interlude ハゲ、後輩と話すってよ

Last-modified: 2022-12-07 (水) 23:15:42

 トリプルティアラが欲しいと、そのウマ娘は最初に言った。

「小さいときに、トリプルティアラの瞬間を見たんです。キラキラしてて、自分の知ってる何よりも尊いもののように思えた」

 思い出を語る彼女の顔を覚えている。心にずっと思い描いている大切な宝物。まるで自慢するように、僕にその時のことを教えてくれた。輝いているウマ娘。何より尊いウマ娘。トリプルティアラの彼女への憧れを、キラキラした顔で語ってくれた。
 子供っぽい憧れ、とは思わない。彼女にとってはそれが全てであったのだろうし、事実としてトレーニングのモチベーションは凄まじいものだった。憧れや夢が彼女たちを走らせる。「ウマ娘は夢を背負って走る」なんて言い回しを、言葉ではなく体感として理解したのはその瞬間。

 だからこそ、そんなことよりも、彼女の夢を支えたいと思うようになっていったのは、きっとその瞬間だった。

 トレーナーになった最初のうちは、自身の体に流れる名門の血に恥じぬように成果を出すことばかり考えていた。祖父のように、父母のように、自分も数多のウマ娘を導いて、G1の栄光を手に入れるのだと。トレーナー試験に合格して、自信とともに、自負とともにこの世界に入った。周囲にナメられないように、一人称を変えて人に接した。

 それなのに、それらの思いを「そんなこと」と言い切れてしまうほどに惚れ込んだ。

 あまりにも魅力的だったのだ。夢に向かって一生懸命で、泣き言一つ言わずに、必死にその輝きに手を伸ばし続けるその姿が。あまりにも輝いていたのだ。それこそ、彼女が憧れたであろうウマ娘に負けないほどに。少なくとも、僕には彼女がそう見えていた。

 彼女に三つの冠を。桜の冠を。樫の冠を。秋華の冠を。名門の血に恥じぬように成果を出す、なんて考えは、彼女の輝きを前にすれば、なんて陳腐なものだったのだろうか。

 ──その夢が潰える瞬間なんて、輝きがくすむ瞬間なんて、見たくなかったし、信じられなかった。今でも、信じたくない。

 彼女とのトレーニングの日々を通し、見えてきたのは距離適性の問題だった。桜花賞は1600メートル、オークスは2400メートル、秋華賞は2000メートル。桜花賞とオークスの距離の差が厳しく、期間も空いていないために、調整が難しい。とはいえ、その800メートルが最大の差だ。三冠路線の皐月賞と菊花賞にある1200メートルの差よりは、適性の問題は少ないはずだった。

 しかし、たった800メートル。されど、800メートル。彼女は、マイルの適性がなかった。

 彼女の武器は豊富なスタミナで、それを使った消耗戦。トレーニングをしていても、スタミナやペース管理、あるいは戦術といった要素の伸びは良かった。しかし、スピードが伸びない。いや、伸びはする。しかしそれが微々たるもので、短距離とマイルのような距離では不十分。
 中距離から長距離。少なくとも2000メートル以上。彼女が自分自身の力を発揮するには、それだけの距離が必要だった。その事実を認めざるを得ないデータが、十分以上に出揃ってしまったときの感情は、筆舌に尽くしがたい。三女神像の前で呪詛を叫びそうになるほどに、認めたくなかった。

 距離適性を超えることは困難だ。過去に挑戦したウマ娘とトレーナーは多い。にもかかわらず、超えるための育成手腕が確立されていない。成功例も少ない上に、数少ないその成功例すら故障につながったと聞く。生まれ持った才能、そんなものに彼女の夢が潰されてしまう。
 許せなかった。許しがたかった。でも、どうしようもなかった。自分の能力不足、才能不足、機転不足、その他あらゆる不足に嘆く。僕がもっと多くを知っていれば。距離適性を超える発想ができれば。これまでの人生で味わったことのない無力感。

 悔しさ、情けなさ。そうしたものを噛み締めながら、それでも彼女と話す必要があった。君の夢の実現は、難しいという事実は、どうしても伝えなければならなかった。
 だから、

