トリプルティアラの彼女への憧れを得てからというもの、ひたすらに自分の体を鍛え上げた。
「もっと、はやく」
幸いなことに、アタシの体は憧れに応えてくれた。鍛えれば鍛えるほどに速くなっていく。長く走れるようになっていく。レースを見て研究して、自分ならばどうするかを考えてを繰り返す。
トレセン学園へ入学してからも、それは変わらない。確かに地元よりはるかに強い相手ばかり。それでも、この胸にある憧れが、負けた程度で走ることを辞めさせてくれない。それどころか、敗北の傷を、次こそは勝つのだという燃料へと変えていく。
事実として、模擬レースで負けた相手に、次の模擬レースでは勝てることも多かった。着実に体を鍛え上げ、着実に勝率を高めていく。
油断することはなかった。何しろトリプルティアラは生涯一度しか挑戦できない。桜花賞、オークス、秋華賞全てに勝たなければならない。一度の負けも許されない。だからこそ、事前に出走者がわかるレースに関しては、トレーニングの合間を縫いつつ、相手の全レースを見て研究し、対策を考え、勝率を少しでも上げた。
特に、選抜レースの出走者は印象に残っている。
「……この子、随分と多く模擬レースしたはる」
勝ちこそないが、幾度となく挑戦し、そして全てに負けている子。年は一つ下、脚質が自在で対策が打ちづらいタイプ。名前は、ワットハイア。レースの分析に脚質は重要であるため、この子のように幅広く走れる相手は、分析する上ではノイズだ。勝ち負けに関わってくるとは思えないが、脚質次第でレースを乱す因子になる。
どれか一つに絞ったら外した場合に痛い。割り切り、ワットハイアがそれぞれの作戦で走ったそれぞれのパターンをシミュレーションする。作業が数倍になるが、選抜レースは重要なレースだ。トレーナーの獲得のために、ひいてはトリプルティアラのために。
結局、選抜レースはシミュレーションのうち、アタシにとって最もありがたいパターンにハマった。逃げ二人が競り合ってハイペース化、利用することでスタミナ勝負に持ち込む。スタミナが伸びやすいアタシにとって、この形は理想形だった。
だからこそ、
「選抜レース、素晴らしかった。是非、ぼ──俺と、組んで欲しい」
有名なトレーナーを多数排出している、名門出身の若いトレーナー。新人の中でも注目株として有名だった彼に、スカウトしてもらえたのだ。
新人らしい初々しさはあるものの、それを踏まえても魅力的だった。新人とは言え名門出身、背景にある知識は素晴らしいだろう。また、ベテラントレーナーの多くはチームを組んでいることから、一人あたりにつきっきりになる時間も少ないと聞く。新人であり、専属トレーナーの立ち位置であれば、より濃いトレーニングも受けられると予想できた。
だからこそ、そのスカウトを了承して。アタシは、いよいよトゥインクルシリーズでのレースに向けたトレーニングを始めることとなった。
すべては、トリプルティアラのために。憧れの彼女のようになるために。
「く゛や゛し゛い゛!!!」
若駒ステークスの直後。ウィニングライブ前の控室にて。私は目から血の涙が出そうなほどに、直前のレース結果に悶えていた。くそう、なんなんだよあいつ。あの腹黒。スピードラビット。人のスタミナ遠慮なしにすり潰しやがって!
ちくしょう、強かったなあ。選抜レースのときよりもっと強くなってたなあ。最終的には2バ身も離されちゃって、G1レースの有力バの力を見せつけられた。そこに自分が到達できていないことが悔しく、負けたことが吐きそうなほど腹立たしい。
「すまん、俺のミスだ……出走者情報をもっと調べておくべきだった」
ハゲのそんな言葉に視線を動かしてみれば、ハゲも私と似たような表情を浮かべている。心底悔しくてたまらないように、同時に自分の不甲斐なさに苛立つように。その顔を見て、少しだけ溜飲が下がる。実際、今回の若駒ステークスに向けた私達の準備は明らかに不足していた。出走者情報を調べておらず、当然どういう走り方をするかも番号だけで決めたようなものだ。端的に言ってナメている。今更ながら情けない。
「それは私もだから、別にいい。二人揃って『やらかした』でいいよ」
「……だな」
ハゲと二人で、今回のレースの敗北は当然のものだったと受け入れる。悔しい。死ぬほど悔しい。情けない。首を絞めたくなるほど情けない。でもこれが現実だ。私達は未勝利戦の先にあるレースをナメていた。これを受け入れ、そして次に繰り返さないと誓う。
だからこそ、今は。
「く゛や゛し゛い゛!!!!」
負けた悔しさを、ただ受け入れることにする。ハゲと揃って悔しさを叫び、控室で地団駄を踏む。潔く負けを認めろって? バカ言うな、球磨川先輩じゃないんだぞ。グッドルーザークソくらえ、私は負けを受け入れても認めねえからな! 次は絶対勝ってやるからなあ!! 首洗って待っていやがれスピードラビット!!!
