第五話 ワイちゃん、トレーナーと喧嘩するってよ

Last-modified: 2022-11-13 (日) 20:53:03

 ──あの声が、あの視線が、あの言葉が、あの恐怖が、忘れられない。

 未勝利戦。阪神レース場。ダート、1200メートル。良バ場。
 メイクデビューで二着に終わった私は、一ヶ月ほど期間をおいた上で、未勝利戦に挑んでいた。前回とは条件を大きく変えて、阪神レース場のダート戦。後方に位置すると土煙を浴びてしまい、走りづらくなると考えたため、今回の作戦は逃げを選択していた。
 緩やかな下り坂を利用しつつスタミナを温存。最後の坂に向けた準備。直線に入った時点で、およそ3バ身ほどの差。今度こそ勝てそうだ、と確信を抱いて、

『貴様はこの舞台に相応しからず』

 刀のような幻聴を、聴いた。

 速度がガタ落ちする。恐怖に体が縛られ、上手く動かせなくなる。後ろから駆け抜ける音。その音はすぐに私を捉えて、横を抜けていって、そして。
 私はまたしても、勝利を逃したのだった。




 ──あの声が、あの視線が、あの言葉が、あの恐怖が、忘れられない。

 未勝利戦、二回目。函館レース場。芝、1800メートル。稍重。
 一回目の未勝利戦で勝利を逃したため、さらに一ヶ月ほどトレーニング期間を置き、未勝利戦へ。直線が短いコース設計であり、最終直線だけでの勝負には向かない。長い間足を使えると有利と知ったことから、今回は捲りで行くことに決めた。
 半分ほど過ぎたあたりから加速し始める。坂道を登りながらとなるが、これを見越してトレーニングでスタミナを付けたり、序盤から風よけを利用させてもらったりしたため、問題はない。コーナーの途中で先頭に立つ。最終直線に立ち、あとはペースを維持して走れば、今度こそ、と考えて、

『疾く、降りよ』

 刀のような幻聴を、聴いた。

 速度がガタ落ちする。恐怖に体が縛られ、上手く動かせなくなる。後ろから駆け抜ける音。その音はすぐに私を捉えて、横を抜けていって、そして。
 私はまたしても、勝利を逃したのだった。




「よし、地元帰ろう」

 メイクデビューと、二回の未勝利戦での敗北。それらを味わった私は、中央レースの厳しさを痛感し、こりゃ無理だという確信を得るに至った。いやー、中央の壁厚いっすね。私ごときが走って勝てるとか思い上がりもいいとこでしたわー。
 一度そう決めると、一気に心が楽になった。もうトレーニングする必要もない。もうこれ以上レースに出る必要もない。トレセン学園のご飯は惜しいが、まあ勝てないウマ娘がいつまでも居座っていても問題があるだろう。実際、シンボリルドルフから退学勧告案の話をされたとき、そういう生徒を置いておく余裕はない、って言ってたし。

 軽くなった心持ちで、トレーナーとの契約を管理している部署に足を運ぶ。そこで契約解除のための書類を受け取る。あのハゲにもなんだかんだで世話になったわけだし、ちゃんと挨拶くらいはしないとな。私だって、それくらいの礼儀はわきまえている。
 それにしても、契約解除書類を渡してくれた事務員のお姉さん、なんか随分変な顔してたな。なんかこう、少し心配そうな? こんなにスッキリした心持ちでいるのに、なんであんな表情をしていたのだろう。もしかすると、契約解除するウマ娘とトレーナーの愁嘆場を何度も見てきたのかもしれない。それで、私についてもそうなるかも、と感じたのかも。
 大丈夫だと思うんだよなー。何しろ私とあのハゲだ。私が脅迫して、無理やり突き合わせていたのだから、あちらからしても願ったり叶ったりだろう。円満とはちょっと違うだろうが、それでも拗れるようなことにはならないだろう。うん。