「トリプルティアラは、アタシが獲ります」

 覚悟の決まった目で、「それでも」と言う彼女の姿を見てしまったから。自分の無才を嘆きつつも、それに挑むしかないと決めた。覚悟を決めろ、彼女を支えるというのなら、そのことだけを考えろ。適性外などという現実程度で、彼女の憧れを否定させてたまるものか。
 桜花賞に勝つために、適性を超える方法を少しでも考えろ。スピードが不足しているというのなら、徹底的にスピードを伸ばすトレーニングを考えろ。そうすれば、きっと。きっと勝てる。そう信じる。

 ──それでも、現実の壁はどうしようもなく高く、分厚く。彼女がそれにぶつかって夢が砕け散る瞬間を、目の前で見せつけられてしまった。

 桜花賞、10着。ゴール板を泣きながら駆ける彼女。その結果は、信じたくないけれど。それ以上に僕の心を痛めつけたのは、その瞬間に覚えてしまった感情だった。

 悲しみ? 違う。
 悔しさ? 違う。
 情けなさ? それも違う。

 彼女の夢が砕けた瞬間。その姿を見た僕が得たのは、「スピードラビットのトレーナー」として、絶対に得てはいけない感情だった。その感情を、言葉にしたくない。信じられなかった。信じたくなかった。彼女が負けてしまったこと以上に、自分がその感情を覚えてしまったという事実を、認めたくなかった。

 立っている地面が崩れるような錯覚。そして、自分はトレーナーに相応しくないという確信を得たとき、これまでの自分が粉々に砕かれた。

 正直なところ、桜花賞の直後から数日ほどの記憶は、ほとんどない。彼女と何か言葉を交わした気もするし、記録にある以上オークスに向けたトレーニングもしているようだった。それでも、その間の記憶は、自分の中に見当たらない。
 彼女の顔も、まともに思い出せない。いや、思い出したくないのかもしれない。桜花賞での泣き顔が、目に焼き付いている。夢が砕けた瞬間の絶望が、脳裏にこびりついている。

 それにそもそも、一体どんな顔で向き合えばいい? 彼女のトレーナーに相応しくない僕が。あの輝きをくすませてしまった僕が。夢を潰してしまった僕が。
 名門出身の誇りなんて、もうどこにもない。それにどうでもいい。そんなものより、彼女の夢を潰した事実が重い。勝たせられなかった。勝たせてあげられなかった。それが全てだ。
 毎日のように吐き気に襲われる。食事は喉を通らず、日々やつれていく自覚がある。それでも、自責の念は止まらない。

 桜花賞が終わって、悪夢のような日々。ただ漫然と、迫りくるオークスをぼんやりと考えていた、ある日。

「よう。ちょっといいか」

 そんなふうに、声をかけられた。




 思っていたより重症だな、というのが率直な感想だった。トレーナーの共有スペースの片隅にいた彼は、目は落ち窪み、頬はこけ、無精髭は伸びるままに放置されている。せっかくの整った顔も台無しになるほど、その後輩トレーナーはやつれていた。
 名門出身で期待の若手。整った顔立ちも相まって、ウマ娘や女性トレーナーからの人気が高い。育成手腕も高く、初担当のスピードラビットを桜花賞に出走させたという事実は、それを裏付けるものだろう。さすが名門出身、桜花賞は落としたもののこれからが楽しみだ、なんて噂話を聞いたこともある。

 そうした評価があるにも関わらず、彼本人は酷く憔悴している。まるで自分はトレーナー失格だ、担当ウマ娘に顔を合わせる資格がない、なんて思っているように。
 ワットハイアから聞いた話を思い出す。スピードラビットの目標、トリプルティアラ。それを取りこぼした桜花賞。レースの映像を見たが、10着で泣きながらゴールしていた。他のウマ娘と同じように。
 ため息を一つ。大方、彼もまた自責に苛まれているクチだろう。担当ウマ娘の夢を叶えてやれなかった、という新人トレーナーにありがちの絶望だ。自分にも記憶があるし、今でも心を苛んでいる。よくある話で、鏡を見ているような気分。

「……なんですか」

 焦点があっているのかもわからないような視線を寄越しつつ、鬱陶しげに反応を見せる。反応するだけマシだな、なんて思う。中には反応すらできないトレーナーもいたからだ。
 ともあれ、

「ここ数日ほど、随分と様子がおかしいからな。先輩としては気になったのさ」

 肩をすくめながら、できるだけ気楽に。相手によっては煽ってやるといいケースもあるが、この後輩にその手のやり方は通じないだろう。どちらかというと名門出身らしく生真面目なタイプっぽいし、素直に心配していることを伝えたほうがいい。場合によっては拒絶されるだろうが、そういうことをできそうにないタイプだと踏んだ。