ひとしきり負けた悔しさを吐き出して、悶えて、暴れて。控室をちょっとだけ荒らして。そして気持ちも落ち着いて。そういやこの後ウィニングライブだなー、やだなー、なんて思えるようになったところで。
「ハゲ」
一つ、自分の中で覚悟を決める。
「ハゲ言うなって。何だ」
ハゲも雰囲気が変わったことを察したのか、スイッチが切り替わる。こういうところは、なんだかんだ言っても中央のトレーナーであることを実感させる瞬間だ。それはさておき。
「今日のスピードラビット先輩みたいなのが、G1にはゴロゴロいるの?」
ハゲに現実を問うた。瞬間、ハゲの表情が苦いものに変わる。それを見ただけで、私の想像よりなお悪いということを理解する。
レース前にハゲは言った。「スピードラビットはティアラ路線の有力バの一人」と。有力バの「一人」だ。これはすなわち、他にも有力バがいることを示している。そうなると、気になるのはスピードラビットの立ち位置。有力バの中でも特に有力なのか、そうではないのか。
ハゲの表情が苦いものであるとするならば、きっと。
「勝った相手を評価する言葉でもないが、もっと強いのがいる。確かに強いが、G1ウマ娘に絞れば平均的だろう」
そういう話になる。
スピードラビットは強い。それは間違いない。未勝利を抜け、その上重賞で勝っている上澄み中の上澄みだ。しかし、その上澄み中の上澄み同士がぶつかり合うのがG1レース。ウマ娘のレースはいくつかのクラスに分けられている。その目的は「同程度の強さのウマ娘をぶつけ合う」こと。そうなれば、比較対象は当然同格になる。格下と比較しての天才は、同格と比較しての凡才に堕ちる。
ハゲの評価を聞いて、改めて自分の中にある覚悟を問う。これを決めてしまえば、一生に一度のチャンスを捨てることになる。今後どれだけ願っても、祈っても、手の届かないチャンスを、ゴミにすることになる。届く可能性もないウマ娘からしてみれば、これからの行為はいっそ侮辱的ですらあるかもしれない。
その上で、私はその道を選べるだろうか。
答えはすぐに出る。愚問だった。
「トレーナー。私、皐月賞とダービーは諦める」
今の自分の能力では、G1に届かない。その事実を認め、チャンスを捨てる選択をした。
スピードラビットと直接対決したことで、実力差を身を以て理解した。出られるかもしれないが、出られるだけだ。まず間違いなく勝てない。記念受験みたいなものになるだろう。G1だろうと出るなら勝ちたい。負けると思いながら挑戦するのは、あの未勝利戦でもう辞めたんだ。
だからこそ、今は出ないことを選択する。牙を研ぐ時期として、今は自らを鍛え上げよう。
「……いいんだな?」
「うん。でも、秋まで。菊花賞に間に合うように、私のことを鍛えて欲しい。ローテーションも任せる」
トレーナーの確認に、時間を区切って自分を追い込む言葉とともに返答する。三冠路線最後のレース、菊花賞。3000メートルという長距離のレース。三冠路線の一つだからこそ走っておきたい気持ちはあるし、目標を定めたほうがトレーニングにも身が入る。そして、今日の負けで見えてきた「スタミナ不足ですり潰される」という弱点を克服する目的でも、菊花賞を目標に据えるのはちょうどよかった。
スピードラビットには必ずやり返す。絶対に私が背中を見せてやる。そのためにはスタミナを鍛えなければならない。策にハマったとしても、無視して駆け抜けるスタミナをつけて、真正面から倒す。
秋の菊花賞までに自分を鍛え上げる。そして必ず勝つ。出走で満足せず、私の戦績に菊花賞1着を刻み込む。
「わかった。ハイアがそういうならそうしよう」
トレーナーも覚悟を決めたように、私の方針を肯定してくれた。頭ごなしに否定するのではなく、こちらの意思を尊重してくれる。クラシックG1に出れば、トレーナーとしても名誉なことにも関わらず。その姿勢がありがたかった。
「よし。なら、5月末と夏にレースに出て、9月末の神戸新聞杯だ」
「理由は?」
「9月末まではトレーニングに集中しつつ、レースの感覚を保てる程度に出走する。そして神戸新聞杯は菊花賞のトライアルレースだ。そこで3着以内なら、菊花賞の優先出走権が得られる。そして当然、それを狙ってくる連中も多い。だから」
「菊花賞を狙う連中も多く出る。そこで3着以内に入れれば、菊花賞でもある程度戦えるはず、か」
「そういうことだ」
トレーナーの提示してきたローテーションに頷く。夏のオープン戦と、神戸新聞杯。どちらか一方でも落としたのなら、G1に出走しても意味がないだろう。ならばこそ、そこ二つは絶対に落とさない。鍛え上げ、必ず勝つ。
ウィニングライブも迫った控室の中で、私のクラシック戦線の行方が決まった。
「ところでハイア……お前、ティアラ路線じゃなくて、三冠路線目指してたのな」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてない、な……」
「うわっ……私たちのコミュニケーション、少なすぎ……?」
4月。若駒ステークスの控室での出来事から、およそ二ヶ月。スピードラビットも出走する桜花賞の開催日。いずれ勝つ相手として、その動向が気になっていた私は、寮のテレビで桜花賞の中継を見ていた。
そこで見たものは。
「これが、G1レース」
信じがたいその光景に、思わず呆然と言葉が漏れる。
あれほど強かったスピードラビット。選抜レースでも、若駒ステークスでも、私のスタミナをすり潰して、一人悠々とゴールへと駆け抜けていったその背中。あまりにも遠く感じてた、その背中が。
『ゴール! 桜花賞を制したのは──!』
顔をグシャグシャに歪めて、泣きそうな顔でゴール板を横切るその姿。テレビに映ったのはその瞬間だけで、それきり姿が見えなくなったその扱い。
私が見たもの。それは、
「10着」
あんなにも遠かった背中が、それでも10着に沈むという現実だった。