Tier3 ソ連 巡洋艦 ボガトィーリ

Last-modified: 2018-03-25 (日) 06:09:34

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基本情報

Bogatyr.png
艦名ボガトィーリ艦級ボガトィーリ級進水1901年排水量5910トン全長134m16.6m出力23000馬力

性能諸元

テンプレートver.1.0.0.0
編集時ver.1.0.0.0
Tier3国家ソ連派生元ノヴィーク
艦種巡洋艦種別ツリー艦艇派生先スヴェトラーナ


基本性能

抗堪性継戦能力(HP)16,950
防郭防御7.50%
火災浸水耐性11.00%
装甲5.60%
対水雷防御6.90%
機動性
(操縦性)
最大速力23.90ノット[kt]
加速時間
(最大速度)
12.74秒
転舵速度7.40角度/秒
転舵所要時間6.30秒


隠蔽性通常副砲主砲火災煙幕
海面発見距離7.20km--0.0km0.0km
航空発見距離0.0km-0.0km0.0km-


搭載兵器

主砲船体兵器名/口径基数×門数最大ダメージ(火災)装填旋回速度弾種射程
-152mm/45口径 Model 18922基×2門
8基×1門
HE弾 414(3.00%)
AP弾 458
8.00秒9.60度秒-9.09km


副砲船体兵器名/口径基数×門数最大ダメージ(火災)装填旋回速度弾種射程
-75mm/50口径 Canet12基×1門HE弾 164(2.00%)6.00秒12.00度秒-4.52km


兵装レイアウト図
右が艦首側。
黄色の円の位置に主砲、桃色の円の位置に副砲がある。
反対側の左舷にも同じ位置に主砲と副砲がある。

Bogatyr-Layout.jpg

搭載可能装備

  • アイテム
    • 艦艇修理
      • 修理班
      • 上級修理班
    • 艦艇防御
      • 応急工作班
      • 上級応急工作班
  • 軍需物資
    • 高品質石炭
    • 高級船員食料
    • 予防整備パック
    • 改良型ディーゼルエンジン
    • 追加対空弾
    • 航空機用精製燃料
    • 補給パック
  • 装備
    • 兵装
      • 射撃システム改良I (主砲旋回速度:+10%、副砲旋回速度:+10%、魚雷管旋回速度:+10%)
      • 主砲改良I (主砲旋回速度:+20%)
      • 主砲改良II (主砲装填時間:-5%、主砲生存性:-25%)

アップグレード

船体 (3/3)
主砲 (3/3)
副砲 (3/3)
火器管制 (3/3)
エリート艦艇特性

  • 船体強化 (HP:+4%)
  • 改修済主装甲帯 (走行:+5%、防郭防御:+10%
  • 勲功: (勲功アップ:+10%)
    ...

ゲーム内説明

当時のロシア海軍における最高の防護巡洋艦。
総合的なバランスの良さと、数多く搭載された主砲に対する優れた防御によって知られる。
主砲の一部は砲塔に備え付けれられている。

解説

砲門は多いけれども機動力が悪く遅い。
米セントルイスの角を少し丸くしたような存在だ。
攻撃力は152mm砲合計12門の主砲に加えて副砲がついた。
近距離ではガンガン撃って撃って撃ちまくれるが、Tier3は魚雷天国なので機動力に欠ける本艦が突出してよい場面はあまりないだろう。

  • 主砲
    艦首と艦尾に152mm砲2連装が1基ずつ、右舷と左舷に152mm砲が4門ずつある
    米セントルイスとほぼ同レベルの火力といえる
  • 副砲
    右舷と左舷に75mm砲が6門ずつある
    射程の4.5km以内の接近戦になれば、主砲と副砲の連続攻撃で撃ち勝てる力強さを発揮する
  • 魚雷
    なし
  • 機動力
    同格では米セントルイスよりましという程度で、格上はおろか格下巡洋艦にも劣る
  • 対空
    なし
  • 強化
    編集待ち