「……それは、どうも。すみません、ご迷惑をおかけして」

 案の定、若干気まずそうに視線を逸らす。話を引き出すテクニックは、トレーナーの必要スキルの一つと言っていい。多感な年頃のウマ娘を相手にする以上、この手のスキルはトレーナーの教習課程にも入っている。とはいえ、ウマ娘以外に使ってはいけないスキルというわけでもない。同僚の後輩相手でも、こういう場面では有用だろう。

「ま、面倒な先輩に捕まったと思って、話でも聞かせてくれ。飲み物くらいなら奢ってやるさ」

 言いつつ、共有スペースの近くにある個室に誘導する。渋々といった様子ではあったが、育ちの良さが働いたのか、個室へとフラフラ入っていく。その姿を見つつ、自販機で飲み物を購入。緑茶とコーヒー。どちらも缶だ。俺はどちらでも飲めるから、彼が飲まない方を選べばいいだろう。
 追って個室に入り、飲み物を渡す。彼は緑茶を選んだので、俺はコーヒーだ。

 個室の中にはテーブルがあり、それを挟むように椅子が置かれている。彼は入口側に座っているので、テーブルを挟んで向かい側に座る。コーヒーをテーブルの上に置いたら、話を聴く準備は完了だ。

「それで、どうしたんだ」

 先程よりは真剣な雰囲気で、話を促す。コーヒーはまだ開けない。個室という区切られた空間で、他の人に聞こえない状況だ。彼もこちらのほうが話しやすいだろう。雰囲気を意図的に変えたり、飲み物を開けることよりも優先するといった細かい態度で、ちゃんと聴く姿勢を示す。
 彼はチラチラとこちらを見たり、手元を見たり、あるいは手元の緑茶を見たり。口を開き、話しそうになったかと思えば、言葉にできないでまた口を閉じる。しばらくその様子を観察する。話を急かすことはない。こちらの予測を言うこともしない。ただ待つ。そうすればきっと、彼は話し始めるとだけ信じる。
 しばらくそうして、数分ほど。正直に言って、待つのはしんどい。話したほうが楽だ。しかしそれでは、彼が話せない。今回の問題は彼の問題であり、俺の問題ではない。俺がやるべきなのは、彼の話を聞いて、必要なら何かをすることだ。

「……………………その」

 そうしてようやく、彼が口を開いた。

「……僕は……トレーナー失格、なんです」

 飛び出てきたのは、自分を否定する言葉。てっきり、まずは担当ウマ娘の、スピードラビットの話題が出てくるかと思ったが、そうではないらしい。

「……そうか」
「はい……」

 彼の言葉を否定しない。ここで頭ごなしに「そんなことを言うな」とか「失格なんかじゃないさ」と言うことは簡単だ。しかし、それでは彼が何故そう思うのかや、その悩みの根源が解消されない。壊死仕掛けている傷を、見えないように塞ぐのと同じ行為だ。だから、否定せず、かと言って肯定もせず、ただその言葉を受け入れる。
 そして、また言葉を待つ。

「桜花賞、で、担当ウマ娘が……負けました」
「スピードラビットだな」

 こくり、と彼が首肯する。視線はこちらに向いていない。斜め下のテーブルを見ている。

「あの子は、その、トリプルティアラを目標にしてたんです」
「うん」
「大きな目標だって、わかってました。叶えることは、難しいって」
「…………」
「なにより、桜花賞の距離は、彼女には短くて」
「……なるほどな」

 ウマ娘には適正がある。バ場適性、距離適性、脚質適性。芝ダート。短距離マイル中距離長距離。逃げ先行差し追込。担当のワットハイアはどれもある程度こなせるものの、大抵のウマ娘は得意不得意がある。それを指して適性。ウマ娘に与えられた才能限界だ。
 桜花賞の距離は1600メートル。マイルに分類される。この距離が「短い」というのなら、中距離から長距離が適性なのだろう。しかし、それは。

「トリプルティアラが目標なのに、マイル適性がなかったのか」

 こくり、と彼が首肯する。思わず顔をしかめる。
 目標とするレースがあって、それなのに自分の体がそのレースを走ることを許してくれない。ありがちなのは、ダービーを目標としているウマ娘が、短距離やマイルしか走れないというもの。その絶望は、俺たちトレーナーでも、本当の意味で理解することはできないだろう。