 契約解除書類に、必要事項を記入する。と言っても、そこまで多くの情報を書く必要はない。せいぜい名前と、契約解除理由が重要なくらいだ。自分の名前を記入し、契約解除理由のところに「ウマ娘の希望退学のため」と短く書く。バカ正直に「勝てないウマ娘が学園に所属していても意味がないため」なんて書く必要はないだろう。
 後はハゲに記入してもらえればそれで終わり。簡単なものだ。契約するときは選抜レースで活躍したり、何かしらでトレーナーの目に止まらないといけないのに。アンバランスさが少し可笑しい。

 書類を持ちながら、トレーナー室への廊下を進む。静かに小走りをしていたが、よく考えてみれば、地元の学校に帰れば廊下は歩くものになる。今のうちから矯正しておいたほうがいいだろう。ああ、いやでも、この変な校則もトレセン学園の特徴だ。辞めるまでは多少味わっておいても損はないだろう。そんなことを考えて、やっぱり静かに小走りする。

 トレーナー室は近づいてくる。その前に、ふとあにまんを覗くことにした。面白いスレ、なんかあるかなー。ブラウザアプリに開きっぱなしにしていたあにまんを眺めると、どうやらウマ娘カテゴリのようだった。見ても仕方ないし、すぐ別のカテゴリに移ろうとして、一つのスレが目に入る。

『ワットハイアは抜ける』

 おっと、ウマシコスレか? しかも私の? ほーん、まあ私は見た目はいいからな! こういうスレが立つのも仕方あるまい。だが爆破してやる。規約は守って楽しくレスバ!
 そんな考えとともに、私はそのスレを開く。その最初にあったのは、一つの画像。

 私が、ゴール直前で抜かれている画像だった。

「…………」

 未勝利戦、二回目の画像だ。あれからさほど日は経っていない。抜かれた瞬間の光景は記憶に新しく、あの刀の幻聴もはっきりと覚えている。あの日の私は一番人気で、途中までちゃんと一着で、でも最後は。

「……なんだ釣りスレか」

 言いつつ、タブを閉じる。ブラウザアプリも一緒に落とした。よく考えてみれば、こんなことをしている場合ではない。さっさとハゲのところに行って、契約解除書類にサインしてもらわないと。
 少しだけヒビの入った端末の画面を、見て見ぬ振りをして。私は、もう目前にあったトレーナー室の扉を開けた。

「おっす、ハゲ。ちょっと予定あって遅れちゃった」
「そういう時は連絡してくれ……何かあったのかと思ったぞ」

 部屋の中では、ハゲが一人業務用のPCに向かっていた。声をかけてみれば、視線をすぐに外してこちらに寄越す。相変わらず眩しい頭をしている。そういえば、契約解除して学園を退学するとなれば、この眩しさともお別れか。そう考えると名残惜しい……いや全然そうでもないな。眩しさが普通に鬱陶しいだけだわ。

「……ワットハイア、何かあったか?」

 軽い挨拶を交わした直後、ハゲが心配そうな表情をしながら、そんなことを聞いてきた。はて、心配そうな表情? 質問自体もよくわからないが、表情もわからない。なんで先程の事務員のお姉さんと似たような表情を、ハゲが浮かべているのだろう。
 その疑問の答えが見つからず、奇妙な心持ちになる。もしかして、私の様子が変なのだろうか。いつもと同じつもりなのだが。

「べっつにー。あー、でもさっき変なスレ覗いちゃったから、もしかしたらそれかもね」
「……お前、まさか」
「あれ、ハゲもあのスレ見たの? 別に怒んなくたっていいって。ただの事実じゃん」