史実

パルラーダ級防護巡洋艦の建造終了ののち、ボガトィーリ級防護巡洋艦が計画・建造された。
極東の対日本用に2隻(ボガトィーリ、オレーク)、黒海艦隊用に2隻(カグール、パーミャチ・メルクーリヤ)が建造され、日露戦争および第一次世界大戦に投入された。
その他に「ヴィーチャシ(Vityaz/Витязь)」がペテルブルクで1900年起工していたが、1901年火災に遭いひどく損傷したため建造を断念した。
主砲には、当初は203mm砲を搭載すべきとの意見も強かったが、その意見は退けられて実際には152mm砲が搭載された。
その152mm砲も後に130mm砲へ換装されている。

日露戦争時のボガトィーリ

日露戦争時のボガトィーリ
ボガトィーリ就役
ボガトィーリ(Bogatyr/Богатырь)は、ドイツのシュチェチン(Szczecin、現ポーランド)で1899年12月21日起工、1901年1月30日進水、1902年8月20日竣工。
太平洋艦隊へ派遣され、ウラジオストク巡洋艦隊に所属した。


ウラジオストク巡洋艦隊
ウラジオストク巡洋艦隊は、ボガトィーリ含む4隻の巡洋艦を中心とする構成で、マカロフ太平洋艦隊司令がイェッセンを艦隊司令に任命し、艦隊を指揮させていた。
イェッセンのもと、ウラジオストク巡洋艦隊は日露戦争において日本海始め日本近海を活動の主領域とし、通商破壊作戦を中心に行っていた。
その行動は神出鬼没のゲリラ的活動で、時には東京近海にも現れ、日本海軍を翻弄しおびやかした。
そのため、日本海経由の物資輸送は断念せざるを得ず、対馬海峡の制海権維持のために相当数の戦力を主戦場の旅順から大きく離れた対馬海峡にさかざるをえなかった。


ボガトィーリ座礁
ボガトィーリもその主要艦船としてで大いに暴れていたのだが、霧の濃い1904年5月15日、アムール湾で座礁してしまった。
ボガトィーリが座礁で被った損傷は酷いものだったらしく、日露戦争終結までにウラジオストク港での修理を終えることができなかった。


蔚山沖海戦
ウラジオストク巡洋艦隊はボガトィーリが欠けてからも引き続き活動を続けていた。
1904年8月10日に旅順艦隊がウラジオストクへ向かった(黄海海戦)ため、イェッセンはウラジオストク巡洋艦隊を率いて支援に向かったのだが、8月14日、ノヴィーク追跡のため出撃していた日本海軍の上村艦隊と戦闘となり敗退、ウラジオストクへ撤退した。
この海戦でロシアは巡洋艦1隻を撃沈され、残り巡洋艦2隻も損傷が大きく、それを境にウラジオストク巡洋艦隊の活動は停滞せざるを得なくなった。
イェッセンは日露戦争終結を待たず本国に呼び戻され、敗戦の責任を負って左遷、1908年退役した。

日露戦争時のオレーク

日露戦争時のオレーク
オレーク就役
オレーク(Oleg/Олег)は、サンクトペテルブルクで1902年7月6日起工、1903年8月14日進水、1904年6月24日竣工。
オレークは対日本用に建造されたのだが、就役の時、既に日露戦争は始まっていた。


バルチック分遣艦隊
バルチック艦隊はバルト海を主な活動領域とする艦隊だが、歴史的にバルチック艦隊の分遣艦隊のような形で太平洋艦隊が組織されていた経緯があった。
そして日露戦争が始まると極東の太平洋艦隊を支援するために新たに極東への分遣艦隊が選抜された。
オレークは、分遣艦隊の中でもエンクイスト提督が率いる第一巡洋艦隊の旗艦として組み込まれた。


北海事件
分遣艦隊はバルト海から遠征の旅に出た。
大型艦船は喜望峰をまわり、小型艦船はスエズ運河経由で、インド洋で合流するルートである。
ところがこの分遣艦隊は旅の序盤で大きくつまづいた。
日本の水雷艇が道中待ち伏せて攻撃してくるとの情報があり、バルチック艦隊の空気はピリピリしていた。
そして1904年10月21日、北海でただのイギリス人漁師の漁船を日本海軍の水雷艇と間違えて全力で攻撃してしまうという事件を起こしてしまった。


