ワットハイアというウマ娘を知ったのは、選抜レースではなく、その前日のことだった。
少し前まで担当していたウマ娘が怪我をして、トゥインクルシリーズから引退してからしばらく。一人目に続き二人目の担当ウマ娘にも、夢を掴ませることができなかった俺は、端的に言って腐っていた。自身のトレーナーとしての無才、無能さ。そうしたものにほとほと呆れ果て、こんな愚物がトレセン学園に所属しているということ自体、この世界に対する侮辱なのではないか、なんて諦観を抱いている。
無才に対する呆れと、諦観を抱いていようとも、日常は続く。やる気を失っても仕事はなくならない。残念なことではあるが、社会人である以上仕方がない。働かずして金が欲しい。とはいえ担当のいないトレーナーの仕事は負荷が低い。仕事の片手間にあにまんを眺められるのは、まあまあ悪くない生活だった。
一日の仕事に区切りをつけ、ぐいと背伸びをする。ダラダラやっていたら、外がすっかり暗くなってしまった。そろそろ撤収し、トレーナー寮に戻ったほうがいいだろう。そんなことを思いつつ、業務用のPCに手を伸ばす。その際にふと、開きっぱなしになっていたあにまんが目に入った。その中の一つのスレタイが目に入る。
「『明日の選抜レース注目ウマ娘いる?』……あー、そういや明日は選抜レースか」
トレーナーとしてはあるまじき事かもしれないが、スレタイを見るまですっかり忘れていた。まあ、こんなクズトレーナーが選抜レースで新しい担当を見つけたとしても、その担当ウマ娘に失礼だ。冷やかしに行って、目に留まるウマ娘がいなかった、とでも報告すればいいだろう。トレセン学園のトレーナーは不足しており余裕はないが、担当契約には相性が重要であるために、手の空いているトレーナーもそこそこいる。俺もその一人になればいい。
そんなことを考えつつも、スレの内容が気になったので、帰宅前に軽く目を通してみることにする。開いてみれば随分と賑わっているようで、どの子がいいだの、いやこっちの子だのと喧々諤々。一種の祭りだ。
流し読みしていくと、いくつかのレスが目に入る。
「芝1600の注目株は……スピードラビットか。ジュニア以前なのに、身体能力も技術も優れてるって噂になってたな」
同僚の噂話を思い出す。トレセン学園のトレーナーをしていると、有力なウマ娘の噂はよく耳にする。それは現役の子だけでなく、未デビューの子の情報も含む。スピードラビットと言えば、まだデビューしていない子の中でも、随分と速く、えげつない走り方をする子だという噂だ。
明日の芝1600はこの子が勝つだろう。しかも、他の子たちを総崩れにしながら。そんな予想をしながら、スレを読み進める。
しばらくそうしていると、芝1600の話で、妙に気になる書き込みを見つけた。
『ワットハイアは?』
ワットハイア。名前は聞いたことがない。別タブでトレセン学園のトレーナー用Webシステムを起動する。その中にあるウマ娘の情報をまとめたページを開き、ワットハイアで検索。
ヒットしたウマ娘のデータには、いくつかの情報が記載されている。普通の学園生としての各種情報、レースに出るウマ娘としての身体能力の基本情報。トレーナーが着く以前のウマ娘は、こうしてある程度の情報が、トレーナーであれば誰でも閲覧できるようになっている。これらの情報をもとに、担当契約するかどうかを考えることも多い。
軽く目を通してみれば、さほど面白い情報があるわけでもない。よくいるウマ娘、という感じ。強いて言えば適性が多様なところが珍しい。バ場、距離、作戦の三種全てがある程度こなせる、というウマ娘はめったにいない。
同時に、どれも武器になるほどの能力を持っていない、という意味でもある。端的に言えば器用貧乏。レースにおいてはさほどの価値を持たない。レースは「自分の得意をどれだけ押し付けることができるか」だ。