 へらへら笑いながら、ハゲに向かって気にするまでもないことを伝える。実際、ただの事実だ。私は抜ける。レースの最後に。何も間違っていない。

「つーか、ハゲ。あんた私のシコスレ覗こうとしたの? うわキッショ」

 ジト目でハゲを見る。仮にも契約関係にあるウマ娘をそういう目で見ているとすれば、以前脅迫に使った内容よりも致命的だ。録音しておけば何かに──今日で契約切るんだった。意味ないわ。
 煽るような会話を続けようとする私を、しかしハゲは真剣な面持ちで見ている。その表情で、この方向性の会話が、継続できないことを悟った。まったく、心の準備くらいさせてくれたっていいだろうに。

 ため息を一つ。こうなってしまっては仕方ない、さっさと終わらせるとしよう。

「ワット──」
「ハゲ。これ、書いて」

 言って、ハゲに契約解除書類を突き出す。突き出された書類を見たハゲは、一瞬何を見せられたのか理解できない様子だった。次いで、何か痛みを覚えたような……思い出したような反応。しかしその反応はすぐに消えて、目を閉じて深呼吸を、一つ、二つ、三つ。
 予想とちょっと違う反応に、私は少しだけ怪訝に思う。思い出したような反応から察するに、過去の担当ウマ娘との契約解除のことを思い出したのだろうか。ハゲの過去など知らないから、実際のところはわからないが。

「確認させてくれ。俺とは別のトレーナーが見つかったのか?」
「見つかってないね」
「なら、この書類が意味するのは、そういう意味でいいんだな?」

 「そういう意味」。つまり、トレセン学園からの退学を指していることは、すぐにわかった。首肯する。ハゲはその動きを見て、そうか、と短く一言。
 トレーナー室に沈黙が満ちる。気まずくはあるが、まあ契約解除などというイベントだ。多少の気まずさなど織り込み済み。ハゲがさっさと書いてくれればそれでいいのだが、ハゲの側にも都合があるだろう。しばらくは付き合うことにする。
 しばらく瞑目し、天井を見上げていたハゲが、目を開いてこちらを見据えてくる。

 その目に、思わず気圧された。何か、覚悟を決めたような、そんな熱の宿った目。

 おかしい。先程の心配そうな表情もそうだが、なんでそんな目で私のことを見る? そんな、私のことを慮るような熱を持った目で、こちらを見てくる?
 だって、ハゲにとって私は、脅されたから仕方なしに契約したウマ娘というだけだろう。そこから数ヶ月一緒にやってきたが、だからといって初対面の悪印象が拭えたとは思っていない。そういえば、と思い出す。メイクデビューが決まった日のこと。あの日、ハゲは私のタイムが縮んだことを、自分自身のことのように喜んでいた。わからない。なんでこの人は、脅迫してきた相手に、ここまで親身になっているのだろう。

「ワットハイア、聞かせて欲しい。なんで、その選択をした?」

 その質問に、ハゲが何を覚悟したのかを知る。つまり、私の心に、踏み込む覚悟をしたのだ、と。
 改めて、不思議に思う。理解できない。だって、私は脅迫してきた相手だ。無理やりトレーナーとしての役割を押し付けた側だ。この人からすれば迷惑な話で、辞められるというのならすぐに辞めたいことだっただろうに。なんで。
 動揺するまま、その質問に答えた。

「い、いやー。だってほら、私って弱いじゃん? メイクデビューで負けて、未勝利戦でも負けてさ。それより前から選抜レースでだって7着で、もっと前なら模擬レースでだって一回も勝ててないし。ほら、こんな弱っちいウマ娘が、中央にいたって仕方がない、って言うか──」
「つまり、地元でやりたいことができたとかじゃないんだな。勝つことを諦めたというわけでもないんだな」

 動揺のまま立て続けに話す私を、更に揺らす言葉。覚悟を決めたような、熱を持った目が、私を射抜く。その視線に耐えられず、私は言葉を続ける。

「じ、地元でやりたいことがあるわけじゃないのはそうだけど……勝つことを諦めたとかじゃなくて、どうせ勝てないんだからいても仕方ないって話で」

 その言葉は、尻すぼみなもので。最後のあたりは口の中でだけ喋っているような、そんな小さな音にしかならなくて。
 なんで、私はこんなに動揺しているんだろう。なんで、私はこの人の問いに、素直に首を縦に振ることができないんだろう。

