、長身なことも相まってモデル体型というやつだろう。この子にキャーキャー言う連中の気持ちもわからなくもない。しかし、イケメン女子というのなら、私はシンボリルドルフ派だ。シルバーウィークは確かにイケメンだが、私は浮気しないぞ。……カイチョーさんはダジャレ特訓に巻き込んでくるアレさえなければなー。本当になー……。
シルバーウィークとプールに入る。4月も半ばを過ぎたものの、まだ冷える。温水プールなので寒くは感じない。このあたりはトレセン学園様様だ。
プールサイドに置いておいたビート板を手にとっての背泳ぎ。二つのデカい浮き袋があるというのに、私は泳ぎが苦手だ。いや、むしろあるからこそ苦手なのかもしれないが。どうにもバランスが取りづらく、ビート板がないと上手く泳げない。対してシルバーウィークはかなり泳げる方で、今もビート板なしにキレイなフォームでスイスイ泳いでいる。ぐぬぬ、なんか悔しい。
しばらくそうしてスタミナを鍛える。プールは全身運動であり、とにかくスタミナを消耗する。とはいえ、菊花賞に向けて鍛えておく必要もあるし、先行でもっと上手く走りたい気持ちもあった。具体的にはスピードラビットを真正面からすり潰したい。やられたらやりかえす、倍返しだ……!
「ハイア先輩……スピードラビット先輩のこと、すごく意識してるんですね……」
トレーニングが一区切りしたときに、プールサイドでそんな話をシルバーウィークに漏らしたところ、そんな言葉が返ってきた。スピードラビットのことを意識しているか? そりゃそうだ。選抜レースに若駒ステークス。どちらでもスタミナをすり潰されて負けている相手だ、意識しないわけがない。ましてや同期、これから何度もぶつかると考えれば、意識しないという選択肢は選べないだろう。
「そりゃまあ。あの腹黒、絶対に倒してやる……!」
今は遠い背中だが、必ずやり返してみせる。絶対に私が先着して、背中を見せてやる。少なくとも2回はやり返さないと気がすまない。
意気を燃やしている私を見て、シルバーウィークが不思議そうと言うか、珍しいものを見たような表情を浮かべる。え、何その表情。どういう感情なのそれ。いや目が見えないから、なんとなくそういう表情っぽいってだけだけど。しかし鬱陶しくないのかな。
「なに、シルク。変な顔して」
「いえ……なんだか、意外だったもので」
「意外? 何が?」
「ハイア先輩が、誰かを目標にしているのが」
「…………は?」
今コイツなんて言った? 目標? 誰の? 誰が? 私の目標が? スピードラビットだって?
はーん? ほーう? えー?
「いやいやいやいや、何言ってんのシルク。私は別にそんな、あの腹黒が目標なんて一言も言ってないし。倒すべき相手なんだって」
「……? それ、目標と何が違うんですか……?」
「いや、え、その、あの、えっと……」
違う、違うんだって。私は、別に、その、あの。スピードラビットは倒すべき相手で、目標なんかじゃなくて、何が違うってそりゃあ目標ってのはもっとキレイな、憧れとかそういうものに近くて、私は別にスピードラビットに憧れてるとかそんなことなくて。
言葉にならない。モゴモゴと口の中で音がこもる。その様子を、シルバーウィークはやっぱり不思議そうに見ている。なんだか腹が立ってきた。
なので。
「ああ、もうっ。良いから続き! 今日中にまだあと1000メートルは泳ぐ!」
「え、まだそんなにやるんですか……? あの、ハイア先輩、ちょっと……」
勘弁してほしそうなシルバーウィークの手を取って、改めてプールに向かっていく。プールに入れば、多少はこの顔の熱さも冷めてくれるだろうと、そんなことを思いながら。
毎日のようにトレーニング。これもすべて、スピードラビットに──じゃない、菊花賞に向けて、あるいはG1レースで勝つために。とにかく、私は気合を入れてトレーニングに励んでいた。
目下の目標は、5月下旬に開催予定のクラシック級1勝クラスのレース。東京レース場で開催され、芝の1600メートル。ハゲ曰く、1勝クラスのレースであれば、今の私はそこそこのものらしい。前回とは違い、明らかな有力バなどは存在しない。というか有力バは軒並みG1戦線に進んでおり、残っていないと表現するほうが正しいだろう。
今日はハゲもいない状態で、スピード重視の自主トレーニングを学園のコースを利用しつつ淡々とやっていた。合同トレーニング相手も捕まらず、ハゲもトレーナー同士の会議があるとかで、仕方なく一人。
