5月の東京レース場と言えば、毎週のようにG1レースが開催されるウマ娘レースシーズン真っ只中だ。NHKマイルカップ、ヴィクトリアマイル、オークス、日本ダービー。特にオークスと日本ダービーは、それぞれティアラ路線と三冠路線の第二弾ということもあり、とんでもない人数がレース場に集まる。
今日開催予定のメインレースは、オークス。トリプルティアラ第二弾。樫の女王が誕生するレースであり、スピードラビットが出走予定のレースだ。
私も東京レース場にいるが、別にオークスに出走する予定があるわけではない。ましてや、スピードラビットの応援目的というわけでもない。単純な話で、私が出走する予定のレースが、今日この場所で開催されるというだけだった。
今日の第5レース、クラシック級1勝クラス。芝の1600メートル。神戸新聞杯や菊花賞に向けて、レースの感覚を忘れないようにするためと、今後のレースの出走条件をクリアするためのレースだ。勝てなければ当然ローテーションを見直すことになっている。ハゲ曰く、今の私なら十分に勝ち負けできる条件であるらしい。
そのレースは、
『ゴール! ワットハイアが人気に応え、最初にゴール板を通過しました!』
一番人気で出走し、二着のウマ娘から1/2バ身差ほど先にゴール板を通過することで、勝利を掴むことができた。今でも降り続く大雨と、その影響でドロドロになった不良バ場。長距離に向けてスタミナも鍛えていたことが功を奏した形になった。
息を整えながら、観客席を見る。ちょうど昼時であるためか、人影はまばらだ。残っている人も食事をしながら見ていたりと、あくまでも前座の扱い。
ふと「よくやったぞー!」なんて声が聞こえてくるのでそちらに視線を向けてみた。数人の集団がそこで、私に向けて叫んでいる。
……なんとなく、紫っぽい色の服で統一されているのは気のせいだろうか。腕にあにまんまんの角っぽい装飾に見える、金色のブレスレットを付けているのは気のせいだろうか。気のせいだと信じたい。うん、横断幕に「あにまん民の星」が描かれるような、ふざけたことが起きるまでは気のせいということにしておこう。
耳飾りにあにまんまんっぽいのを使うの、いい加減やめようかなあ……あにまんに入り浸り始めた時期に、なんとなく気に入ったから、それっぽい商品を見つけて買って以来使っている。見る人が見れば、「あのウマ娘、あにまん民じゃね?」「イメ損だゲー」みたいな会話が生まれるに違いないのはわかっているのだが……。
とりあえず、その歓声に腕を上げることで返事とする。するとその集団は、なんだかテンション上がった様子で騒ぎ始めたようだ。声は聞こえないが、ワチャワチャした様子だったり、ウマホを手に取るやつがいたりするので、認知はされただろう。あとでスレ見てみよう。変な話題だったら爆破する。
軽いファンサービスをしたら、さっさと地下バ道へと戻っていく。少し暑くなってきたからか、上がってしまった体温の熱が鬱陶しい。日陰に戻って涼みたかった。
地下バ道を少し進めば、見慣れた輝く頭が見えた。
「お疲れ。一着おめでとう!」
「ん。ちゃんと成長してるね、私」
投げ渡されたタオルを受け取り、びしょ濡れになった体を拭う。それだけでも多少スッキリする。
「これで、次は夏だったっけ。どのレース?」
「ああ、阿寒湖特別を考えている。距離が2600メートルあるから、長距離適性を見るためにもちょうどいい」
「了解」
使い終えたタオルをハゲに返す。そのまま控室に向かう。ウィニングライブは全レースが終わった後に開催されるため、その時間までは自由時間だ。食事をしたとしても、だいぶ時間が余る。
『ワットハイアちゃん、お願いがあるんやけど』
ふと、あの日にスピードラビットから頼まれたことを思い出す。
『アタシ、オークスに出るんよ。見に来てくれへん?』
『は?』
『お願い』
その様子が随分と真剣なものだったから、つい頷いてしまった。よくわからない人だ。併走終わったと思ったら泣き出すし抱きついてくるし、かと思えばオークスを見に来てくれ、なんて頼みだすし。
どうせやることがあるわけでもない。それにG1レースで、いずれ倒す予定の相手が出走するのだ。生で見て、対策を考えるのも悪くないだろう。