国際世論の非難
この非人道的な事件で、被害者側の国イギリスは宣戦布告する構えを見せた。これはロシア外交の謝罪等でどうにか抑えられたが、国際世論は反露親日へ大きく傾くことになった。
また、イギリスは自国及び植民地等の支配圏(南アフリカ、エジプト、アラビア半島、インド、香港等)でのバルチック分遣艦隊への道中での石炭や真水の補給をしない旨を表明し、イギリスの友好国フランス(西アフリカ沿岸一帯、インドシナ等)へも同様の措置をするよう求めた。


遠征の困難
このように彼らの旅は簡単なものではなかった。食料や水、燃料の補給に苦労し、国際世論の非難を浴び、長旅の疲れ、そして乗組員の士気には悪い影響があっただろう。
それでもロシア帝国のため、ウラジオストクを目指して対馬海峡まで到達した。


エンクイスト提督逃亡
遠路はるばるやってきたバルチック艦隊は、待ち構えていた連合艦隊との日本海海戦(Battle of Tsushima、1905年5月27-28日)に突入した。
オレークらの属する第一巡洋艦隊の司令エンクイスト提督は、戦闘初日の日没後、戦闘継続およびウラジオストクを目指す任務を放棄して南へ撤退する旨を部下たちに告げた。
味方艦隊を見捨てて独断で戦場放棄し敵前逃亡するというこの判断に対し、エンクイスト提督の部下たちは当然反対した。しかしエンクイストは反対を押し切って旗艦オレークを南へ向けて移動させた。
オレークはそのまま戦域を南に離脱し、巡洋艦オーロラ、巡洋艦ジェムチュクとともにフィリピンのマニラまで到着し、そこで抑留された。
エンクイスト提督逃亡の翌日、日本海海戦はバルチック艦隊の壊滅的敗北で終わった。

日露戦争後

日露戦争後
1905年9月5日、ポーツマス条約調印により日露戦争は終結した。
日露戦争後、ロシアと日本の外交関係は戦前とは真逆に良好なものとなり、極東の日露安全保障は好転した。
終戦後にようやく修理を終えたボガトィーリも、マニラで抑留されていたオレークも、バルト海へ戻り、バルチック艦隊本体に編成された。


メッシーナ大地震
1908年12月28日、イタリア南部のシチリア、メッシーナ海峡を大地震が遅った。正確な犠牲者数は不明ながら10万人を超えたともいわれている。
近隣諸国の海軍からは救援のために軍艦をそれぞれ派遣しており、ボガトィーリもその中のひとつとして地中海に派遣され、瓦礫の山から現地住民を救助するなどの活動を行ったが、ボガトィーリ乗員から二次災害による被害者も出た。


改修
この時期、ボガトィーリとオレークは魚雷網の撤去などのマイナーな改修を受けている。

第一次世界大戦時のバルチック艦隊

第一次世界大戦時のバルチック艦隊
第一次世界大戦においてバルチック艦隊は主にバルト海でドイツ海軍と戦った。
ボガトィーリとオレークは機雷敷設船の支援や、機雷敷設そのものに従事することが多かった。


軽巡洋艦マクデブルクとの戦い
1914年8月26日、ボガトィーリは巡洋艦パラルーダとともにドイツ軽巡洋艦マクデブルクを捕獲しようとした。
マクデブルク乗員は捕獲を阻止のためマクデブルクを自沈させた。しかしマクデブルク艦長が捕らえられてドイツの暗号書をロシアは手に入れた。


ゴットランド島沖海戦
1915年7月2日、機雷敷設をしていた巡洋艦アルバトロスと巡洋艦アウグスブルクらのドイツ軍一団に対して、ボガトィーリとオレークらのロシア軍が攻撃し、アルバトロスは転覆を避けるために座礁、アウグスブルクらは逃走した。