 わからない、わからない、わからない。私は自分がわからない。これまでも何度も何度も感じてきた、自分がわからないという感覚。それが今再び、私を包んでいる。
 わからない。そう、わからない、だ。

 私にはわからない。なんで「トレセン学園を辞める」という選択の理由を問われただけの質問に、こんなに動揺しているのか。
 私にはわからない。なんで「勝つことを諦めた」と言えず、「勝てないから仕方ない」としか言えないのか。

 そして、私にはわからない。なんであの日、脅迫なんて手段を使ってまでトレセン学園にしがみついたのか。

 私には、どれもわからない。わからない。わからない──。

 ──わかりたく、ない。

 その思いが、自然と浮かんだことに驚く。そんな私に、目の前の人は、

「条件だ。お前が『勝つのは諦めた』と言ったなら、俺はその書類にサインをしよう」

 そんな、条件を。
 頭が真っ白になる。何を言われたんだろう。何を言っているんだろう、この人。

「は、はあ? なにその煽り。これだからハゲは」
「俺がその書類を受取る条件は、『勝つのは諦めた』とお前が言った場合だけだ。それ以外の言葉は聞かん」

 意思の堅さが、伝わってくるような。覚悟を決め、こちらに向き合ってくる力強い目。いっそ怖さを覚えるほどに、ワットハイアというウマ娘に、真正面から向き合っている目だった。

「は、はは、そんなの、簡単だし。言えば、いいんでしょ。言えば」

 ぶつ切れの言葉。言ってやる、言ってやる、言ってやるとも。簡単だ。たったの9音。それだけ口に乗せればいい。

「私は、勝つのを」

 4音増えた。息継ぎもした。でも、残りは5音。ほら見ろ、簡単なことじゃないか。あと5つの音を口にすれば、私は、

「あき……あきら、め……」

 私は、トレセン学園を、辞めて、それで。
 たった1音。ほんの1音。それだけだ。あとは、それだけ。
 それだけのはず、なのに。

「あ、あれ……なんで……」

 どうしても、最後の音が、言えなかった。いくら言おうとしても、どれだけ言おうとしても、自分の体じゃないように、動いてくれない。
 それはまるで、選抜レースの直後、この人に契約を迫った、あのときのようで。

「わ、わた、わたし、は……」

 再度のチャレンジは、最初の1音すら発することができない。
 わからない。わかりたくない。なんで。なんで。なんで。

「…………ッ! あ…………ッ!」

 ついに、何も言えなくなる。呼吸すら苦しくて。目の前が、なぜだかぼやけていて。目の前の人の顔も、見ることができない。

「私、は……ッ!」

 次に続けたい言葉も見つからず、何も言うことができず。水中でもがくような、そんな有様の私に、

「ワットハイア。勝つことを諦めて、それでいいのか」

 そんな、トレーナーの声が聞こえて。瞬間、目の前が真っ赤に染まって──




「諦めたくないに、決まってるでしょうが!!!!!」




 気がつけば、トレーナーを押し倒して、首根っこを掴み顔を引き寄せながら。
 まるで血を吐くように、泣きながらそう叫んでいた。

 目頭が熱くて。涙が止まらなくて。これまでの辛さが、苦しさが。

 悔しさが。心の中に溢れている。

「何やっても勝てない、どうやっても勝てない! どれだけトレーニングしても、どれだけ勉強しても、一着を取れない!」

 堰を切ったように叫ぶ。
 見て見ぬ振りをしてきた、その傷。最初の模擬レースで負けた瞬間から、ずっとずっと痛くて、今でも塞がっていない傷。血を流し続けて、止まらなくて。心を腐らせるように血を流し続けていて、痕にすらなってくれない傷。
 その傷から流れ出て、ずっと心に溜まり続けた血を、言葉にして吐き出していく。