「ハゲ、この後だけど」
「レース見るんだろ。わかってるよ」
そう考えて、ハゲに伝えようとしたら、先に予定を当てられてしまった。目を白黒させていると、ハゲがニヤリと笑って、
「憧れの先輩のレースだもんなー?」
なんて、まるで煽るように言ってきた。イラァ。見当違いな内容もそうだし、先読みされたこともなんだか腹立たしい。なので、その輝く頭を一度ひっぱたいておく。
「ぁいった?! お前、頭はやめろ!」
「うっさい。変なこと言うな。あいつは倒す相手だって、何度も言ってんでしょ」
そう、倒す相手だ。必ず、公式のレースで先着してやる相手だ。併走トレーニングでは三回ほど先着したが、あんな気の抜けた相手に先着したところで嬉しくもなんともない。ましてや併走トレーニングだ。レースとは違う。最後の一回はレース並みだったので、負けにカウントしてもいいが、それ以外はカウントする価値もない。
だから、まだ私はスピードラビットに勝てていない。だから、変わらずアイツを倒すことを目指す。G1レースに出たいとも思うが、今はどうしてもそちらに意識が向くから。
絶対に勝つ。次こそ勝つ。背中を見せてやる。だから、今日はその対策をするために、オークスを観戦するのだ。それ以外に理由なんてない。
ないんだって。だからその「やれやれ」みたいな表情をやめろハゲ!
「調子はどうだい」
オークス直前の控室。そこで勝負服に着替え、発走時刻を待ちつつ、集中を高めていた。呼吸を整え、コースの形を思い出し、今日の出走者のレース情報を脳内に展開し、シミュレーションを繰り返す。パターンは無限にある。なので、あくまでも「どういう展開になったらどう動くべきか」という原則を得るためのシミュレーションだ。
いくつか考えついた原則を適用して更にシミュレーション。上手くいく場合とそうでない場合、そうしたものから原則を更に修正。それを繰り返して、最もシミュレーション上での勝率が高そうな原則を見出す。
トレーナーさんに声をかけられたのは、及第点を出せる程度のものを作れたときだった。視線をそちらに向ける。
契約を結んで、一年ちょっと。いい加減見慣れた姿がそこにある。少し前と比較すると、多少痩せたように見えるのは、きっと桜花賞に負けたせい。あの敗北から、随分と負担をかけてしまったと思う。申し訳ない。
いや、その話で言うのなら、それ以前からだ。適性外の桜花賞への挑戦や、新人トレーナーだと知っていたのに、トリプルティアラへの挑戦を押し付けた。加えて、出ない選択肢を押し付けてくるのであれば、別のトレーナーに名義貸しをしてもらおう、なんて恩知らずなことも考えた。
なのに、この人はアタシのことを見捨てなかった。それどころか、あの併走トレーニングの後に、オークスに向けてのトレーニングメニューを徹夜で考えてくれた。本当に、アタシにはもったいないほどのトレーナーさんだ。
「ええ……絶好調です。跳ねたら月まで届きそう」
「それは良かった。でも、月まではちょっと困るかな。迎えに行くのが大変そうだ」
自分の名前に合わせた、ちょっとした軽口。それに笑いながら、当たり前のようにそんな返答。顔立ちが整ったイケメンさんなので、そういう気障な振る舞いすらよく似合う。言ったこっちが恥ずかしくなってしまうほど。
冗談ですよ、なんて誤魔化すように。顔の熱さも一緒に薄れさせるように。まったく、担当ウマ娘のことをヤキモキさせないでほしい。いけずな人だ。
ふと、ワットハイアと彼女のトレーナーの姿を思い出す。自分たちとは対照的で、気安い態度と気安い会話。言葉だけ見れば、いっそ喧嘩しているようですらあるのに、態度まで含めて観察してみれば、気を許し合っていることがよく分かるあの二人。仲がいいのだな、なんて思っていたけれど、こうして自分自身とトレーナーさんの関係性を比較してみると、距離感が随分と違う。
なんとなく、トレーナーさんの顔を見る。アタシに見られたことで、少しだけ不思議そう。考えてみれば、契約してからというもの、彼と「仲良くなろう」なんて考えた記憶がない。アタシにとって「トレーナー」というのは、言葉は悪いがトリプルティアラのための道具だったから。強くしてくれるのなら、誰でも良かった。