130mm砲
1915年の終わり頃、ボガトィーリとオレークは150mm砲から130mm砲に換装した。

カグールとパーミャチ・メルクーリヤ



ボガトィーリとオレークの物語はここで一旦停止し、少し時間をさかのぼってカグールとパーミャチ・メルクーリヤの物語に移る。


カグールとパーミャチ・メルクーリヤ
カグール(Kagul/Кагул)は、セヴァストポリにて1901年2月27日起工、1902年9月21日進水、1909年6月10日竣工。
パーミャチ・メルクーリヤ(Pamyat Merkuriya/Память Меркурия)は、ニコラーエフ(現ウクライナ)にて1901年8月23日起工、1902年5月20日進水、1905年某日竣工。
どちらも黒海艦隊に所属した。


オチャーコフ
カグールは当初は「オチャーコフ(Ochakov/Очаков)」という艦名だった。
彼女はボガトィーリ級防護巡洋艦としては3番目に起工されたのだが、日露戦争の影響もあり建造は停滞してしまっていた。


血の日曜日事件
一方、その頃のロシア帝国内の政治情勢について。
1905年1月22日、まだ日露戦争中のサンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」が起きた。
これは数万人ほどの労働者らのデモ行進に軍人が発砲し、数千人の死者を出した悲惨な事件であった。
ロシア皇帝には伝統的にロシア正教の宗教的な権威付けがあり、民衆は苦しい生活の中でもロシア皇帝を文化的宗教的に崇拝し尊敬していた。
この事件は、その皇帝の軍隊が民衆を虐殺した形となり、起きた事実以上にロシア国民に衝撃を与えることになった。
すなわち民衆は皇帝に言葉では言い表せないほどの失望を覚え、民衆の心は精神的に皇帝から離れることになり、帝国崩壊の序曲となったのである。


戦艦ポチョムキンの叛乱
この事件をきっかけに、ロシア各地でデモや暴動やストライキなどが多発するようになっていた。
黒海艦隊でも、セヴァストポリで1905年6月14日に戦艦「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵」の乗員が武装蜂起、オデッサへ移動し現地の労働者運動に合流した。ただこの叛乱は1か月もしないうちに鎮圧された。


オチャーコフの叛乱、そしてカグールへ
そして1905年11月、建造中の「オチャーコフ」でも叛乱が起きた。
これはわずか数日で鎮圧された。しかしそのために「オチャーコフ」はひどく損傷し、建造の進捗はますます遅れることとなってしまった。
また、叛乱を起こした艦の名称「オチャーコフ」は忌むべき名として排され、1907年4月7日「カグール」に艦名変更した。


元祖カグール
「オチャーコフの叛乱」は別の艦にとばっちりを浴びせることになった。
実は「カグール」は本来その別の艦の名前であった。
「オチャーコフ」の艦名を「カグール」へ変更する際に、その「元祖カグール」は名前を取り上げられるような形になってしまったのである。
「元祖カグール」はボガトィーリ級防護巡洋艦として4番目に起工された。つまり「後のカグール」の妹である。
「元祖カグール」も姉と同様に日露戦争の影響で建造が停滞してしまっていた。
それでも1905年に竣工したことになっている。


ところが「オチャーコフの叛乱」によって「後のカグール」はひどく損傷したため、同型艦である「元祖カグール」から操舵装置が供出されることになった。
その操舵装置は1906年に再び「元祖カグール」に戻されることになったのだが、同時期に新式の操舵装置が完成したため「元祖カグール」に取り付けて試験してみようということになった。結果はとても良好だったので、元の操舵装置は再び「後のカグール」に供出されることになった。
また、日露戦争も終わって戦闘の分析結果が報告されたり、同型艦のボガトィーリやオレークが戻ってきたり、といった事情から、「元祖カグール」にはそれらのデータをもとに改良が加えられていった。むろんそれは「後のカグール」も同様であった。


