第六話 アカシア

Last-modified: 2022-12-12 (月) 16:17:58

 その輝きに、心を奪われた。

「君は、何故そんなに頑張るんだい?」

 新人トレーナーとして、初めての専属契約。自らに流れる名門の血を証明すべく契約したその相手は、圧倒的に「強いレース」を展開する素養を持ったウマ娘だった。
 未だにトレーナーのついていないウマ娘としては、異常なほどに卓越したレース技術。レース相手の心理を利用し、ペースを乱し、スタミナを削り、消耗戦へと持ち込む手練手管。レースで勝つには単純な速度以外も必要であることを、十分に理解しているレーススタイル。僕から見れば未熟であるものの、これからの伸びしろも期待できそうなウマ娘。
 僕がそのウマ娘、スピードラビットと契約したのは、そうした強さ、あるいは素養に惹かれてのものだった。

 だからこそ、正直なところ、彼女がここまでトレーニングに熱心であることに、衝撃を受けたのだ。

 毎朝の早朝トレーニングで、遅刻したのを見たことがない。それどころか、僕より早くトレーニング場所に到着して、軽い自主トレを完了させて待っている。日々の学業は、あらゆる隙間時間を使って完了している。トレーニング前のミーティングでは、昨夜に研究してきたというレースについての考察をぶつけられた。
 一分一秒すら無駄にしない姿勢。狂気的なほどの取り組み。それに面食らってしまい、疑問が口をついたのだ。

「……え? なんですか、突然」

 一日のトレーニングを全て終え、すっかり暗くなってしまった時間帯。いつもなら別れるタイミングのことであるためか、スピードラビットは怪訝そうに僕に問い返した。
 本当は質問するつもりなんてなかった。僕と彼女は、ただの契約関係。僕にとって彼女は、自分を証明するための道具であり。彼女にとって僕は、トリプルティアラを獲るための道具だったのだから。

 それなのに質問してしまったのは、きっと。努力する姿が、どこか僕にとっては痛いものだったからだと思う。

「いや……その……」

 口をモゴモゴと動かす。スッキリとした回答ができない。自分の中にある「名門の血を証明したい」という努力の原動力が、何故か陳腐なものに思えてしまって。悪い理由ではないと思っているけれど、それでもなんだか、彼女の努力を生んでいるであろう原動力が知りたかった。
 スッキリしない僕に、スピードラビットはため息を一つ。そして、「まあいいか」と呟いてから。

「キラキラ、してたんです」

 どこか遠くを見るように。遥か遠くにある星に、手を伸ばすように。スピードラビットは、目を輝かせながら、その原点を語った。

「小さな頃に、トリプルティアラの瞬間を見ました。そのウマ娘の姿が、とても……とても『きれい』で」

 心の中に大切にしまってある、輝きの思い出。大切に取り出して、丁寧に丁寧に磨き上げて、そしてまた大切にしまっておく。そんなことを繰り返してきた。

「だから、アタシもそうなりたいって思いました。トリプルティアラを獲って、輝くようなウマ娘に。誰かに、こんな素敵な気持ちを持ってもらえるような、そんなウマ娘に」

 輝かしい目標に向けて、一生懸命に生きれるように。一日一日を、胸を張って生きれるように。そんなふうに、輝きを示せるようなウマ娘に。

「アタシがあの人にもらった宝物を、今度はアタシが誰かにあげたい」

 だからこそ、トリプルティアラが欲しい。そのためならば、どんなトレーニングでも耐える。どんな努力も苦しくない。

「それが、アタシが頑張る理由です。あの日のあの人のように、輝きを示せるウマ娘になりたいんです」

 満月を後ろにして、スピードラビットは微笑んだ。その笑顔が、目に焼き付くほどに「きれい」で。その願いが、心に焼き付くほどに「きれい」で。
 自分の中にあった「名門の血を証明したい」なんて理由が、どうしようもないほどにちっぽけに感じてしまって。

 気がつけば、彼女の願いを叶えてあげたいと、心の底から願っていた。

「ああ……そう、か……それは、とても、いい理由だね」

 震える声で、彼女の夢を思い描く。彼女の背負う夢を、思い描く。そしてその実現を、月夜に願った。少しだけ照れた表情の彼女を、心の奥底に刻みつけながら。

 僕はこの瞬間を忘れない。この満月と、スピードラビットの笑顔と、その心を忘れない。彼女の輝きを、誰よりも知ったから。だから、その輝きを胸に懐いて、これから先ずっと生きていくだろう。

