「ふぅーっ……」
久しぶりの自主トレーニング。指導教官に作ってもらったトレーニングメニューを引き出しから引っ張り出し、一つ一つ丁寧にこなす。授業である程度は動かしていたおかげか、以前と同じように体は動いてくれた。ダラダラ生活で錆びついているのでは、という心配は、どうやら杞憂だったらしい。
シンボリルドルフからの通達から一日後。私は、一ヶ月後の選抜レースに向けた自主トレーニングを始めていた。
別にやる気が戻ってきたわけではない。正直今すぐ寮の部屋に戻り、引きこもってだらけていたい気持ちは強い。頑張ったところで数ヶ月のブランクがある以上、選抜レースで勝つことは不可能だろう。それ以前から勝てなかったわけだし。
ならばなんでこんな無意味なことをやっているのかと言えば、せめてもの言い訳づくりのためだった。
「『退学させられちゃったけど、最後まで頑張ったんだよ』……みたいな。あはは、ばっからし」
自分は最後まで頑張ったんだ、それでも退学になってしまったんだ。だから仕方がない。そんなふうに、自分や周りに言い訳するためのポーズ。ここ数ヶ月ですっかり上手くなってしまった、ヘドロのような現実逃避思考。
何にせよ、せっかく与えられた猶予期間だ。言い訳できるようにトレーニングして、ついでに運が良ければトレーナーをゲットして、そして退学するか、ダラダラした生活を続けられるようにしよう。どちらになっても私は構わない。
「ま、私をスカウトするようなトレーナーも、逆スカウトを受けてくれるトレーナーもいないだろうけど」
むしろスカウトしてくるようなトレーナーがいたら、逆に心配だ。目が見えないままトレーナー業をやっているとしか思えない。選抜レースではどうせ負けるだろうし、トレーニング不足で見るべきところもないだろう。そんな劣等生をスカウトするなど、何か別の狙いがあるとしか思えない。
幸い私の外見は優れているので、下心オンリーでスカウトする、とかね。中央トレーナーにその手の輩がいるとも思えないが、たまに担当ウマ娘と結婚するトレーナーの話も聞くし。その場合、記者会見を見る限り、トレーナーよりウマ娘の顔が輝いていることのほうが多い気がするけど。スパダリトレーナーを捕まえたんだろうなー。
軽い休憩がてら、そんな益体もないことを考える。トレーニングのし過ぎで体を壊しては本末転倒だ。これまで大きな怪我をしたこともないが、だからといってこれからもしないとは限らない。今後の人生に差し支えるような怪我をするのはゴメンだ。
「さて」
とはいっても、身につかないトレーニングならそれもまた意味がない。休憩は程々に。以前の自主トレで、怪我をする可能性が高いラインは身についている。今はまだ大丈夫な範疇。
来月の選抜レースに向けて、少しでも鍛えておく。その行動が、数ヶ月前の自分とそっくりで。違う部分は、勝てないだろうという諦観だけ。その違いを、心底くだらないと自嘲する。
まったく、私はどうして、こんな無駄な努力をしているのやら。同じ無駄なら、あにまんでレスバしているほうが、疲れない分だけ楽なのに。
心と身体は乖離したまま。
私は、意味を感じられない目標に向けて、トレーニングを続けた。
選抜レースの前日になった。
やる気がでないまま続けたトレーニングに、さしたる効果もなく。タイムはほとんど縮まらないし、何かを得たような感覚もない。この一ヶ月のトレーニングは、やはり無駄だったのではないか、なんて考える。まあ、努力したポーズにはなっただろう。自己正当化には十分だ。あにまんでのレスバすら、この一ヶ月ほとんどやれない程度には頑張ったのだから、十分といえる量だろう。
一ヶ月間もトレーニングしていれば、当然のように疲れは溜まる。レースに向けた調整として、今日はトレーニングを休み、疲れを抜く予定と決めていた。
同室のツバキに簡単なマッサージを施してもらい、疲れが残らないようにする。ここ数ヶ月会話をほとんどしていなかったために、頼んでみたら喜んでやってくれた。本当にいい子で、名門出身らしい育ちの良さを感じさせた。
そんなこんなで、やることを一通り終わらせて、後は眠るだけ。
明日になれば選抜レース。そこでトレーナーを見つけられなければ、私は退学だ。
「……ちょっとだけ、覗いてみるかな」
眠りにつく前に、ちょっとだけあにまんを覗いてみることにした。好きなアニメもここ一ヶ月は見ていない。ネタバレを踏まないように、そのカテゴリだけは避ける。そうなると、見るところなど限られてくる。
仕方なしにウマ娘カテゴリを開いた私の目に入ったのは、「明日の選抜レース注目ウマ娘いる?」というスレタイだった。
「……ふーん……」