パーミャチ・メルクーリヤ
結局、「元祖カグール」が使える状態になり黒海艦隊へ配備されたのは1907年のことである。
配備直後の1907年3月25日、「元祖カグール」は艦名を「パーミャチ・メルクーリヤ」へ改称した。
これは先代の旧式艦パーミャチ・メルクーリヤが引退するのに伴い、その名を引き継ぐことになったからである。
この名称は19世紀前半露土戦争における「メルクーリイ」の奇跡的な活躍を讃えて、皇帝ニコライ1世が黒海艦隊にその名を冠した艦船を絶やしてはならぬと勅命したものである。


かくして「元祖カグール」は栄誉ある「パーミャチ・メルクーリヤ」になり、ゲオルギイの旗を相続した。
遅れること1909年、姉の「カグール」はようやく黒海艦隊に配備された。
しかし、この同型艦の間で「カグール」という名称が入れ替わったのは、この姉妹がほぼ同時期に同じ場所で活動していたということもあって、いろいろと紛らわしく混乱を招くことになった。軍や政府関係者の公式文書等にも混乱があったという。
一般的には姉のほうをいう場合は「カグール」又は「オチャーコフ」の名で呼び、妹のほうをいう場合は「パーミャチ・メルクーリヤ」又は後の名である「コミンテルン」の名で呼ぶことが多い。


ボガトィーリとカグールとパーミャチ・メルクーリヤ
1909年12月5日、皇族のミハイル・ニコラエヴィチ大公がフランス・カンヌで没すると、チュニジア・ビゼルトで訓練中だった巡洋艦ボガトィーリにその遺体をロシアまで送り届ける任務を与えられた。
ボガトィーリは地中海からダーダネルス・ボスポラス両海峡を抜けてセヴァストポリに入ったが、ボスポラス海峡からセヴァストポリ入港までの間、カグールとパーミャチ・メルクーリヤはボガトィーリの護衛を担当した。

第一次世界大戦時の黒海艦隊

第一次世界大戦時の黒海艦隊
クリミア半島とロシア黒海艦隊
クリミア半島は黒海の中央に位置し、セヴァストポリのような良港を持っている。
したがってロシアやウクライナなど黒海の沿岸地域やドナウ川から黒海を経て地中海に抜ける航路に欠かせない地域である。
2014年にクリミア半島がロシアに編入された件を踏まえても、
この半島は、中世から21世紀の現在に至るまで一貫して地政学的に重要な場所であり続けている。


歴史的には、クリミア半島はモンゴル帝国の末裔たるクリミア・ハン国が中世より統治していた。
15世紀にオスマン帝国はクリミア半島へ勢力を伸ばし、クリミア・ハン国を従属国にしている。
ところがロシアが次第に発展しジョチ・ウルス(旧キプチャク・ハン国)の版図を侵食するにつれて、黒海から地中海に抜けるためにクリミア半島が必要になっていった。
ロシアは18世紀後半の露土戦争により1774年クリミア・ハン国をオスマン帝国から独立させた後、1783年ロシアはクリミア・ハン国を併合してロシア領とした。


クリミア半島のセヴァストポリを手に入れたロシアは黒海艦隊を拡充し、19世紀には何度も露土戦争が行われている。
しかしクリミア戦争では、ロシアはオスマン帝国と英仏伊の連合軍に敗北し、1856年パリ条約により黒海艦隊は武装解除させられた。
1871年のロンドン条約でようやく黒海艦隊の再武装・再建ができるようになったものの、極東の安全保障の緊張の高まりから黒海のほうは遅れ気味になっていた。


第一次世界大戦時の黒海艦隊
クリミア戦争で壊滅してからの再建途上にあった黒海艦隊にとって、カグールとパーミャチ・メルクーリヤの姉妹巡洋艦は待望の近代的巡洋艦であった。
第一次世界大戦の前、ドレッドノート革命でボガトィーリ級を含む防護巡洋艦は軒並み旧式化していた。
カグールとパーミャチ・メルクーリヤも起工から就役まで10年近くかけたこともあり、世界水準では決して優秀とはいえなかった。
それでも黒海艦隊の当面の主要敵国は落ち目のオスマン帝国であり、その海軍力はとるに足らないものだった。
つまりカグールとパーミャチ・メルクーリヤは黒海では圧倒的性能を誇る巡洋艦といえた。