彼もまた、アタシとの契約は打算的だったように見えた。名門出身のトレーナーであり、才能あるウマ娘と組んで、自身の能力を証明する。そんなふうに考えていたことは、契約時点からなんとなく知っていた。アタシではなく、アタシの走りの才能を見ている視線。
アタシにとってトレーナーとは道具であり、トレーナーさんにとってアタシは道具だった。これまでずっと、打算的な関係。それで別に構わなかった。
でも今、彼がアタシを見る視線に、契約時の冷たさは感じない。ちゃんと「スピードラビット」を見ていることが伝わってくる。思い返せば、前からそうだったように思う。いつから? それはわからないけれど、きっと、ずっと前から。
その視線に混ざっているものは、なんだろう。見覚えがあるような気がするけれど、わからない。でも嫌なものではなく、どこか心が暖かくなる。だからきっと、悪いものではないのだと、心で理解できる。
「スピードラビット」
ぼんやりとトレーナーさんを見ていたアタシに、彼は声をかけてきた。
「レース前に言うことじゃないのはわかってる。でも、お願いがあるんだ」
「……なんです?」
「オークスが終わった後、少しでいい。君の時間をもらえないか。話したいことが、あるんだ」
その顔が、随分と真剣そうだったから。そして、何か決意したような、そんな顔だったから。アタシは少しだけ戸惑って。でも、その話というのは、きっとアタシたちに必要なものだと思えたから。
「わかりました。オークスの、後に」
「うん。オークスの後、話そう」
約束を交わし、軽く笑い合う。アタシたちの関係性は、ワットハイアと彼女のトレーナーのそれと比べれば、かなり遠い。でもきっと、その関係も今日までになりそうだ。遠のくのか、近づくのか、なんて考えない。
だって、きっと。
そして、オークスのアナウンスが聞こえてきた。
「……行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
出発に挨拶を。控室の扉を開いて、地下バ道へと歩み始める。
そして、アタシの背中に、声がかけられた。
「スピードラビット! 君の勝利を、きっと誰より信じるよ」
その声が、ちょっとだけ震えていたものだから。アタシは少しだけおかしくなって、首だけ振り向いて笑ってみせた。
「信じててな、トレーナーさん!」
ああ、きっと。今のアタシは、誰よりも──。
「さすがG1レース……ここまで人が集まるとは……」
「だな……とんでもないわ……」
食事を終えて、ウィニングライブの時間まで暇になった私は、今日のメインレースであるオークスを観戦するために、レース場の観戦エリアに来ていた。できるだけ間近で見れるように最前列を確保したものの、人が多すぎて圧がすごい。今でも降っている雨が雨合羽を叩く音と、観客の声で耳が垂れてしまう。そういう事情もあり、少しうんざりして先程の声が漏れてしまった。ハゲもそれに同意しているあたり、同じような感想らしい。
オークスの時間が迫り、もうまもなくゲート入り。出走するウマ娘たちがソワソワしている様子が伝わってくる。
そんな様子を見ていた時、すぐ近くから声が聞こえてきた。
「オークスは東京レース場の芝2400メートル。高低差2メートルの急坂や、長い最終直線が特徴のコースだ」
「どうした急に」
本当だよ。どうした急に。ハゲと二人揃ってそちらを見てしまう。
視線をそちらに向けてみれば、雨合羽を被った男性が二人。一人はメガネをかけており、もう一人は痩せ気味の印象。コースの解説をし始めたのはどうやらメガネの男性のほうらしく、随分真剣そうに語っている。
「ティアラ路線なら桜花賞が前走のウマ娘も多い。彼女たちは桜花賞の1600メートルから、オークスの2400メートルと、一ヶ月ほどで800メートルも長い距離を走ることになる」
「三冠路線のダービーから菊花賞より長い距離差なのに、対応するための期間が短いってことか」
「加えて今日は不良バ場、雨まで降っている。間違いなく、スタミナの消費は激しいものになるだろう」
「つまり、このレースは荒れる可能性が高いってことだな」
しかも何か結構参考になるんだけど。本当にどうした急に。なんで観客席にいるんだよ。プロの解説者か何かですか?