「頑張ったんだ……! なのに勝てなくなって悔しくて、もう一度今度こそはって繰り返して! なのに、なのに……!」

 わからない。わかりたくない。だって、わかってしまえばこんなにも心が痛い。ずたずたになった心が、傷だらけの心が、血を流し続けている心が、こんなにも痛い。気がついてしまえば、この痛みに正面から向き合わないといけなくなるから。だから、負けて負けて負けて、ずっとずっと傷だらけになった心になんて、気がつきたくなかった。

「ずっと、勝てなくて……お前なんか、いなくてもいいんだ、って言われているみたいで……」

 勝たなければ、誰にも見向きされない。勝たなければ、次のステージに進むこともできない。勝たなければ、勝たなければ、勝たなければ。自分の価値を、証明し続けなければ。
 中央はそういう場所だ。日々開催されるレースで、勝ち負けが決まり続ける評価の地獄。勝てば認められ、負ければ捨て置かれる。そんな場所で、私は負け続けた。何度も、何度も、何度も。

 それが、どうしようもなく悔しくて。私だって勝ちたいと思っていたのに、勝てない現実が痛くて。だから、忘れるように蓋をしたんだ。

「なんで……どうして暴くんだよ……忘れさせててよ……こんなに悔しいって、痛いって、思い出させないでよ……」

 「トレセン学園を辞める」という選択の理由を問われたことに動揺したのは、勝てない痛みを直視したくなかったから。
 「勝つことを諦めた」と言えず、「勝てないから仕方ない」としか言えなかったのは、諦めたくなんてないのに、諦めなきゃいけなかったから。

 そしてあの日、脅迫なんて手段を使ってまでトレセン学園にしがみついたのは、それでもまだ勝ちたいと、そう思っていたから。
 それでも、勝てないことが怖くて。また負けて、この痛みが増えていくことが、怖くて。だから私は、色々なことをわからないフリをして。

 そして、勝てなくても傷つかないように、予防線を張りながら走り続けたんだ。

「……脅したの、謝るから……こんな痛み、忘れたままでいさせてよ……」

 最後はもう、力のない嘆願だった。首根っこを掴んでいた腕は、気がついたら垂れ下がり。私はトレーナーに乗ったまま、ぼろぼろと涙を流していた。なんて無様。でも、そんなことを気にしてられないほどに、22個の敗北の傷が、私の心を苛んでいる。
 痛い。痛い。痛い。立ち上がれないほどに、何かを言うこともできないほどに。だから、

「負けたときの悔しさって、痛いよな。わかるよ。本当に、よくわかる」

 痛そうな声が、耳に届く。それは間違いなく、私が感じている痛みを、経験したことのある人の声だった。

 視線を向けてみれば、トレーナーは何かを思い出すような遠い目をしている。過去の担当ウマ娘のことを思い出しているのだ、と理解した。それでも何も言えずにいると、トレーナーが話し始める。

「俺の最初の担当ウマ娘は、一度も勝てないまま引退した」

 酷く後悔しているような声音で、そのウマ娘に対してもっと何かしてやれたんじゃないか、なんて思いが伝わってくる。二人で精一杯努力して、掴んできた最善であろうとも、もっと何かできたんじゃないか、してやれたんじゃないかと悔いている。

「悔しかったよ。何度挑んでも負けて、そのたびに二人揃って泣いて、もう一度今度こそは、って言いながら頑張って」

 それでも、最後まで勝てなかったんだ、と。嘆くように。悔いるように。

「最後に『勝てなくてごめん』って謝られたよ。あれは効いた」

 そして、傷を開くように。トレーナーは、過去の自分を吐き出した。
 この人にも、そんな過去があったのか。そんなことを、今更になってようやく知る。担当契約を結んで、もう何ヶ月も経つのに。メイクデビューも終わらせて、未勝利戦だって2回も挑戦しているのに、私はトレーナーのことを、何一つとして知らなかった。