強敵登場
しかしその優位性は一瞬にして覆された。
地中海にいたドイツ海軍のモルトケ級巡洋戦艦ゲーベンとマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウが、英仏艦隊の追跡を振り切って1914年8月16日、オスマン帝国のイスタンブールに入ったのである。
オスマン帝国はこの2隻をドイツ人乗員ごとドイツから買い取り、戦艦ヤウズ・スルタン・セリムおよび軽巡洋艦ミディッリに改名してオスマン帝国海軍に編成したのである。


性能差
カグールとパーミャチ・メルクーリヤの速力は23ノットであるのに対して、ミディッリの速力は27ノット、戦艦ヤウズ・スルタン・セリムでさえ25ノットであり、それ以外にも性能面で完全に相手の方が上であった。
そもそもカグールとパーミャチ・メルクーリヤのボガトィーリ級防護巡洋艦は、相手よりも約10年前の旧式であって、その10年の間にはドレッドノート革命があったのだから仕方のないことと言えた。
いずれにせよ、カグールとパーミャチ・メルクーリヤの第一次世界大戦は、この2隻、特にミディッリとの戦いになった。


対抗策
ミディッリとヤウズ・スルタン・セリムの登場で、第一次世界大戦序盤は彼らの独壇場であった。
なにしろ追撃しても追いつけないし、逃げても逃げられない、火力も装甲も向こうが上、というのは、1対1で戦えばやられるということである。
黒海艦隊は個々の力ではかなわないので集団連携の組織力と、機雷敷設で対抗する策にでた。
また、戦艦については、短期的には既存戦艦の近代武装化、並行して弩級戦艦の配備を急いだ。
ヤウズ・スルタン・セリムのほうは、オスマン帝国側にこれを修理する設備が不十分であったこともあって、出撃を重ねるにしたがって次第に消耗していったり、大きな損傷をうけると復帰するまで時間がかかる、という問題もあったので、黒海での戦況は次第にロシア優勢に傾いていった。


カグールとパーミャチ・メルクーリヤの働き
カグールとパーミャチ・メルクーリヤ姉妹は、敵のミディッリに性能面では劣るとしても、第一次世界大戦の黒海艦隊において終始主力巡洋艦として活躍した。
通商破壊作戦や偵察任務、オスマン帝国の海上封鎖任務、また、威力偵察部隊や機雷敷設艦船の護衛任務、そして主力艦戦隊の対潜防衛任務といった役割において欠かせない存在であった。
また、味方との連携でミディッリを翻弄することも何度もあった。
いつしか敵のミディッリは、自身がカグールまたはパーミャチ・メルクーリヤのように見えるように迷彩で偽装するようになっていた。


130mm砲への換装
1916年、ボガトィーリやオレークと同様に、カグールとパーミャチ・メルクーリヤも、150mm砲から130mm砲への換装が行われている。

ロシア内戦

ロシア内戦
二月革命
1917年二月革命によりロマノフ朝ロシア帝政は終焉した。
カグールはかつての「オチャーコフの叛乱」の不名誉な過去が再評価され、旧名称「オチャーコフ」に復帰した。
ロシア内戦末期にはさらに白軍により「ゲネラール・コルニーロフ」に艦名変更されるのだが、面倒なので、この後もこの記事では一貫して「カグール」と表記する。


十月革命
1917年十月革命によりボリシェビキがロシア政権を掌握し、ロシアは内戦状態へ突入した。
ボガトィーリとオレークの乗員はボリシェビキを支持し赤軍に属している。
また、カグールとパーミャチ・メルクーリヤを含む黒海艦隊の指揮権も赤軍が掌握した。
パーミャチ・メルクーリヤでは名誉あるゲオルギイの旗を掲げるのをやめた。