「それでも、スピードラビットは、トリプルティアラは諦めない、って……そう言って」
「……桜花賞に挑んだのか」

 適性外のレースに出走することは、できなくはない。しかし、その適性に脚を引っ張られて、好走することは難しい。スピードラビットもまた、そうだったのだろう。
 しかし、これも彼の悩みの根幹ではないように思える。まだ話を聞くことを選び、しばし待つ。

「結果は、ご存知の通りです……スピードラビットは、負けました」
「ああ……見たよ」
「………………でも」

 そこで、彼の表情が更に曇る。覚悟する。ここから先が、彼の悩みの根幹であると。
 口を開いては、閉じて。震える喉で、音にならない声。ただ、待つ。どれだけ辛くても、彼自身が言葉にしなければならないものだ。俺が代行するべきでないものだ。

 たとえその気持ちを、過去の自分が死にたくなるほど味わっていたものだったとしても。




「僕、は──『ああ、やっぱり負けた』、って、思って、しまったんです」




 頭を抱え、震えながら。まるで懺悔するかのように、彼は自分の心を吐き出した。
 適性外への挑戦。担当ウマ娘が夢のために、どこまでも難しい、ひたすらに分厚い壁に挑戦しようというときに──トレーナーであるはずの自分は、信じてやることができなかったのだ、と。
 だからこそ、「トレーナー失格」。担当ウマ娘を信じ、支えてやることがトレーナーの責務であるはずなのに、自分はそこから背いて、信じずに。負けた悲しさでもなく。夢破れた悔しさでもなく。願いを叶えられなかった情けなさですらなく。ただ、「信じていなかった」という事実。

 それが、どれほど俺たちトレーナーの心を抉ることか。負けたことより、叶えてやれなかったことより、信じてやれなかった事実こそ、俺たちトレーナーを砕く。
 中央トレーナーは狭き門にもかかわらず、毎年のように辞めていく。それはいくつもの理由があるが、こうして彼がぶち当たった「担当ウマ娘を信じてやれなかった」というのも理由の一つだ。トゥインクルシリーズは、ウマ娘にとって一生に一度。それに随伴するトレーナーは、「一生に一度」を何度も、何人も共に味わうことになる。その重責に耐えられず、辞めていくトレーナーは後をたたない。

「だから、だから……ッ!」

 言葉にならない嗚咽。耐え難いほどの自責の念。頭を抱えて震えて──それでも、最後の一線だけは、超えられないその姿。彼が続けられないでいる、その言葉。言わずともわかる。こうなってしまったトレーナーが言う言葉なんて、一つだけだ。「自分は彼女のトレーナーを辞めるべきだ」。俺もこうなった経験があるからこそ、よくわかる。
 でも、だからこそ。その一線を超えられないでいる彼だからこそ。

 ──きっと、その絶望を乗り越えられることも、信じられる。

「なら、なんで今お前はここにいる」
「…………え?」

 信じられる。彼ならば、きっと。「辞めるべきだ」と感じていようとも、未だにトレセン学園にトレーナーという立場を捨てないでいる、彼ならば。
 ならば、彼が見るべきものは、ただ一つ。すなわち、その正論を超えて、それでもトレセン学園にいたいと思う、その理由だ。

「辞めるべきだ。そう思っているんだろう? なのに何故、お前はここにいる」
「それ、は……」
「桜花賞で彼女のことを信じてやれず、トレーナー失格だと思っているんだろう。自覚しているんだろう。なのに何故、お前はまだトレーナーをやっている」

 痛い。痛い。痛い。彼に向ける全ての言葉が、自分自身を傷つける刃になる。だって、俺も自分をそう思っているのだから。過去に二人の担当ウマ娘を勝たせてやれず、夢を叶えてやれずにいる俺もまた、トレーナー失格に決まっている。こんな無能はとっととトレーナーバッヂを外して出ていくべきだと、今でも心の底からそう思っている。
 でも、辞められないでいる。この場所にしがみついている。だから、自分の言葉が、まるでナイフのように突き刺さって、心から血が流れている。

 その理由は、何か。

 ──ウマ娘がトレセン学園に執着する理由が勝利であるならば。トレーナーがトレセン学園に執着する理由とは、何か。

 答えは、簡単。

「それは……それは」

 泣きそうな表情を浮かべつつ、彼が顔を上げる。情けない顔、とは思わない。毎朝鏡で見ている顔だ。見飽きるほどに見ている顔だ。自分はトレーナーに相応しくない、この場に留まるべきじゃない、さっさと辞表を書いて出ていくべきだ。そんな正論を、毎朝のように繰り返している顔だ。
 その正論を否定できないのに、どうしようもないたった一つの理由で、受け入れられないでいる顔だ。