つい、その二人をまじまじと見てしまう。視線に気づいたのか、その二人がこちらを見てくる。なんとなくハゲと二人で会釈。どうも。会釈が返される。どうも。よくわからない空気感。うーん。
「あー、えーっと、誰、応援してるんです?」
なんとなく声をかけないといけない気がして、当たり障りのない話題を振ってみる。その話題に、男性二人は顔を見合わせて、ふっ、と笑う。うーん、なんというか、絶妙に似合わないな。失礼だけど。
「そりゃあ」
「もちろん」
にっ、と笑って。
「全員!」
二人揃って気持ちのいい回答。おお、なんかカッコいい。メンタルイケメンだ。ウマ娘レースファンって、たまに酷い民度だったりするしなあ。ミホノブルボンとライスシャワーの菊花賞とか地獄だったらしいし。こういう光のウマ娘オタクがいるのは、レースにでるウマ娘としてなんだかちょっと嬉しいな。
「そちらは?」
感銘を受けて、少し呆けていた私に、痩せ気味の男性が問い返してきた。私? ああ、応援しているウマ娘か。うーん。うーん……認めたくないなあ。でも、頼まれちゃったわけだし。一応目標にしているし、その相手が負けるところなんて見たくないしなあ。
なので。
「スピードラビットです」
ちょっと苦い表情を浮かべながら、返答した瞬間。レース場にファンファーレが鳴り出した。
オークス。ティアラ路線の第二弾。樫の女王を決めるG1レース。出走者は18人で、スピードラビットは12番。作戦の傾向は、事前情報から考える限り、逃げ2人、先行4人、差し7人、追込5人。後方脚質が有利になりがちな東京レース場だからか、やはりその作戦を採用する傾向が強い。スピードラビットは先行を得意とするウマ娘だが、どうなることか。
そこまで思って、自分が何も心配していないことを理解する。桜花賞より長くなった距離も、土砂降りの雨で重くなったバ場も、あのウマ娘にとっては朗報でしかないだろう。むしろ喜んですらいるんじゃないか、なんてね。
思わず笑いが溢れて、改めてレースに意識を戻す。
さあ、オークスの始まりだ。
『樫の女王を目指すウマ娘が府中に集う! オークスで戴冠するのは誰だ!』
ゲートに入っていくウマ娘たちを、これまでザワザワとしていた観客が静まり返って見守る。もちろん私もハゲも、隣にいる二人の男性も。
実況が一番人気から三番人気までのウマ娘を紹介する。その中に、スピードラビットの名前はない。彼女は六番人気。桜花賞での惨敗が響いたらしい。逆に、桜花賞を獲ったウマ娘は一番人気だった。
『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
出走するウマ娘が、ゲートが開くその瞬間を待つ。その集中が、こちらまで伝わってくる。いっそ鳥肌が立つほど。そうか、これが、
「ハイア。良く見ておけ──これがウマ娘レースの頂点、G1だ」
G1レース!
『スタート!』
ゲートが開く音と同時、ウマ娘たちが飛び出した。いや、
『11番と13番、出遅れたか!』
スピードラビットの両隣にいたウマ娘が、一瞬だけ出遅れる。確か11番は逃げ、13番は差し作戦が得意なウマ娘。11番には辛い展開だ、位置取りに想定より脚を使ってしまうだろう。そして13番は、差し作戦の中で好位を取れるかどうか。
ターフビジョンに視線を向ける。そこに一瞬だけ映し出されたのはスピードラビット。
「……ああ、やっぱり」
一瞬だけ映ったスピードラビット。その表情は、策がハマったことを確信した薄笑い。どうやら11番と13番の出遅れは、彼女の何らかの策によるものだったらしい。何かを囁いたのか、あるいは併走のときのような威圧を、ゲートが開く瞬間に飛ばしたのか。
いずれにせよ、レースは進む。案の定11番は最序盤であるにも関わらず、必死に脚を使って前へ。泥を跳ね飛ばし、それでも絡みつくような感覚からか、食いしばりながら走っているらしい。
最初の直線を抜けてコーナーへ差し掛かる。このあたりになると、バ群はある程度固まってきた。逃げ作戦はやはり2人、3番のウマ娘と11番のウマ娘。この2人がレースを引っ張っている。それに続くのが先行作戦の4人。一番前は5番のウマ娘で、それに並ぶように7番が続く。そこから少し下がった場所に12番、スピードラビットがいて、そのすぐ後ろに4番だ。差し追込は人数が多く、この場所からだと確認できない。