天才、マヤノトップガンはあらゆる作戦で走れたらしい。しかしそれは、彼女の並外れた観察能力と、最適解を出す能力の高さに依存するものだったと聞く。「マヤわかっちゃった!」の一言で、レースで最適解を見つけ、実践できるという天才性。ライバルたちにそれを押し付け、彼女は多くを勝ったという。
対して、ワットハイアはそのような天才性の片鱗も感じさせない。もしもそんな才覚があったのなら、模擬レースの結果はこんな事になっていないだろう。
データに記載されていた模擬レースの結果は、「0-1-3-15」。1着0回、2着1回、3着3回、それ以下15回。合計19回。とんでもない回数走っているが、その全てに負けている。これほど負けたウマ娘は、自主退学を申し出ることも多いのだが、この子はまだトレセン学園にいるらしい。その点で言えば、若干珍しいと言えなくもない。
「とはいえ、それでもよくある話か」
一通りのデータを見て、そう評価を下す。根性はある、適性も広い、しかし凡百のウマ娘。スレに意識を戻してみれば、自分と似たような評価を下しているレスが目に入った。
『誰?』
『適性迷子で上がりも微妙。脚質は自在っぽいけど、マヤノトップガンほどの能力もなさそう。穴ですらない』
容赦のないレスを見て、苦笑いを浮かべる。自分の評価を棚上げしつつ、もうちょっと、こう、手心というものを……なんて思った。
ワットハイアの名前を知ったのは、その時が最初。この時は、まさかあんなことになるとは思っていなかった。
選抜レースが終わった後、ワットハイアとの専属契約を結び、トレーナー室に帰ってきた俺は、頭を抱えていた。数日前、あにまんに書き込んだちょっとした下心が、まさかあんな形に使われるとは……悪いことはできないね……。
というかウマ娘にあにまん民がいるとか予想できるわけないだろう。ワットハイアは「学園のトレーナーさんが」なんて言っていたが、「学園のウマ娘が」に置き換えてもなんの問題もない。
自分のやらかしを責め、こうして担当することになってしまったことを後悔する。脅されて契約することになったことよりも、自分みたいな無能が新たにウマ娘を担当することを後悔している。
過去二人の担当ウマ娘のことを思い出すと、今でも胃が痛む。満足な引退という形にできなかった罪悪感が、心身を蝕む。
深呼吸、一つ。彼女たちのことを考えすぎるな。落ち着け。そう言い聞かせる。
深呼吸、二つ。三つ。しばらくそうしていると、胃の痛みは落ち着いてきた。すると、今度思い出されるのは、ワットハイアが脅迫してきたときの顔だった。
「……正直、意外だったな。あんなに必死そうな顔をするなんて」
レース前の彼女は、正直なところ、選抜レースへの興味どころか、レースそのものへの情熱など欠片も持っていないように見えた。だからこそ、俺は過去の模擬レースで負けすぎた結果、情熱を失ったものとばかり思っていた。選抜レースに出たのも、きっと誰かに誘われたとか、流されるままに登録したとか、そういう外的要因とばかり。
そんな彼女が、レースを終えた途端に必死になって、なりふり構わず俺を捕まえに来た。ちぐはぐで、一貫性がないように思える。レース前の印象は顔からの推測でしかないため、俺の目が節穴だった可能性は否めない。しかしそれでも、あの必死さは奇妙だった。
何か、あったのだろうか。これから担当するウマ娘のことが気にかかり、昨日見ていたデータを再度開く。その中に、何かあの必死さを説明できる「何か」がないかと期待して。
一通りのデータは昨日既に見ている。今回知りたい内容からして、できるだけ生に近い彼女の姿が知りたい。写真と動画を開く。
「うおデッカ」
思わず呟くも、今はそこではない、と意識を戻す。いやでも見ても仕方ないと言い訳したい。あの胸部、間違いなくメイショウドトウクラス。男ならばつい見てしまうのも仕方ないことだろう。