「ワットハイア。トレーナーとウマ娘が、なんで専属契約するかわかるか」

 そして、トレーナーは私の目を見て。そんな質問を、投げてきた。

「……そんなの、トレーニングして、レースに出るためじゃ」
「違う」

 トレーナーは、すぐに私の回答を否定した。困惑する。だって、ウマ娘とトレーナーは、ただの契約関係だ。トレーナーはウマ娘を鍛えて、ウマ娘はトレーナーに鍛えられて、そしてレースに出て、勝つことを目指す。それだけの関係ではないのか。




「答えはな。このクソみたいな勝負の世界で、それでも前に進むために、支え合う相手が必要だからだ」




 その答えに、目を見開く。だって、その答えは、つまり。この悔しさを。この痛みを。

「勝ったときの喜びも──もちろん、負けたときの痛みも。二人で分かち合って、前に進むために、トレーナーとウマ娘は契約するんだ」

 誰かと、分け合えるということ。一人で、耐えなくてもいいということ。目をそらしたくなるような辛さを、直視したくないような苦しさを、蓋をして忘れたくなるような、この傷を。
 トレーナーが、半分だけ背負ってくれるということ。

「脅されて契約したことなんて、実はもうどうでもいいんだ」

 お前は随分と気にしているようだけど、なんて、苦笑交じりでトレーナーが言う。その言葉で、私はまた混乱する。だって、脅迫したんだ。まだ勝ちたいからトレセン学園にいたい、なんて身勝手な理由で、この人を縛り付けた。無理やり担当契約を迫った。そのことが、どうでもいい?
 トレーニングの成果が出て、タイムが縮まったときのことを、もう一度思い出す。自分のことのように喜んでいたその姿。どう見ても、脅迫されているから仕方なくトレーナーをしているのではなく、自ら望んでやっているようにしか見えないその姿。
 だから、「脅迫されたことなんてどうでもいい」という言葉が真実だとわかる。

「模擬レースの動画、見たよ。毎回走り方を変えて、毎回体を仕上げてきて、もがいている姿を見た。
 選抜レースだって見てた。直前まで鍛えてきたんだろうって、十分わかった。
 そして、この数ヶ月一緒にトレーニングをしてきた。キツくてしんどかっただろうに、結局一日もサボらずに鍛えてきたのを、俺は見た。
 お前がずっと頑張ってきたことを、俺は見てきた」

 自分の過去のこれまでを、トレーナーが一つ一つ上げていく。
 苦しかった模擬レースの時期を。勝てなかった選抜レースを。ずっと必死にやっていた、これまでの全てを。

「足掻き続けている姿に、救われたんだ。勝手だけど、これまでの自分たちを重ねてさ。だから、脅されたことなんて関係なく──お前と一緒に、このクソみたいな勝負の世界を、進んでいきたいって思った」

 これまでの自分を、全部肯定されたような気がして、それが情けないことに、なんだかすごく嬉しくて。さっきまでの痛みとは別の涙が、鬱陶しいくらいに出てきて。その涙が熱くて。

「なあ、ワットハイア。まだ『勝ちたい』と思っているのなら、もう一度だけ頑張ってみないか。今度こそ、二人で一緒に」

 その言葉が、暖かくて。

「……うん」

 気がつけば、私はそんなふうに首肯していた。




「恥ッッッッッッッッッッッッッッッッッッズ!!!!!!!」

 涙も止まり、ハゲを押し倒したことで荒れてしまったトレーナー室を片付け、次第に落ち着いてきたところで、思わずそんなふうに叫んでいた。いやだってそうだろう。あんなに大泣きして、あんなに叫びまわって、しかも自分の心をぶちまけて。
 うおおおおおお、穴があったら入りたい……! なんで私はあんな、ハゲに……クソがっ!