ターフビジョンで状況を見る。逃げの2人と先行の4人の距離があまり開いていない。それに引きずられてか、差し追込の集団もつまり気味だ。
「ペース、速くないか?」
隣の痩せ気味の男性が、そんなことを呟く。タイムを見る。不良バ場にしては、確かに速く思える。泥に足を取られやすい不良バ場のレースは、良バ場のレースよりもタイムが遅くなる傾向がある。にもかかわらず、今回のオークスは妙に速く思えた。
「まさか」
ターフビジョンを改めて見る。先行集団を映しているところを注視。相変わらず逃げとの距離はそれほど長くなくて、スピードラビットは先行の半ばにいて、そして、口元に笑みがある。
「うっわあ……」
やりやがった。この不良バ場で、桜花賞から800メートル伸びたこのオークスで。スタミナ配分が極めて重要なこのレースで。どの判断にドン引きする。どんな判断だ。自分のスタミナへの不安はないのか。一歩間違えたら、自分自身だって潰れる可能性があるのに、なんでその選択ができるんだよ。
それは、選抜レースや若駒ステークスでやってみせた、レースをハイペース化させての消耗戦。スタミナをすり潰し、自分の独壇場へと引きずり込む、スピードラビットの得意戦法だ。
「地獄か何か?」
絶対に混じりたくないとすら思えてくる。事実、ターフビジョンに映る一部のウマ娘は、レースが中盤だと言うのにかなり苦しそうだ。逃げ先行の集団だけでなく、どういうわけかスピードラビットからかなり離れたところにいる追込作戦のウマ娘ですら、スタミナを激しく消耗させられたのが2人はいる。
ギリギリ冷静さやスタミナを残していそうなのは、1番、3番、4番、16番。そして12番のスピードラビット。それでも、このレースはスピードラビットに支配されているも同然だ。
「凄まじいな……」
隣にいるハゲが呟く。ハゲも、この展開をスピードラビットが作り出したことに気づいたようだ。あの併走の印象が強い私達2人はまだマシだろう。この展開を作り出す可能性を知っていたのだから。しかし、他の観客や、出走しているウマ娘は違う。桜花賞で10着に惨敗した彼女は、きっと侮られていたから。
「G1、こんなのばっかなの?」
「いや、ここまで展開を操るのは、クラシック級だと異常だな……色々な条件が重なった結果だと思うが……」
てことはシニア級なら普通にあるんかい。こっわ。G1こっわ。そりゃ壁が厚いわけだよ。
意識をレースに戻す。向こう正面の直線を抜け、いよいよコーナーへと入っていく。さあ、いよいよ終盤だ。
正直なところ、全てを狙ったのかと言われれば、そうではないと答えるしかない。
何しろこれはG1レース、どのウマ娘も揺さぶりに対する耐性はある程度はある。なければG1に出走することすら許されない。だから、単純な揺さぶりでは効果が薄いとわかっていた。
それでもこうして、自分にとって三番目くらいに都合の良い展開になったのは、この大雨と不良バ場のおかげだと言っていいだろう。
「はっ……はっ……はっ……が、ぁ、ひゅっ……!」
向こう正面の直線を抜けるギリギリのあたりで、呼吸の乱れる音を聞く。その音は自分の前方、5番のウマ娘から聞こえてくるものだ。散々足音を聞かせ、威圧を飛ばし、つつきまくった成果が花開く。風よけにしていたこともあり、スタミナを吸い取ったようなものだ。
「ひっ……ひっ……ひ、ぐぅ……っ!」
次いで、5番の少し後ろ、アタシの右斜め前あたりにいた7番からも、同じような音。5番とは違って直接追い立てたわけではないが、5番に引っ張られた結果、スタミナを多く消耗したようだ。棚ぼたとは思わない。この2人に関しては狙っていたのだから。
コーナーが迫る。自分の左、内側を見る。ウマ娘はいない。そして、斜行判定されそうな距離にもいない。この調子なら、目の前の5番はコーナーに入ったとき、大きく膨らむだろう。そこを狙って前に出ると決める。