頭を振って、今度こそ意識を戻す。写真を一枚一枚見ていく。一番大きな変化と感じたのは、入学当初は輝いていた目が、模擬レースの最後になってくると、落ち窪んで暗いものになっていったこと。勝てないウマ娘の変化で、一番よくあることだ。
地元で天才だったウマ娘が、中央の壁にぶつかり、心折れていく。そんなことはよくある。特別珍しいことでもない。珍しいのは、
「やっぱ回数だな……よくこれだけの回数負けたな」
19回の敗北。しかも一度も勝てていない。心が折れるなら、この半分の回数で十分だ。9回、10回でもよく耐えたと言われるレベルだろう。地元で天才だったウマ娘は、天才であったからこそ、積み上がる敗北に耐える心を持っていないことが多い。
中央は天才の巣窟だ。ただの天才が、その才覚だけで勝ち上がっていけるような甘い世界ではない。天才の中の天才が、更に努力を積み上げて、それでも勝てないことがあるという地獄。中央を無礼るなよ、などと言われるのは、こうした背景もある。
写真一覧から離れ、今度は動画一覧を開く。そこにあるのは模擬レースの動画だ。全部で19個。全て見ることにする。
1つ目。芝の1200メートル。作戦は逃げ。レース運びは極めて稚拙だが、新入生ならばこの程度だろう。どんどん抜かされていった最後、最終直線でちらりと映った表情から、その内心を推測する。
2つ目。芝の1400メートル。作戦は先行。これもまた稚拙。作戦を変えただけという様子。最終直線で加速し、一度は一着になるものの、最後には差しのウマ娘三人に差された。差された瞬間の表情から、その内心を推測する。
3つ目。ダートの1400メートル。作戦は同じく先行。変わったバ場を気にした様子もなく、上手く走る。しかし、逃げのウマ娘が作った差を埋めきることができず、更に追込のウマ娘に差され、三着。追いつかないことを理解した表情から、その内心を推測する。
4つ目。5つ目。6つ目。見ていく。彼女の目が次第に輝きを失っていく。自信がどんどんなくなっていくことが、手にとるようにわかる。
7つ目。8つ目。9つ目。見ていく。彼女の表情が徐々に諦観に染まっていく。自分はこの程度なのではないかと考えていることが、伝わってくる。
10。11。12。13。14。15。16。17。18。彼女の心が、折れていく姿を見る。
そして、最後の模擬レース。19番目。
芝、2000メートル。作戦は追込。この頃になれば、レース運びも随分と上手くなっている。体の使い方も、最初の頃とは比べ物にならない。どうすれば速くなるのかを、よく研究してきたことがわかる。
それでも、先行のウマ娘二人が、最終直線で競い合うように加速していって。彼女はやっぱり、それに届くことができず。
二人のウマ娘から1バ身離されてゴールしたとき、彼女の心が折れる音が聞こえた気がした。
「……なるほど」
全ての模擬レースの動画を見て、彼女の心が折れていく姿を見た。何度も何度も挑戦し、そして結果が実らない姿を見続けた。その表情の変わっていく姿を、その心が変わっていく姿を、全て見た。
その上で。
「よくある話だ」
冷たい評価を、下した。
回数は多い。だがそれだけだ。心が図太かったのか、丈夫だったのか、支えてくれる誰かがいたのか。わからないが、とにかく心が折れづらかったというだけの話。
何度でも言うが、トレセン学園は天才の巣窟だ。そして、心折れて出ていくウマ娘たちなんて、俺は腐るほど見てきている。担当ウマ娘の一人も、一勝すらできないままに去っていった。だから、ワットハイアの模擬レースに抱く感想は、その程度のこと。
「でも」
そう、「でも」だ。
心折れていくウマ娘が多いことは知っている。ありふれていることを理解している。体感すらしてきた。それでも、彼女の模擬レースの映像から、感じてしまうものはあった。
模擬レースの映像で一番強く感じたのは、彼女がこれまで必死で足掻いてきた、という単純なこと。次こそは。今度こそは。