トレセン学園の選抜レースといえば、コアなウマ娘マニアにとってはある種のイベントだ。年四回あるそれは、学園の部外者にとって、メイクデビュー以前の若駒たちの走る姿を見れる唯一の機会と言っていい。出走者情報などもトレセン学園が公開しているため、直前になると誰が勝つかや、誰が注目株かなどの予想が行われやすい。
あにまんにおいてもそれは変わらない。こうしてスレが立つ程度には、やはり注目されているイベントだ。
なんとなく気が向いて、そのスレを開いてみる。そこでは喧々諤々といった様子で、この子がいい、いやこっちの子がいい、それよりこの子だ、なんてやり取りが続いている。中には上がり3ハロンのタイムデータまで持ち出して来て、この子こそが本命だ、なんて言っているやつもいる。思っていたよりは真面目なやり取りだ。てっきりどのウマ娘が可愛いか、なんて会話ばかりだと思っていたのだが。
しばらくそのスレを眺めていると、私の出るレースについてのレスも見かけた。いくつもある選抜レースのうち、私が出るのは芝の1600メートルだ。選んだ理由は特にない。あにまんのダイスで決めても良かったが、ここ一ヶ月は避けていたため、自分の能力的に最も善戦できそうなレースを選んだ。目的がトレーナー探しである以上、惨敗が目に見えているレースは避けるべきだろう。
レスを追いかけていると、やはりと言うべきか、私の名前は一切出てこない。出てくるのは名門出身のウマ娘が中心で、対抗バとして他の名前が上がるだけ。まあそんなもんだろう、と思いつつ、ふとレスを飛ばしてみることにした。
『ワットハイアは?』
いわゆる自演だ。ここの住民から見たとき、私はどのように見えているのだろう。答えはすぐに返ってきて、その内容を見て、レスしたことを後悔した。
『誰?』
『適性迷子で上がりも微妙。脚質は自在っぽいけど、マヤノトップガンほどの能力もなさそう。穴ですらない』
「…………クソが」
散々な評価だ。知られていないのはまだいい。適切に分析した上で「こいつはない」と判断されたのが腹立たしい。いや最初から勝てると思ってないけど。それでも、こうして実際の評価をされてみれば、思っていた以上に心にくるものがあった。
私だって、あんなに頑張ってきたのに。
私だって、あんなに勝ちたかったのに。
数ヶ月ほどのダラダラ生活を棚上げしつつ、過去の自分を思い出して、惨めな気持ちに苛まれる。目を輝かせながらトレセン学園に入った自分を、今からでも殴ってやりたくなる。首を絞めあげ、地元に帰れと怒鳴り散らしたくなる。
レスをしたことを後悔しつつ、スマホの電源を落とし、ベッド横の机に放り投げた。大きめの音が鳴るが知ったこっちゃない。ツバキには申し訳ないけれど、それを気にする余裕もない。
まったく、こんなことなら最初から大人しく寝ておくんだった。馬鹿なことをしたもんだ。
何故か出てくる嗚咽を噛み殺しながら、無理矢理に瞼を閉じる。明日は選抜レースの日。少しでも体調は整えて、少しでも上手く走れるようにしておかないと。
何のためにそれをするのか、全くわからないまま。そのことに疑問すら覚えず、私は眠りに落ちていった。
そうして迎えた選抜レース本番。私は案の定、見せ場もなくレースを終えることになった。
選抜レース、芝1600メートル。出走者は12人。私は8番。逃げが2人、先行が5人、差しが3人、追込は私を含めて2人。追込を選択したのは、選抜レースを見に来ているトレーナー連中の目に留まりやすいのではないかと考えたためだ。先行策が最も勝率が高く、それを上手くやれるウマ娘はトレーナーに好まれやすい。
しかし、逃げや追込には一種のスター性がある。最初から最後まで先頭を駆け抜ける逃げと、最後の最後でごぼう抜きにする追込は、トゥインクルシリーズのレースでも好まれやすい作戦だ。ウマ娘のレースはある種の人気商売であり、トレーナーの給料も担当の人気に影響を受けると聞く。ならば、そうした派手さのある作戦を選んだほうが、目に留まる可能性がわずかでも上がるのではないかと考えたのだ。
想定外だったのは、逃げの2人が位置取り争いをしたことにより、レース全体がハイペースになったこと。しかも先行策のとあるウマ娘が、そのハイペースを利用して、他のウマ娘のスタミナをすり潰しにかかったことだった。
最終直線までスタミナを残し、抜いてやろうと考えていた私にとって、それは最悪の出来事だ。冗談じゃない、なんであんなウマ娘がまだデビューしていないどころか、トレーナーすらついていないんだ。彼女の作戦にまんまとハマってしまった私は、削りに削られたスタミナを、それでも引きずり出して最終直線で抜きにかかった。