 頭を抱えて悶ている私を、そのハゲが白い目で見ていた。そして一言。

「うわあ……いきなり頭抱えてのたうち回り始めたようちの担当ウマ娘……引くわー」
「うるっせえ!!」

 そりゃ私だって傍から見たら気持ち悪い動きしてるって自覚してるよ! でもさっきまであんなに「二人で一緒に」とかクソこっ恥ずかしいこと抜かしていた外見ハゲのクソ中年だって似たようなもんだろうが!
 指摘してやると、ハゲも先程の自分を思い出してきたのか、顔が赤く染まっていく。

「あれぇー……? 俺もしかしてめっちゃ恥ずかしいこと言ったんじゃない……? 冷静に考えてみると、なんかめっちゃ恥ずかしいこと言ってない……?」
「ほら見ろぉ!」
「うーわーあー……うーわーあー……恥ッッッッッッッッッッッッッッッッッッズ!!!!!!!」

 大声でハゲが叫ぶ。そして先程までの私と同じように、地面でのたうち回り始めた。うん、すごく気持ち悪い。
 なので、とりあえず。

「うわあ……いきなり頭抱えてのたうち回り始めたようちのトレーナー……引くわー」
「うるっせえ!!」

 ふはは、自分の言葉でカウンター食らうのは悔しかろうが! ざまあ! 私だけ恥ずかしがるとか認めねえぞ!

 お互いに真っ赤な顔で、先程までのやり取りをからかい合う。そうでもしないと、普通の状態に戻れそうにない。恥ずかしかったとは言え、嬉しかったのもまた事実。頑張っていこう、という気持ちになったのも事実。だけど、多少茶化しでもしないと、これからのやり取りに差し支えそうだった。

 ひとしきり現実でのレスバをしあって、お互いの恥ずかしいところを指摘しあって、揃いも揃って悶えて頭抱えてのたうち回って。そして、疲れ果てて。トレセン学園に入って以来、すごくスッキリとした気分になって。

「ねえハゲ」
「ハゲ言うな。なんだよ」

 改めて、向き直る。やたら動いたせいで、二人揃ってボロボロだ。埃はついているし、ハゲの来ているワイシャツはほつれが見える。あ、違う、あれは私が首根っこを掴んだときのやつじゃん。まあいいや。
 ボロボロで、ハゲてて、なんだか情けなさそうな姿。これが、私の担当トレーナー。私と一緒に、地獄を歩んでくれる人。絶対に言ってやらないけど、私の心を支えてくれた人。
 その人と、ちゃんと向き合う。脅し脅されの関係ではなく、担当ウマ娘と、担当トレーナーの関係として、ここからちゃんと始めよう。

「色々あって、挨拶も遅れたけど。これからよろしく」
「……ああ、よろしく、ワットハイア」

 感慨深げに言ってのけたハゲの言葉に、一つだけ不満を抱く。このハゲ、これから一緒にやっていく相手に対して、なんだか他人行儀じゃなかろうか。不満が表情に出たのか、ハゲが戸惑う。その戸惑いを見て、少し上回った気がして楽しい。

 その楽しげな気持ちのまま、私はハゲに、一歩だけ距離を縮める言葉を伝えた。

「ハイアでいいよ。これから一緒にやってくんだし」

 これから一緒にやっていくのだから、家族や友人にしか呼ばれない愛称で。いつまでも「ワットハイア」なんて他人行儀な呼び方をされるより、ちゃんと二人で歩いていく証として。
 ハゲはやっぱり、少しだけ驚いたような顔をして。次いで、軽く笑って。

「ああ、よろしく、ハイア!」

 今度こそ、担当ウマ娘と、その担当トレーナーとして。
 一緒に歩いていく日々が、始まったのだ。




 ──そして、私達は3回目の未勝利戦へと挑む。
 今度こそ、二人で勝つのだ、という強い意思を持ちながら、中京レース場へと向かっていった。