 ──その輝きに、心を奪われた。今でも、奪われ続けている。




 オークスが終わった後の地下バ道。雨を受けてすら流れ落ちない泥と、全く下がらない体温が、直前までのレースを思い出させる。地下バ道まで届く歓声が、アタシの勝利を伝えてくる。

 勝った。オークスに、勝った。アタシは樫の女王になった。

 最後の直線での包囲網を思い出し、あそこから抜け出せたことに我が事ながら驚く。もう一度同じことをやれと言われても、かなり難しいと言わざるを得ない。出走していたウマ娘は、誰もが凄まじく強かった。アタシが勝てたのは、オークスの2400メートルという距離と、土砂降りが続いた結果の不良バ場が大きな要因。スタミナを削り、消耗戦に持ち込むやり方が、今日のレースに噛み合ったというだけのこと。
 あるいは、桜花賞で惨敗したことも理由の一つだったかもしれない。あの惨敗により、アタシの印象はティアラ路線の有力株から、G1に参加できるけれど、そこまで強くないウマ娘に変わった。だからこそ、桜花賞で上位だった集団に絞って対策をしていた可能性は高い。伏兵的だった、と言っていい。

 それでも。

「それでも、勝ったのは君だ。おめでとう、スピードラビット」

 地下バ道の途中。控室に向かう道で、ふと声をかけられた。その声は聞き覚えのあるもので、レース中にも応援してくれた彼の声。アタシのトレーナーさんの声だった。
 視線をそちらに向けてみれば、走ってきたのか、少しだけ赤い顔。その整った顔立ちに微笑みを浮かべつつ、こちらへと歩いてきていた。手にはタオルが握られており、控室から持ってきたのだろうと推測する。

 あの観客席から控室に戻って、タオルを持って地下バ道まで来たのか。レースが終わった後、喜んでいる姿をちらりと見たから、そのすぐ後に移動したのだろう。わざわざ手間をかけさせて、ちょっとだけ申し訳ない。

「ありがとうございます、トレーナーさん」

 言いつつ、差し出されたタオルを受け取る。全身泥まみれのずぶ濡れだ。とりあえず顔を拭う。煩わしい感覚が少しだけ薄れた。一息つく。その瞬間、体から力が抜けて、視界が地面に向かって落ちていって、

「っと。大丈夫かい?」

 それを、トレーナーさんが止めてくれた。どうやらアタシはよほど緊張していたようで、気が抜けた拍子に倒れそうになってしまったようだ。思わず顔を赤くする。
 うわあ。めっちゃ近い。改めて見てもこの人イケメンだなあ。心配そうにこちらを見てくれる視線が温かいなあ。冷えた体に染みるわあ。

 いけない、いけない、そうじゃなくて。

「す、すみません、トレーナーさん。泥が服に……」
「泥? ああ、大丈夫、気にしないで。そんなことより、君が倒れるほうが僕は嫌だよ」

 こちらの懸念を、笑って受け流す。その言い回しや態度がまた気障で、なのに妙にハマっていて、アタシの顔は更に赤くなる。落ち着けー、落ち着けー。とりあえず深呼吸。あきまへん、これやとトレーナーさんの匂いが! 全然落ち着けん!
 支えられたままだと落ち着けないので、こちらから離れる。ちょっとだけ力が強かったかもしれないが、トレーナーさんは嫌な顔一つせず、支えがなくとも立っていられるという事実に安心した表情。これが大人の余裕ってやつか……!

「大丈夫そうだね。よかった」
「え、ええ……お手間をおかけしまして……」
「いいんだ。君に頼られるのは嬉しい」
「……トレーナーさん、わざとやってますか?」
「何のことだい?」

 アタシのジト目に、なんだかきょとんとした表情のトレーナーさん。何だこの人あざとくないか。年上なのに年下の子みたいな表情浮かべやがって。あ、何かスイッチ入りそう。落ち着けー。落ーちー着ーけー。
 改めて深呼吸して、少しでも冷静さを取り戻そうとする。そうしていると、トレーナーさんが不意に真剣そうな表情に切り替わった。

「改めて、オークスの勝利、おめでとう。君が樫の女王になれたことが、なにより嬉しいよ」
「あ……はい。こちらこそ、ありがとうございます、トレーナーさん」

 先程も聞いた、樫の冠への賛辞。その態度がなんだか、すごく真剣なものだったから、賛辞よりも態度のほうが気になった。
 どうしたのだろう。彼の表情や空気も相まって、なんだか少しソワソワする。