別段寂しいとかではないが、どうしても思考を持て余す。トレーニング中にどの筋肉を意識するべきかとか、体の動かし方はどうかとか、そうしたことを考えながらやってはいるものの、それにも限界がある。2時間ほどトレーニングをしていれば、集中力も切れ始めた。
集中できなくなってきたのなら、今日はもうやめたほうがいいかもしれない。多少メニューは残っているものの、この状態で続けても効果はないだろう。ハゲにも「集中できなくなったら終わっていい。その代わり、どこまでやったか教えてくれ」なんて言われてるし。
「……寮であにまんでも見るかな」
一息つきつつ、そんなふうに呟く。ここ数日ほどは皐月賞や桜花賞の話題で持ち切りだし、しばらくすればダービーとオークスの話題ばかりになるだろう。それらに参加しない選択をした身としては、観客気分でそれを眺めるのも悪くなかった。たまに酷いスレがあるから爆破してやるけど。
寮に帰ることを決め、軽く伸びをする。視線を帰り道に向けてみると、一つの影が目に入った。
「んー、あれ……スピードラビット先輩?」
走るわけでもなく、ジャージにも着替えず制服のままで、ただぼんやりとコースを眺めている。若干距離があるからわかりづらいが、トレーニングした直後というわけでもなさそうだ。本当に、ただぼんやりと眺めている、というだけ。
気が抜けたような姿──いや、気どころか魂すら抜けたような、そんな姿。それがどうにも、若駒ステークスのときと重ならず、本当にスピードラビットかどうか断定できないほど。むしろ、あの姿に重なるのは、
「…………まさかね」
その想像を打ち消す。あのスピードラビットが、まさか。頭を振って、忘れてしまうことにした。
しかしそれはそれとして、あの姿はどうにも気にかかる。トレーニングをしている姿なら理解できるし、休養日だというのならコースに来るのもおかしな話だ。
「ああ、もう」
このまま寮に帰ってもいいのだが、そうしてしまえばあの姿が頭の片隅に残り続ける気がした。見知った相手でもないから話しかけづらいが、スッキリしない感情を持て余すよりはマシだろう。
「先輩、どうかしましたか」
スピードラビットの近くに行って、ぼんやりとした様子の彼女に話しかける。緊張するわけでもないが、話したことのある相手でもないから、距離感に悩む。結局、言葉にしたのは無難なものだった。
私の声を聞いた彼女は、ゆっくりとした動きでこちらに視線を寄越す。その視線に、若駒ステークスで感じた覇気は一切感じない。それどころか、熱と言えるものをほとんど感じられなかった。先程忘れてしまおうとした予感が、また顔を出す。
「ああ、あんたはん……たしか、ワットハイアちゃん、やったっけ」
不意の京言葉に、少しだけ驚く。糸目に太眉、それに加えて京言葉って。腹黒キャラのテンプレートみたいなウマ娘だな。若駒ステークスではそんな口調じゃなかったのに、一体どうしたことだろう。
力ない口調に、尋常でない様子だと理解する。もしかして、思っていた以上の案件に踏み込んでしまったのだろうか、私。若干後悔するも、こうして話しかけてしまった以上今更だ。
「どうも。若駒ステークス以来ですね」
「そやったねえ。あんときは、どうも」
その「どうも」に、何の意味も込められていないように感じる。ただ久々にあった相手に、機械的に反応を返しただけという様子。京言葉は皮肉まみれ、みたいな印象があったが、今のスピードラビットにそんな裏は仕込めなさそうだ。
調子が狂う。この人、いったいどうしたのだろう。選抜レースでも、若駒ステークスでも、あんなにエグい戦法を取って、生き生きと駆け抜けていった印象が強いのに。
「あの……先輩、大丈夫ですか……?」
思わず、そんな言葉が溢れた。倒すべき相手ではあるが、こんな様子の相手を放置するほど薄情なつもりもない。というか放置していたら、どこかに消えてしまいそうなほどだ。何より、この姿に重なって見えるものが、私を離してくれない。
私の言葉に、スピードラビットはへらりと笑う。その笑いが、やっぱり空虚なもので。心から芯が抜け落ちたような、まるで人形が浮かべるような表情で。
「言っても、仕方ないことなんよ。でも」
そして、その細い目から、一筋の光。溢れていることに、きっとスピードラビット自身、気づいてすらいないほどの薄さ。
でもそれは、確かに涙だった。