そのために、あらゆる努力を積んできたという背景が見えた。苦しくても、辛くても、それでも続けて続けて19回の負けを積み上げてしまったということ。
探していた「何か」だって、わかってしまえば当然のことで。
だからこそその姿に、二人の担当ウマ娘と歩んできたあの日々が──必死になって足掻いてきたあの日々が、どうしても重なってしまって。どうか、今度こそは勝たせてやりたい、なんて思ってしまっている。
「はは……なんてこった」
あれほど後悔したのに。あれほど、二度と担当など持つものかと思ったというのに。それでも、足掻き続けた彼女の姿に、これまでの自分たちが、少しだけ肯定されたような気がして。しかも、一度は折れた心を立て直して、こうして俺と契約を結んでいる。
その姿に、なんだか少しだけ、救われたような気持ちになって。
気がつけば、彼女と夢の続きを見たいと、そんな未来を思い描いてしまっていた。
瞑目して、覚悟を決める。二人の担当ウマ娘との日々は、相変わらず痛んでいる。こんな自分が、という思いは今でも消えていない。けれど、一度心折れて、それでもまだしがみついている彼女を、支えていくことを決めた。
外はもう明るくなっている。これから先を思い描き、よし、と気合を入れた。
ワットハイアとのトレーニングの日々は、飛ぶように過ぎていった。
初トレーニングのときには驚かされた。適性や身体能力を調べるために、芝、ダート、距離3種の計6回走ってもらったところ、ジュニア以前とは信じられないほどに肉体の完成度が高い。レースに勝つため、というより、トレーナーが付いた後のトレーニングのための基礎が十二分にできあがっていた。そのため、当初考えていたメニューを全て省略することになる。
本当はじっくり基礎トレーニングを進めながら、適性が多様なウマ娘を育成するプランを考える予定だった。しかし、基礎トレーニングが省略できる以上、そのプランは無駄になる。初日は早々とトレーニングを切り上げ、適性の広いウマ娘を育てたことのあるトレーナーに土下座行脚して、トレーニングのアドバイスを受けて回った。
キングヘイローのトレーナーは、特に親身になってくれた。今でこそ不屈の代名詞であるキングヘイローは、現役時代に随分と苦労したと聞く。それに随伴したトレーナーもまた、相当な心労をためたことだろう。そのためか、ワットハイアのために、自らの手札を惜しみなく開陳してくれた。
他にも、マヤノトップガンのトレーナー、ハッピーミークのトレーナーにも助けられた。適性の広いウマ娘は希少だ。その育成テクニックは、ワットハイアを育てる上で大いに役立ってくれた。
そうして着実にタイムを伸ばしていき、メイクデビューで勝ち負けできるラインを超えられるようになった。その時の喜びは、きっとトレーナーなら誰でも嬉しいもの。俺もまた、過去に二人も経験しているのに、それでもやっぱり嬉しくて。思わず泣きそうになったほどで。
しかし。
「ワットハイア?」
声をかけるも、ワットハイアからの返答はない。ありえないものを見たように、そんな馬鹿なとでも言いたげに、タイム表を睨みつけている。その表情に、嬉しくないのだろうか、なんてぼんやりとしたことを思う。
今にして思えば、俺は舞い上がっていたのだ。夢の続きを見れることに。だから、彼女のその表情を、その裏にある感情を、見落としてしまった。
だからこそ、メイクデビューの場で、こんなことになってしまったんだろう。
『ゴール! メイクデビューを制したのはメイヴライト! センターの栄光を手にしました!』
実況の声が、耳に響く。勝てそうだったワットハイアは、最後の最後で減速し、一着を逃していた。しかし、そんなことはどうでもいい。どうでもいいんだ。
一着を逃したことがどうでもよくなるほど、顔を真っ青にして、恐怖に染まった表情を浮かべて。
呆然とターフの上に立ち尽くすワットハイアの姿が、目に焼き付いた。