「だから、こんなときに言うのも場違いだとわかっているんだけど……レース前に話したことを、覚えているかな」
「レース前……ああ、アタシの時間が欲しい、って」
「うん。レースが終わった直後だけど、今、少しだけもらってもいいかな」

 真剣な様子に、つい頷いてしまう。
 なんだろう。こんなトレーナーさんの姿は初めて見る。いやその、正直桜花賞まではろくに顔も見たことなかったし、桜花賞からワットハイアとの併走まではぼんやりしてて記憶がほとんどないし、併走から今まではトレーニングやら研究漬けで余裕がなかったので、見てこなかったというべきなんだろうけれど。
 あれ、アタシ、もしかしてかなりの恩知らずだな?

「ありがとう。それで、突然なんだけど……僕は君に謝らなきゃいけない」

 予想外の言葉に、思わず呆けてしまう。ぽかん、とする。謝る? 何を謝ることがあるのだろう。だって、アタシのことをここまで育ててくれて、オークスで勝つために手助けしてくれたのはトレーナーさんだ。心当たりなんて一切ない。

 何もわからないアタシに向けて、トレーナーさんは苦いような、悔やむような、そして覚悟しているような、そんな顔で。

「桜花賞のときに、君のことを疑ってしまった。あのとき負けた瞬間に、『やっぱり負けた』と思ってしまった。僕は、君のトレーナーなのに……本当に、すまない」
「…………え?」

 桜花賞のときに、アタシのことを疑った? 負けたときに「やっぱり負けた」と思ってしまった?
 あのときのことを思い返そうとするも、桜花賞に負けてしまった衝撃が大きすぎて、トレーナーさんのことを思い出せない。彼がどのような顔をしていたのかも、全く。
 一つだけ思い出せることがあるとするならば、桜花賞に出るとアタシが宣言した瞬間のこと。あのときに見た諦めの表情。ああ、なるほど、あのときの諦めの表情は、「きっと勝てないだろう」という疑いによるものだったのか、と納得する。

 しかし、それがどうしたと言うのだろう。謝罪したいことと聞いたから、もっととんでもないものが出てくるかと思ったのに。

 だって、そんなの仕方がないことだ。桜花賞はアタシの適性外。明らかに不利な条件で、明らかに負けに行くようなものだった。勝ちたいという思いだけで勝てないのがG1レースだ。今のアタシはそれを、誰よりも知っている。
 だからこそ、アタシよりもウマ娘レースに詳しいであろうトレーナーさんが、冷静に「きっと勝てない」と判断するのは、別に間違ったことじゃない。信じられなかったと言うのなら、信じさせられるだけのものを示せなかったアタシにこそ非がある。

 彼はまるで、裁きを待つ咎人のように、アタシの言葉を待っている。アタシにはわからないが、彼にとって、きっとこれはすごく重要なことなのだろう。担当ウマ娘のことを信じられなかった、という事実が、耐え難いほどに重いのだ。
 どうしようか考える。アタシの言葉を待っている彼に、アタシは何をすればいいのだろう。「信じてほしかった」と泣く? 「信じてくれなかったなんて」と怒る? どちらもやる気になれない。

 そこで、ふと。一つだけ、気になることがあった。

「トレーナーさん。一つ、聞かせてください」
「……なんだい」

 どのような言葉が来ても受け入れる。そんな表情のトレーナーさん。やはり、アタシに怒られたり、泣かれたりすると思っているのだろうか。でも、それをするのは、今から聞く質問の答え次第。
 もしも肯定されてしまったらどうしよう。本当に泣いてしまうかもしれない。でもきっと、そんなことにはならないだろうとも同時に思っている。だって、あのときの言葉は、アタシの心に届いていたのだから。

「オークスの最後に、トレーナーさんの応援が聞こえました。……あの言葉は、嘘だったんですか?」

 今でも耳に残っている。「僕の目には、誰よりも輝いて見えるから」と。少し恥ずかしくなってしまうが、それでも、あの言葉を受け取った瞬間の幸福感は、心の中で熱を放ち続けている。
 だから、あの言葉が嘘だったとしたら、アタシはとても……とても、悲しい。

