Tier2 ソ連 巡洋艦 ノヴィーク

Last-modified: 2018-03-22 (木) 10:04:40

編集中の為異なる情報があります

基本情報

Novik.jpg
艦名ノヴィーク艦級ノヴィーク級進水1901年排水量3080トン全長110m12.2m出力18000馬力

性能諸元

テンプレートver.1.0.0.0
編集時ver.1.0.0.0
Tier2国家ソ連派生元オルラン
艦種巡洋艦種別ツリー艦艇派生先ボガトィーリ


基本性能

抗堪性継戦能力(HP)12,753
防郭防御5.00%
火災浸水耐性10.00%
装甲5.60%
対水雷防御4.50%
機動性
(操縦性)
最大速力24.73ノット[kt]
加速時間
(最大速度)
11.26秒
転舵速度7.10角度/秒
転舵所要時間5.10秒


隠蔽性通常副砲主砲火災煙幕
海面発見距離6.60km--0.0km0.0km
航空発見距離0.0km-0.0km0.0km-


搭載兵器

主砲船体兵器名/口径基数×門数最大ダメージ(火災)装填旋回速度弾種射程
-120mm/45口径 Model 18928基×1門HE弾 327(3%)
AP弾 338
6.00秒8.00度秒-8.40km



兵装レイアウト図
右が艦首側。黄色の円の位置に主砲がある。

Novik-Layout.jpg

搭載可能装備

  • アイテム
    • 艦艇修理
      • 修理班
      • 上級修理班
    • 艦艇防御
      • 応急修理班
      • 上級応急修理班
  • 軍需物資
    • 高品質石炭
    • 高級船員食料
    • 予防整備パック
    • 改良型ディーゼルエンジン
    • 追加対空弾
    • 航空機用精製燃料
    • 補給パック
  • 装備

アップグレード

船体
主砲
副砲
火器管制
エリート艦艇特性

  • 船体強化(HP:+4%)
  • エリート砲術員(主砲装填時間:-3%、主砲旋回速度:+7%)
  • 勲功(勲功アップ:+10%)

ゲーム内説明

ノヴィークは、偵察巡洋艦のパイオニアだ。
射撃速度に優れた砲を持つが、装甲は脆弱となっている。
就役期間中において、世界最速の巡洋艦として活躍した。

解説

史実では高速巡洋艦なのだが、本ゲームでは他の同格巡洋艦とほぼ横並びで機動力は平均的である。
主砲は120mm砲で、同格巡洋艦と比較すると、単発火力の日米と手数型のドイツとの中間的な性能となっている。
単独で突出することなく味方と一緒に行動して各個撃破していこう。

  • 主砲
    120mm砲が艦首と艦尾に1門ずつ、左舷と右舷に3門ずつの合計8門備えている。
    単発で優れる日米、手数で圧倒する独ドレスデンの中間的な位置付けといえる。
  • 魚雷
    なし
  • 機動力
    派生元のオルランから少し数値は落ちている。
    他の同格巡洋艦とほぼ同じでTier2巡洋艦としては速めだが平凡。
  • 対空
    なし
  • 強化
    編集待ち

史実

「ノヴィーク」(Novik/Новик)はロシア帝国海軍の防護巡洋艦である。
旅順艦隊に属し、日露戦争では黄海海戦、宗谷沖海戦を戦った。
日本語では「ノーウィック」と表記されることも多い。
後に日本海軍の通報艦「鈴谷」となった。
なお、ノヴィーク級駆逐艦や最上型重巡洋艦「鈴谷」とは異なる。

ノヴィーク就航

ノヴィーク就航
ノヴィークは、1899年ドイツのシーシャウ社で起工、1900年進水、1901年竣工した。
日露戦争直前の太平洋艦隊がノヴィークの就役先である。
当時の日本連合艦隊の巡洋艦は21ノットに揃えていたのだが、ノヴィークの速力は25ノットで日本の巡洋艦を完全に凌駕していた。