「桜花賞に、負けてしもうた。トリプルティアラは、もう、獲れない」
流れ続ける一筋の涙と、その言葉。それらを見た私は、先程までの予感が、重なってしまったその姿が、間違っていなかったのだと理解した。夢が砕けたその姿。見覚えがあるどころの話ではない。だって、その姿は。
最後の模擬レースでの敗北。積み上がった19回目の負けと同時に、心が折れた自分の姿と同じだったのだから。
あの後、結局私は何も言えなかった。スピードラビットも、別に私と話し続けたかったわけでもなく、半ば自動的に心を吐き出しただけだったのだろう。言葉を一切交わさず、ただ別れた。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、寮に帰る気にもなれず、なんとなくトレーナー室に脚を運んでいた。ぼんやりとあにまん掲示板を眺めているものの、内容が一切頭に入ってこない。スピードラビットの涙が、どうにも頭の中でリフレインしている。
「あれ、ハイア。帰ってなかったのか?」
扉が開く音と、ハゲの声。視線をそちらに向けてみれば、輝く頭。いっそ安心するほどに、私のトレーナーはいつもどおり鬱陶しく光を反射している。いつもどおり、というのは精神安定に役立つ。ハゲのハゲをそれに使うのはなんだか癪だが、今はそれが必要だった。
「ん……まあね。ちょっと、話したいことがあって」
「……なんか真剣な話っぽいな。わかった。ちょっとだけ待ってくれ」
私の様子に、すぐにハゲは荷物を片付ける。話しやすいようにするためか、インスタントのお茶を用意してくれた。こういう地味に気が利くところは、ハゲの美点の一つだと思う。ハゲだけど。
お茶をこちらに差し出し、机を挟んで対面に座るハゲ。話を聴く体勢だ。黙ってこちらを見た様子に、こちらの話を待っていると理解した。
「自主トレが終わった後に、スピードラビット先輩と会って、さ」
上手く言葉にしづらいものの、先程あったことを、ポツポツと話す。
酷く落ち込んだ様子どころか、魂が抜けたような様子だったスピードラビットのこと。トリプルティアラを目指していたのに、それが取れなかったという絶望を聞いたこと。そして、それに対して自分は何一つとして言えなかったこと。
トレーナーは黙って、私の言葉を一つ一つ咀嚼するように、その話を聞いていた。
「なんか、模擬レースで負けてたときの私と、重なっちゃって。それなのに、何も言えなくて」
あのときのことは、正直思い出したくもない。負けて、負けて、負け続けて。負けるのが当たり前になってしまって。ついには「勝ちたい」とすら思えなくなって。ただただ、自分が腐っていくようだったあの時期。
幸い私は抜け出すことができたが、あのまま終わっていてもおかしくなかった。ここでこうして走るのではなく、地元で引きこもる生活を送る世界線もあったと思う。だからこそ、その姿が重なったスピードラビットのことが、どうしても気がかりだった。
一通りの話を終えて、トレーナーの反応を待つ。トレーナーは少しの間だけ瞑目して、
「そうか……だからあいつ、あんな様子だったのか」
どこか納得したように、そして苦虫を噛み潰したように、言葉を漏らした。その言葉に引っかかりを覚える。「あいつ」とは誰のことだろう、と一瞬だけ思うも、これまでの話から察するに、
「スピードラビットのトレーナーのこと? 様子、おかしかったの?」
「ああ。ここ数日は、特にな。今日見たときは特にひどかったよ」
その様子を思い出しているようで、またもや苦い顔を浮かべるトレーナー。その様子から、さぞかし酷い状態だったのだろうと思う。きっと、スピードラビットと同程度には。
トレーナーとウマ娘、二人揃ってそんな状態だったのか。よほど桜花賞での敗北が響いたのだろう。
苦い顔を浮かべながらしばらく黙っていたトレーナーが、一つ大きなため息をつく。そして、何かを決めたような表情を浮かべて、こちらに向き直った。
「ハイア。この一件は俺が預かる。上手くいくかはわからんが、任せてもらえるか」
その言葉を聞いて、トレーナーが何かの手を見つけたと理解する。そしてそれはきっと、私では打てない手だろう。ならば。
「ん、任せた。倒す相手が腑抜けてるのも嫌だしさ──どうにかしてよ、トレーナー」
そんなふうに、心にもないことを、挑戦的な笑みを浮かべながら言って。私のトレーナーに、任せることに決めたのだった。