予測したとおり、5番はコーナーに入ってしばらくして、遠心力に耐えられなくなったのか、少し外へと膨らんでいく。7番も同じようなものだ。膨らんでできた空間に、遠心力をねじ伏せながら体を押し込む。風が来る。これまで5番を風よけに使っていたから問題なかったが、こうして直接受けると、やはり若干の抵抗になる。
風を無視して走り抜ける。5番と7番を内側から抜いた。現在順位は3位……いや、4位。
「へえ?」
膨らんだ5番と7番、その更に外。大きく膨らんで、それでも2人を抜き去って、アタシすら飛ばして前へと進むその姿。4番のウマ娘だ。アタシのすぐ後ろにいて、スタミナをなんとか保っていたウマ娘の1人。
僅かではあるが、アタシより前にいる。こちらをチラチラと見ていることから、この状況を作り出したのがアタシであることに気づいているらしい。
今のうちに前に出て、最終直線では塞ごうという考えだろうか。なるほど、桜花賞のときのように、前を塞がれてしまえば、確かに難しくなる。
にぃ、と笑みを浮かべる。意図的に。4番がその笑みをはっきりと認識するように。どうやらちゃんと目に入ったようで、少し焦った表情が見える。
「あらあら、そないに脚使ってでも、アタシの前に行きたいんやねえ」
狙って、4番のウマ娘に囁きかける。お前の狙いはわかっているぞ、と。そうしたいのならそうすればいい、と。ブラフだ。前が塞がれたときの戦略は、正直なところ思いついていない。コーナーを利用して外目に付けておくべきか? 迷うも、4番のスタミナも相当削った後だ。様子を見る限り、最終直線の途中で落ちていくだろうと考え、よしとする。
囁きを聞いた4番が更に速度を上げる。せっかくだから競ってやる。コーナーでの競り合いだ、不良バ場と遠心力で更にスタミナを消費するだろう。少し苦しそうな表情を確認したら、速度をわずかに落とす。まだ最終直線に入っていない、ここで速度を出しすぎれば、潰れるのはアタシの方だ。
最後のコーナーへ。そろそろ、ウマ娘たち全員が、勝利を目指して全力を出し始める頃合い。今行くべきか、まだ待つべきか。その見極めが始まったことを、肌で感じ取る。
だから、ここだ。
「────ふっ!!」
全方位に聞こえるように、大きく地面を打ち鳴らす。それは加速の音にも似て聞こえることだろう。同時に、勝ちに行くぞ、という意識を、可能な限り演出する。
そして、それに釣られたウマ娘たちが速度をあげようと力を込めて。ここまで削りに削られたスタミナを、一気に吐き出す。
掛かった。
『おおっと、多くのウマ娘が、コーナーの途中で早くもスパートをかけ始めた!』
『掛かってしまっているのかもしれません、冷静さを取り戻せればいいのですが』
実況と解説の声に、最後の作戦が成功したことを確信する。
さあ──スピードを上げたことで更に強まった遠心力。それへの対処と加速を同時にするだけのスタミナが、あなた達に残っているかな?
「……ぐ、ぎぃっ……?!」
「は、ぁっ……?!」
歯を食いしばる音と、信じられないような愕然とした気配。それらを知って、ほとんどのウマ娘のスタミナをすり潰せたことを知る。18人のうち7人ほどが、この場所で一気に崩れた。
『不良バ場2400メートルに潜んでいた魔物が、最終コーナーでウマ娘たちに牙をむく──!』
残りは11人。このコースの最後まで持つであろうスタミナが残っていそうなのは、アタシを含めて後5人。忘れてはならない。ここは東京レース場。長い最終直線が特徴的で──
『コーナーを抜け、最終直線へと入っていくウマ娘たち! 彼女たちに、高低差2メートルの坂が襲いかかる!』
──心臓破りの急坂が待っているコースだ!
「そん、な──!」
「こんな、坂、が──!」
急坂を登っていくときに、さらに奪われていくスタミナ。1人、また1人。後方で脚を溜めようとして、それでもハイペースに食らいつくために使わされたスタミナを、さらに消耗して、消耗して。さらに減っていく。
残り、4人!
「はぁ──ッ!」
垂れてきた11番のウマ娘をかわし、脚に力を込めて、坂を登りながら加速する。アタシのスタミナはまだ残っている。確かに想定より消耗しているが、それでも風よけを使って走ったために、ラストスパートに使うだけの脚はまだある!