しかし、どうしても最高速度に乗るまでに時間がかかってしまって。ゴールしたときには、私の前にはすでに6人のウマ娘がいた。
1着のウマ娘にすり潰され、結果7着。見せ場も何もあったもんじゃない。こんな結果のウマ娘にトレーナーがつくことは期待できず──つまり、私の退学が確定した瞬間だった。
「は……はは」
ほらみろ、やっぱりダメだった。そんな声が、自分の内側から聞こえてくる。自分の無才を納得してたはずだろう、こうなるということはわかりきっていただろう。一ヶ月頑張った程度でどうにかなるようなもんじゃないと、お前は十分に知っていたじゃないか。
だから、そんなにショックを受ける必要もない。いつものように、仕方なかったと割り切って、寮に戻って荷物をまとめ始めてしまえ。
理解している。理解している。そんなことは十二分に理解しているんだ。
なのに、体が動かないんだよ。どうしても、寮の方に体が動いてくれない。
わからない。わからない。わからない。どうして。
どうして私は、こんなにも。
まだ、
「──り、あに……んで話題にもならないウマ娘じゃこんなもんかあ」
そんな声が、聞こえてきた。
反射的に、視線をそちら側へと動かす。そこにあるのは、一人のトレーナーの姿。
胸に輝く、トレセン学園のトレーナーであることを証明するバッジ。少しくたびれた様子のスーツは、それでも高級そうな質感を伝えてくる。視線を上に向けてみれば、なんとも特徴的な輝く頭。
端的に言ってハゲていた。そのくせ、顔立ちはそこまで老けていない。若ハゲというやつだろう。目が随分と腐っていることだけ気になるが、今はそういった外見情報はどうでもよかった。
こいつ、今「あにまん」って言わなかったか?
そのハゲトレーナーを少し見ていると、そいつはこちらに見向きもせず、スマホを取り出して何やら操作はじめた。その姿と、先程の発言。組み合わせてピンとくる。
急ぎ自分のスマホを取り出して、学園のWi-Fiにつながっていることを確認する。すぐにあにまんを開き、書き込み履歴を開いた。
そこには、自分の書いた記憶のない、直前の書き込みが。
『一人やべーのがいたけど、他の子もそこまで悪くなかったな。8番のストライド、成長すりゃ武器になるぞ』
確信した。あのトレーナーはあにまん民だ──!
その瞬間、衝動に突き動かされる。いや待て、それはほぼ脅迫で、そんなことをして結んだ契約が上手くいくはずがない。制止する理性の声。衝動に任せ、それを無視する。どうでもいい。今だけはそんなものに用はない。
書き込み履歴をとにかく漁る。自分の履歴を無視し、ハゲトレーナーが書いたであろう書き込みから、効果の高そうな書き込みを探す。極端に過激である必要はない、ちょっとだけ下心を滲ませるような書き込みで十分だ。清廉潔白な人間など、あにまんにいるはずがない。必ずあるはずだ。
探し、探し、探し。そして、最下部に一つの書き込みを見つけ出す。
『ワイ中央トレーナー。正直、持て余すことはある』
すぐさま、そのハゲトレーナーに近づく。近づくうちに気が付かれたのか、若干の動揺が伝わってきた。陰キャの気配を感じる。あにまん民だ、同族なのだからその程度は読み取れる。
「トレーナーさん♪」
演出も含め、意識して甘ったるい猫なで声をかける。ハゲトレーナーは若干の警戒を匂わせつつも、こちらの要件を問うてきた。これからすることはほぼ脅迫なのだから、あまり人に聞かれたくない。人気のないところで話したいと伝え、二人揃って移動する。
選抜レースはまだ終わっていない。次のレースがあるために、多くの人の意識はそちらに向いている。人気のないところはすぐに見つかった。そこまで移動し、ハゲトレーナーに向き合う。
「それで聞きたいことって?」
僅かな警戒心を感じ取る。こんな美少女に絡まれているのだから、少しは緩めて欲しいものだ。とはいえ、そんなことはどうでもいい。
私は自身のスマホを取り出し、先程見ていた画面を表示し、ハゲトレーナーへと突きつけた。
そこにあるのは、あにまんへの書き込み履歴。その下心をわずかに滲ませた、学園所属のウマ娘への言及。
理解が及んだのか、顔からあからさまに血の気が引いた様子のハゲトレーナー。それを見た私は、できるだけ悪そうな表情を意識的に浮かべて、
「学園のトレーナーさんがあにまん民だなんてイメ損だゲー」
そういって、ハゲトレーナーに契約を迫ったのだった。
あの衝動が、一体何に由来するものだったのか。何故私は、こんな強引な方法を取ってまで、トレセン学園にしがみついたのか。その理由がわかるのは、まだ当分先の話。
このときの私は、無事に専属契約が結べたことに、安堵したのだった。