ブレスト=リトフスク講和条約
1918年3月3日付でブレスト=リトフスク講和条約が締結、ボリシェビキのロシアはドイツなど第一次世界大戦の敵国と講和した。


Ice Cruise of the Baltic Fleet
講和条約履行の義務のため、レーニンは1918年2月17日、エストニアのレヴァル(タリンの旧都市名)とフィンランドのヘルシンキにいたバルチック艦隊に対して、条約発効までに直ちにクロンシュタットへ撤収するよう命令した。


レヴァルとヘルシンキはフィンランド湾からバルト海への出口付近の南北に位置する重要都市で、また、クロンシュタットはフィンランド湾最奥部のサンクトペテルブルクの手前にあるコトリン島東部の軍港都市でバルチック艦隊の母港である。


フィンランド湾は季節を問わず航行の難所として知られており、今でも沈没船が多数沈んでいる海域である。
また。この時期はちょうど厳寒の真冬でありフィンランド湾は氷に閉ざされていたと思われる。
バルチック艦隊の艦船は砕氷艦のような装備を持っていたが、凍った海が危険なことに変わりはなかった。
ボガトィーリとオレークを含むバルチック艦隊は、厳寒の中砕氷船に導かれて危険な退却行を乗り切った。
これはIce Cruise of the Baltic Fleetと呼ばれている。
ドイツはレヴァルとヘルシンキのロシア船を接収しようと行動していたが、目的地に着いた時にはすでにもぬけの殻であった。


ボガトィーリ係船
1918年5月、ボガトィーリは係船され活動を停止した。


オレーク沈没
ブレスト=リトフスク講和条約発効後、バルチック艦隊はイギリス海軍やイギリスが後援する白軍、エストニア軍、ラトビア軍と交戦するようになっていた。
オレークはバルチック艦隊の中でも最も稼働した艦船のひとつであった。
1919年6月17日、オレークはイギリス海軍の水雷艇HM Coastal Motor Boat 4の雷撃によりクロンシュタットで沈没した。


黒海におけるウクライナ独立運動勢力
十月革命以降、ウクライナはドイツの後ろ盾を得てロシアからの独立を目指すようになった。
黒海艦隊の兵士の大部分はウクライナ人で構成されていたこともあり、ウクライナは黒海艦隊の所有権を赤軍から奪おうと試みていた。
ブレスト=リトフスク講和条約によりドイツに有利な条件でロシアが講和すると、ウクライナ軍とドイツ軍は優勢となり黒海艦隊を掌握した。
パーミャチ・メルクーリヤは、艦隊のウクライナ化によって艦名を「ヘーチマン・イヴァン・マゼーパ」という、ウクライナの英雄にちなんだ名称に変更した。


黒海における白軍とイギリス軍
しかしウクライナ軍の覇権はわずかな期間で終了した。
1918年11月ヴィルヘルム2世が亡命し、ドイツが第一次世界大戦で事実上敗北すると、ドイツの後ろ盾を失ったウクライナ独立勢力は衰退し、かわってイギリス・フランスの後ろ盾により白軍がウクライナ・クリミアの支配権を得たのである。
ウクライナ勢力の衰退により、パーミャチ・メルクーリヤは再びもとの「パーミャチ・メルクーリヤ」に名前を戻した。
イギリスとフランスの後ろ盾を得た白軍は攻勢に出てモスクワへ迫るほどの勢いがあった。
しかしそれも一時的なことだった。白軍は結局のところ帝政ロシア時代の貴族や地方領主階級が多く、民衆の支持を得られなかったのである。
赤軍は勢力を立て直し、白軍は劣勢になり、次第にクリミア半島に追い詰められていった。


パーミャチ・メルクーリヤ爆破
赤軍はクリミア半島南西部のセヴァストポリに迫りつつあった。
イギリス軍はクリミアから撤退することにしたが、撤退に際して黒海艦隊を赤軍に利用されないように処理した。
1919年4月26日、パーミャチ・メルクーリヤを含む黒海艦隊の艦船は、イギリス人によって爆破された。
パーミャチ・メルクーリヤは沈没こそしなかったが、少なくとも機関が破壊され稼働不能になった。
セヴァストポリにいなかったカグールやその他の黒海艦隊の艦船は難を逃れた。