しかし。
「────え」
脚はまだある。ラストスパートに使って、走りきれるだけの余裕が、アタシにはある。それでも、周囲の状況が、それを許さなかった。
前方には2人。逃げの3番と、先程抜いていった4番。徹底的につついてハイペースを押し付け、自身のペースで走らせなかった3番。そして、先程「最終直線で落ちていくだろう」と考えたはずの4番。どちらも苦しそうな顔をしているにも関わらず、速度を落とさない。根性でスタミナを引きずり出し、最後まで駆け抜けようとしている。
後ろから来るのは差しの1番に、追込の16番。1番が左から。16番が右から。アタシを挟むようにして、3番と4番を抜こうと加速して接近してくる。この距離で進路を潰せば、ほぼ確実に斜行判定。
すなわち。
「包囲網──?!」
きっと、彼女たちは狙ったわけではないだろう。必死に勝利を目指し、アタシに削られたスタミナを根性で補う中で、自然発生した包囲網。ゴールまでの距離は短く、ここから一旦後ろに下がって、その後に抜くような選択をすれば、間違いなく届かない。
「ぐ、ぅ……ッ! だが、まだだッ!!」
前を行く4番から、気合が届く。彼女はさらに若干左に寄って、アタシの進路を潰しにかかる。斜行ギリギリの行為だが、勝つために必死なのだとわかっている。アタシだって、同じ状況なら同じことをやるだろう。
「抜かせ、ない──ッ!」
4番の隣から、3番の声。逃げはアタシのスタミナ削りの影響を最も受けたはず。にもかかわらず、必死で脚を回して、アタシの進路を作ってくれない。
「ここは、ここだけはッ! 私が、獲るんだ!!」
右後ろから、16番の祈りを聞く。追込だから削りづらかったのはわかっている。ハイペースを押し付けられ、脚を溜める余裕が普段よりなかっただろうに、勝利のために根性を尽くす。
「渡す、もんか──ッ!!」
左後ろから、1番の叫び。樫の冠を求めて、桜の女王が後ろから襲いかかってくる。ああ、桜の女王であるあなたも、まだ残っていた。女王のプライドにかけて、負けられないと叫んでいる。
前には2人。進路はほぼ潰されている。
右には1人。外に膨らむことは許されない。
左にも1人。内に入り込む選択肢は消された。
つまり、アタシは、前にも、右にも、左にも、進む道がない。桜花賞のときのように、進む道全てが潰されている。
「く──ッ!」
失策。それが頭をよぎる。もっと外に出ているべきだったか? もっと内側に入り込むべきだったか? あるいは、もっと逃げを煽って、スタミナをすり潰して、道を作れるようにしておくべきだったか? もしくは、最終コーナー直前で4番を煽ったことが問題だったか?
わからない。どうする。どうする。どうする。
考えても、考えても、考えても、道が見えない。どこへ行けばいい?
右を見る。すぐそこにウマ娘がいる。
左を見る。すぐそこにウマ娘がいる。
前を見る。すぐそこに2人のウマ娘がいる。
お前が前に行く余地など与えないと言わんばかりに、アタシは完全に囲まれていた。
桜花賞の敗北が、脳裏をよぎる。前が壁で、外に向かうロスは選べず。そしてそのまま潰れていったあのレースを思い出す。
嫌だ、嫌だ嫌だ! このオークスだけは! このレースだけは、勝ちたい!
あの子に見せるんだ、アタシが、憧れるに相応しいウマ娘なんだって! アタシを救ってくれたあの子に! 目指すべき目標として、いつか倒したい相手として、樫の女王になるんだ!