「……辞めたく、ないん、です」
「それは、なぜだ」
「だって……それは」

 さあ、言っちまえよ、後輩。きっと、その理由、その答えが──




「あの子のことを、あの子の、輝く姿を……もっと、ずっと……誰よりも、一番側で、見ていたいから」




 ──きっと、お前を「スピードラビットのトレーナー」に戻してくれるさ。

 思わず溢れた言葉を、信じられないというように。口を覆うように右手を押し当てる。まるで、言ってはならないことを言ってしまったとでも言うかのように、顔を青くしながら。
 どうしようもないエゴイズム。他ならぬ自分こそが、担当ウマ娘の一番近くで支え続けたいという利己主義。その席だけは譲りたくないという執着心。ずっと年下の女の子に、まるで恋でもするかのように、他の誰にも渡したくないという独占欲。

 そして、これこそが「トレーナー」という人種の原動力。ウマ娘たちの輝きを、彼女たちと走る夢を、誰よりも特等席で見ていたいというエゴイズムこそ、トレセン学園に執着する理由だった。

「ち、ちがっ……! 僕は、そんなつもりじゃ……!」

 まるで、自分のその感情を認めたくないと叫ぶように、言い訳するように、慌てながら取り繕おうとするスピードラビットのトレーナー。その様子が少しおかしくて、これまで意識して浮かべていた硬めの表情を緩めて笑ってしまう。その様子を見てか、彼は気の抜けた表情を浮かべた。

「なんで否定するんだよ。別に悪いことじゃないさ」
「え……いや、でも、こんな……エゴまみれの独占欲が……」
「気にすんなよ。恥ずかしいってんなら表に出さなきゃいいだけの話さ」

 テーブルに置きっぱなしにして、結露してしまっているコーヒーに手を伸ばす。こりゃぬるくなってるな。週末に通っている喫茶店のコーヒーが恋しくなる。あそこのコーヒー美味いんだよなあ。週末が恋しくてたまらない。
 軽い音を立てて、缶を開ける。一口。ぬるい上にマズい。コーヒーじゃなくて紅茶にするべきだったな、なんて反省する。

 俺の様子に肩の力が抜けたのか、スピードラビットのトレーナーも脱力しつつ緑茶に手をのばす。軽い音。そして一口。

「……ぬるい、ですね」
「しかもマズい。カッコつけて『奢る』とか言っておいてこれとかしまんねーよなあ」

 笑いながら、飲み物を茶化す。いやでも実際申し訳ないな、これ。ちゃんとした飲み物奢るべきだわ。どうしよう、あの喫茶店紹介するか? マスターがちょっと気むずかしいんだけど、いい店なんだよなあ。たまに、コーヒーに詳しい青鹿毛のウマ娘とも会えて、色々と教えてもらえるのもプラスだ。
 彼がまた一口緑茶を口に運ぶ。その表情から、当初の険しさが和らいでいるように見えて、少しだけ安心する。それでも、まだ悩みは続いているようで。

「あの、先輩。いいんでしょうか……僕みたいなのが、彼女のトレーナーを続けても」

 先程よりずっとはっきりとした口調で、彼は語りだした。

「さっきも言ったように、僕は自分がトレーナーに相応しいと思えません……本当に彼女のことを思うなら、自分の気持ちなんて押し殺して、誰かに任せるべきなんじゃないかと、思ってしまうんです」

 自分の気持ちを言葉にして理解したからか、二つの思いを整理できている。トレーナーという職種に相応しくないという思いと、それでもスピードラビットのトレーナーでいたいという思い。
 どちらの思いも、彼の中では本心からのものだろう。道徳的、倫理的、これまで培ってきた常識から考えれば、前者が少しだけ重いというだけのこと。それでも、自分のエゴと独占欲が、そちらを選ぶことを許してくれない。
 その衝突。それを、俺は、

「知らん。そんなん自分で考えろ」

 突き放した。

「へっ……? あ、あの、先輩……?」
「俺が答えなんて持ってるわけないだろ、お前のことなんだから。その答えを出せるのはお前だけだよ、後輩」

 俺の役割は、彼の心を解して、問題を明らかにするところまでだ。そこから先は、彼自身が選ぶべき問題。だってそうだろう。ここで俺がどちらかを提示したところで、彼自身が選ばなければ、必ず後悔する。
 強いて言うのであれば。