クリミアの白軍の終焉
1919年6月24日、白軍はセヴァストポリを奪回し、赤軍はクリミアから撤退した。
1919年8月、カグールは英仏軍のオデッサ侵攻に加わっている。
1920年11月、赤軍に追い詰められたクリミア半島の白軍は国外へ逃れ亡命政権を立てることにした。
白軍と難民たちはカグールを含む黒海艦隊の艦船で地中海に逃れ、チュニジアのビゼルトへ到着した。
しかしそこで軍艦はフランスによって抑留され、亡命を図った白軍は軍事力を喪失した。カグールもまた、フランスにより抑留された。
破壊されたパーミャチ・メルクーリヤはセヴァストポリに取り残されたままだった。

コミンテルン

コミンテルン
ソヴィエト連邦成立
1922年、ロシア内戦は収束し、ソヴィエト連邦が成立した。
ソ連は海軍の整理・整備・再編に着手した。


ボガトィーリ解体
係船されていたボガトィーリについては、解体処分とした。
ただし一部は「コミンテルン」の修復のために流用された。


オレーク引き揚げ・解体
クロンシュタットで沈没したオレークについては、1919年、1933年、1938年に分けて引き揚げてそれぞれ解体処分とした。


カグール返還要求
フランスに抑留されていたカグールについては、ソ連政府はフランスに対して繰り返し所有権を主張し返還を要求していた。しかし1933年、返還が果たされないままフランスにより解体処分された。


爆破されたパーミャチ・メルクーリヤの修復
パーミャチ・メルクーリヤは、爆破され破壊されたままひどい状態でセヴァストポリに捨て置かれていた。
しかしソ連はこれを修復再建することにした。
修復に際しては、プロパガンダのため艦名を「コミンテルン」へ変更した。
そして、前述のボガートィリの部品なども流用されて修復された。


コミンテルン
1923年11月7日、「コミンテルン」の修理は完了した。
しかしながら機関を破壊されていたということもあり、往時23ノットだったのが19ノットに低下しており、他の箇所も元どおりというわけにはいかなかった。
既に旧式化して久しい「コミンテルン」は練習用として使われた。


映画「戦艦ポチョムキン」
映画『戦艦ポチョムキン』が1925年に撮影された。
戦艦ポチョムキンの叛乱事件を題材に、ソ連のプロパガンダも兼ねて企画されたもので、淀川長治氏も一番良かった映画としてあげていた名作である。
戦艦ポチョムキンは、パーミャチ・メルクーリヤが爆破されたときに同様に爆破されており、修理不能として既に解体されていた。
従って「コミンテルン」を代替として撮影の一部に使用している。


第二次世界大戦
第二次世界大戦開戦の時、「コミンテルン」は機雷敷設船として使われていた。
それまでの様々な改修により速力は12ノットに低下していた。
やがて独ソ戦が始まり、黒海は再び戦争の舞台となった。
1942年7月16日、ドイツ空軍の空襲により大破した。
1942年10月10日、「コミンテルン」は閉塞船としてホビスツカリ川(現ジョージア)河口に沈められた。


コミンテルンの現在
21世紀の現在、「コミンテルン」の名称のもとになったコミンテルンもソヴィエト連邦もなくなってしまったが、彼女の船体は今でもホビスツカリ川河口にあり、黒海とともにある。
彼女の姿は潮が引いたときには見ることができる。
(註:コミンテルンの沈んでいる場所(Google Map))
黒海とクリミア半島は今も地政学的な重要性に変わりがなく、安全保障上の緊張のたねをはらんでいる。

 

WG公式によるBogatyrについての史実動画

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小ネタ

戦艦ポチョムキン
映画史の教科書に必ず取り上げられる名作で、オデッサの階段が特に有名
甲板上などのシーンにボガトィーリ級防護巡洋艦コミンテルンが使われていると思われる

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※映像の著作権は期限切れですが、サウンドや英語や日本語の翻訳等は後から足されたもので、そちらには著作権があります

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