 トレーナーさんは、アタシの言葉を聞いて、

「嘘じゃない!!!」

 まるで怒るように、それだけは否定させないと叫ぶように。地下バ道に響き渡る大声で、やっぱり否定してくれた。

「桜花賞で君の勝利を信じられなかったのは事実だ! でも、君の輝きを疑ったことだけは、一度もない!!」

 その心だけは否定させない。この想いだけは疑っていない。だから、例えアタシからの言葉であろうとも、強く強く否定する。

「君の輝きに、心を奪われた。誰より側で、その輝きを見ていたい。この心だけは、嘘じゃないんだ」

 その言葉に、安心する。ああ、この人は。アタシのことを、ちゃんと見てくれる。アタシが輝きを示せていることを、他の誰より近くで、見てくれている。
 レース中に感じた幸福感が嘘ではなかったこと。手を伸ばし続けが憧れに、届いていること。その事実を、彼が証明してくれている。例え形が違っていても、確かにアタシは、欲しかったものを手に入れていた。

 だから。

「ありがとうございます、トレーナーさん」

 自然と笑顔になって、今度こそちゃんと彼を見た。イケメンさんで、気障で、真面目で。担当ウマ娘のことを、常に信じなきゃいけないと感じているような潔癖症で。
 そして、こちらを見る目の奥に、キラキラした「きれい」なものを見るような眩しさがある、彼のことを。

「じゃあ、アタシのことを信じてくれなかった『いけず』なトレーナーさんに、一つだけ罰を与えます」

 少しだけ茶化すように。オークスのときのことを思い出しながら。




「『ラビット』って、呼んで」




 オークスのときに呼びかけられた、その呼び名で。これから先も、あなたと一緒に走っていきたいから。アタシの輝きを信じてくれるあなたに、アタシのトレーナーでいてほしいから。

 誰より近くで。特等席で、アタシの輝きを見て、それを伝え続けてほしいから。

 これまでよりも、少しだけ。アタシの近くにいてほしい。そんな気持ちを込めて、一歩だけ踏み出した。

「え……?」
「いや、ですか?」

 そんなことはないだろう、と確信しながら。それでも、こちらを不安にさせたこの人に、ほんのちょっとの意趣返しとして、不安そうな表情を意図的に作って言い返してやる。すると、彼は焦ったようにして、

「い、いや、そんなわけない! でも、いいのか……? だって、僕は……」
「ええんです、そないなこと。それでも、そうですね……トレーナーさんが、そないに気にしはるなら」

 これまで使っていた標準語を、あえて崩す。今まではずっと、トリプルティアラを獲るための関係だったから。そのためのトレセン学園での生活だったから。意図的に壁を作って、誰にも気を許さずにいた。でも、これから先は、あなたが信じてくれた「アタシ」のままで一緒に走りたい。そのために、壁を自分から壊す。

 少しだけ驚いた様子のトレーナーさん。そんな彼の手を取るように、ずっとずっと、アタシと彼の間にあった透明な壁を壊して、手をのばす。

「アタシから、ちゃんとお願い申し上げます。
 アタシのトレーナーを、どうか続けてください。
 アタシの勝利ではなく、アタシの輝きを信じてくれたあなたと、これから先も一緒に走りたいです」

 きっと、これから先も、アタシは何度も負けるだろう。輝きが見えなくなってしまうことだってあると思う。でも、あなたと一緒なら。アタシの勝利を疑っても、アタシの輝きは、全く疑わなかったあなたと一緒なら、暗闇の中も走っていけると思うから。

 それはまるで、恋の告白にも似ていて。だから、泣きそうな顔で、それでも笑った彼の顔に、これからの未来を確信した。

「ああ……ああ、もちろん……! 君の輝きを、誰よりも隣で伝え続ける……!」

 アタシの手を取りながら、今にも涙がこぼれそう。アタシもきっと、同じ顔をしている。

 しばらくそうして、二人のこれからを誓い合う。この地下バ道で交わしたこの言葉こそが、アタシたちの本当の契約だ。きっといつまでも忘れない、最後の最後まで続いていく契約の始まりだ。
 未来のことを確信して、改めて二人で向かい合う。目が真っ赤なことに、ちょっとだけおかしな気持ち。でも暖かくて、素敵な気持ち。

 だから。

「改めて、ご挨拶を」

 これから二人で走っていくから、しっかりと区切りをつけよう。
 これまでの打算的で、お互いを道具扱いするような関係性から、ちゃんと二人で走っていく関係になっていくために。

「アタシの名前は、スピードラビット。目標は──」

 少しだけ目を瞑り、大切なことに気づかせてくれた後輩のことと、目の前のトレーナーさんのことを想う。アタシに向けられた、輝かしいものを見るような目を、思い出す。
 自然と笑顔になって、だからこれが、アタシの心からの目標だと信じられる。

「目標は、憧れてもらうに相応しい、輝くようなウマ娘になること、です!」