それでも、道は開かない。嫌だ、なんて嘆きを、三女神は受け入れてくれない。ああ、ああ、溢れていく。溢れていく。どうして。
どうしようもなくて、思い浮かばなくて。諦めが、アタシの中に忍び寄ってきて。心が折れそうで。
そのときに。
「ラビットォオォオオ────ッ!!」
その、声が聞こえた。
観客席を見る。声の主はわかっている。その場所にいることを知っているから、すぐに見つかった。
アタシのトレーナーさんが、顔をグシャグシャに歪めながら、それでも、こちらを見ている姿が、すぐに見つかった。
「まだだ! まだ諦めちゃダメだ!」
届け、届け、届け、と。祈りのような叫びが、アタシの耳に届いている。こんなに遠いのに、彼の声がはっきりと聞こえてくる。それは、きっと。彼が、アタシが勝つことを、他の誰よりも信じてくれているから。
その心が、アタシの心に、声を届けているのだとわかる。
「だって、君が、君こそが──!」
そうして、アタシは。あの控室で見た、彼の目にあったものを知った。
「僕の目には、誰よりも輝いて見えるから──!!」
その君が、負けるなんてありえない。そう叫ぶ彼の目には、あの日、ワットハイアの目にあったものと同じものがある。キラキラした、輝かしい、尊いものを見つめる目。憧れを見る目。
アタシが、ずっとずっと欲しかった、何よりも求めたその視線が、トレーナーさんの目から、届いた。
「あ、ああ──!」
まるで、時間がゆっくり流れているよう。あの日、ワットハイアからもらったこと。そして今、トレーナーさんからもらい続けていたことを知って。その暖かさが、その充実感が、アタシの中に満ちていく。
レースに負けそうなのに、道がないのに、幸せな気持ちで満ちていく。
欲しいものは、ずっと前から手の中にあった。そのことが、どうしようもなく、嬉しい。
一瞬、目を閉じる。そして、自分に問いかけた。
このままだと負ける。そのとおりだ。
進む道もない。そのとおりだ。
なら、ここで諦める?
その、最後の問いかけに──
「絶対に、諦めない!!!」
──否を叩きつけられたことが、誇りになる。
さあ、目を開け。そして考えろ。このままだと負けるぞ。そして道はないぞ。お前が樫の女王になるために、この状況をどう覆す?
前に二人、左右に一人ずつ。この状況をどうやって、お前は崩し、勝利を掴む? スピードラビット。
不可能である、なんてことは考えない。だってアタシは、ワットハイアの目標で、アタシのトレーナーさんが信じている輝きなのだから! アタシのこれまでの全て、輝きに憧れたあの瞬間から、まさに今オークスで走っているこの瞬間に至るまでのどこかに、必ず突破口はある!
思い出せ。これまでの全てを。使えるものはなんだ。幼い頃に積み上げた基礎トレーニング。スタミナと戦術眼が伸びやすいと知った。トレセン学園で続けたトレーナーさんとの時間。自分の武器を伸ばし続けた。あの日の併走。自身の武器を示し、最後まで背中を見せた。今日のオークス。逃げ先行を掛からせてハイペース化させた。最終コーナー直前では、近くにいた4番相手に囁いて、競って、更にスタミナを削った──
──見つけた。
「────は」
そして、その答えにたどり着いた。なんだ、簡単。答えなんて、一つしかないじゃないか。先程思いつかなかったことが不思議なほど。スタミナ削りは確かに機能している。その証拠に、残り4人は誰もが根性で走っており、必死の形相。これが示しているのは、4人全員のスタミナが枯渇していて、誤魔化しながら走ること以外に集中を向けられていないという事実。
ならば、アタシにできることなんて、この状況であっても一つだけ。そうだ、いつもと同じ。いつもと、同じように。
足を地面に叩きつけ、全方位を睨み据える。ビクリと震える4人の体を見て、
「退き」
ただ、一言を叩きつけた。
退け。退け。退け。そこはアタシの道なのだから。アタシが、あの2人に輝きを示すための道なのだから。退かないというのなら、無理矢理にでも食い破ってやるぞ!
その瞬間、前方の二人のフォームが、一瞬だけ崩れる。極限の集中状態にあった彼女たちが、アタシの揺さぶりによって、その集中を乱された瞬間だった。
道が開く。フォームが崩れ、3番はわずかに内側に。4番はわずかに外側に。その間に、ぽっかりと、ほんの僅かな隙間が生まれた。
その崩れた隙間、一人だけ体をねじ込めそうな、その隙間に。
「このオークスは──アタシの、もんだァアァアアアッ!!!」
思い切り、飛び込んだ。
頭が僅かに前に出て、そして広がった視界の左に、ゴール板が映る。右にもまた、遠くの観客席にいるトレーナーさんの笑っていく顔以外には、何も見えず。
その光景に、樫の冠を確信した。
『ゴォオォオオ────ル!! 包囲網から抜け出して、スピードラビットが樫の冠を手にしました──ッ!!!』