「いっそ、担当と話してみりゃいいんじゃないか? スピードラビットだって当事者だろう」
「え、ええー……なんですかその投げっぱなし……しかもさっきは『表に出すな』とか言ってたのに……」
「ならお前、俺がここで『さっさと辞めろ』とか『黙って契約続けろ』って言って納得すんのか?」
「……いや、それは……」
「しないだろ。なら勝手にしろよ」

 あー、やだやだ。俺にこんな役割押し付けるんじゃないよ。まったく、あの担当ウマ娘は悩ませてくれる。
 ワットハイアとの会話で、最後に「任せた」と言われたときの表情を思い出す。挑戦的な笑みと同時に、「なんとかしてくれるだろう」なんて信頼してくれているあの表情。応えなきゃならなくなるじゃないか。

 ついついその態度が表に出てしまったようで、思い切りジト目を向けられる。おいやめろ、その手の表情はウマ娘みたいな美少女がやってこそ映えるんだよ。イケメンにやられたところで腹が立つだけだ。くそう、羨ましいなイケメン……まだボロボロなのに絵になるもんな……俺がやってもハイアに「キッッッッッショ」って言われるだけだもんな……。

「わかった、わかりました……なら、先輩には頼りません。自分でどうにかします」
「おう、そうしろー。でもって、スピードラビットもさっさと元気にしてくれ。うちの担当が気にしてんだよ」
「……ああー……すっかり忘れてた……スピードラビットどうしよう……」

 言いつつ、また頭を抱え始めるスピードラビットのトレーナー。おい、忘れてやるなよ。いやまあ、それだけ自分のことで手一杯だったんだろうけど。

「めっちゃ落ち込んでたもんなあ……どうやって慰めよう……なんでトリプルティアラって一回しか挑戦できないんだ……」
「……そのへんも自分で頑張ってくれ。俺としちゃあ、ウチの担当がスピードラビットを目標にしてるってか、憧れてるっぽいから、早めにどうにかして欲しいんだがね」

 コーヒーを飲みつつ、こちらの要求を伝える。本人は絶対にそう言わないが、ありゃあどう見ても憧れだ。同世代への憧れだから、上の世代への憧れとは形が違って、「絶対に追いつく」という形になっているだけ。メジロドーベルがエアグルーヴに向けていたのと同じ類だろう。絶対にワットハイア本人は認めないだろうが。「倒すべき相手って言ってんでしょうが!」とブチ切れる姿が目に浮かぶ。というかシルバーウィーク相手にプールサイドで叫んでいるのを聞いた。

 そんなふうに数日前のことを思い出していたからか、スピードラビットのトレーナーがピタリと止まっていることに気が付かなかった。

「…………先輩、今なんて言いました?」

 そして、ぐるりとこちらを見る。その目があまりにも鋭くて、つい気圧されてしまう。うおこっわ。ボロボロのイケメンこっわ。

「え、いや『早めにどうにかして欲しい』って」
「その前です」
「ええー……あー……『ウチの担当が、スピードラビットに憧れてる』か?」

 言った瞬間、目の前の後輩はいきなり腕を組んで考え事を始めた。ブツブツと呟きながら、目だけ爛々と輝かせつつ。傍から見てるとめっちゃ怖い。いくらイケメンでも不審者として通報されてもおかしくないぞ、その姿。
 漏れ聞こえてくるつぶやきを拾うと、「確かあのとき……」「もしこの考えが正しいなら……」というもの。なんだ、ワットハイアがスピードラビットに憧れているという事実が、何をそんなに刺激したんだ。

 戸惑っている俺を他所に、スピードラビットのトレーナーは考えがまとまったらしい。改めてこちらに顔を向ける。やっぱ目が怖い。

「先輩」
「は、はい」

 爛々と輝く目にドン引きしながら、思わず敬語で反応してしまう。いやだってめっちゃ怖いんだって! 今にもこっちに襲いかかってきそうなんだもん! もん! 助けてツインターボ師匠!

「お願いがあります」
「な、なんでしょう……?」

 こちらの恐怖を無視しつつ、スピードラビットのトレーナーは、こちらにその要求を伝えてきた。

「スピードラビットと先輩の担当ウマ娘で、併走トレーニングを。それもできれば、スピードラビットを負かすつもりの本気の併走を、お願いします」