日露戦争開戦

日露戦争開戦
西洋列強の雄国ロシアとアジアの新興国日本は日露戦争に突入した。
開戦時、ロシア太平洋艦隊は主戦力を旅順に集めていた(旅順艦隊)。ノヴィークも旅順艦隊に属した。
一方でウラジオストクの戦力はボガトィーリなどの巡洋艦主体とし(ウラジオストク巡洋艦隊)、通商破壊などゲリラ的に活動し、連合艦隊の一部を旅順から切り離して分散させる役割を担った。


旅順艦隊と連合艦隊のにらみ合い
日露戦争の主戦場は旅順要塞であり、日本陸軍による旅順要塞攻略の成否が日露双方の勝敗のカギを握っているといえた。
だが仮に旅順艦隊が連合艦隊に勝利し、対馬海峡、日本海及び黄海の制海権を確保したならば、日本陸軍は兵站を失い無残に敗北するのは必定であった。
日本が戦争を継続し勝利するには制海権を維持していかなければならず、旅順艦隊はそれを脅かす脅威であった。


旅順艦隊は緒戦に小規模な戦闘を散発的に行った後は基本的には旅順港に引きこもって戦力温存する策をとった。
旅順艦隊は単独でも連合艦隊と互角の戦力を保有していたが、ロシア最強のバルチック艦隊が極東に来るのを待っていたのである。
さすれば旅順艦隊とあわせて連合艦隊の2倍以上の戦力差をもって圧勝できるからである。


旅順口攻撃
旅順艦隊を旅順港に引きこもっている限り、当面の制海権は安泰ではあったけれども
連合艦隊は旅順艦隊が健在のままバルチック艦隊を迎えるという最悪のシナリオを回避しなければならなかった。
そのため幾度も旅順艦隊を無力化するための作戦を立案し実行したがいずれも目的を果たせなかった。


ノヴィークの活動
ノヴィークはこれら旅順口攻撃における戦闘では他のどの艦よりも勢力的に活動し、いくつかの活躍の記録を残している。
第4次旅順口攻撃では水雷艇ステレグーシチイが無力化・捕獲されようとしていたところ、司令官マカロフみずからノヴィークに乗り救援に向かった。
日本側はこれによりステレグーシチイの捕獲をあきらめ撃沈して撤退した。
三回にわたる旅順口閉塞作戦ではノヴィークらの妨害により日本側は手ひどい損害を受け、結局閉塞作戦そのものを断念した。
これら一連の攻防の途中、1904年3月、ノヴィークの艦長はニコライ・フォン・エッセン中佐はマカロフ司令官に見込まれて別の戦艦の艦長へ異動となり、後任の艦長にマクシミリアン・フォン・シューリツ中佐が任命されている。


日露双方の損耗とマカロフ司令官の戦死
その後日露双方は海上に機雷を敷設し挑発や罠によって敵戦力を削る方針をとり、日露双方の戦力に損害が出た。
日本側は戦艦2隻を含む合計8隻の艦船を失った。
ロシア側は戦艦ペトロパヴロフスクとそれに乗っていた司令官マカロフを失った。
マカロフは名将として、またその海軍戦術論で世界的に高名な人物だった。
マカロフの著書『海軍戦術論』は、出版直後に東郷が直ちに邦訳させて海軍将校に必ず読ませ、自らは何度も読み返し書き込んで研究していた。日露戦争中も戦艦三笠の私室に持ち込んでいたという。
それらの損害はあったが、旅順艦隊と連合艦隊との攻防は全体としては膠着しており双方に決め手を欠いていた。

黄海海戦

黄海海戦
旅順艦隊の戦力温存作戦は、しかし日本陸軍の旅順攻略の進捗が進むにつれ万全とは言えなくなっていった。
旅順港を日本陸軍が観測・砲撃できる拠点を確保すれば、旅順艦隊は逃げ場のないまま日本の砲撃により壊滅してしまうからである。
そこで1904年8月10日、機雷を掃海し、旅順艦隊はウラジオストクを目指して旅順港を出た。
司令官ヴィトゲフト少将の戦艦ツェサレヴィチを旗艦とした艦隊は単縦陣を作り南東を目指した。
ノヴィークはそれとは別に駆逐艦を率いて主力の単縦陣と並行して進み、同じく南東を目指した。
旅順艦隊との決戦を待ち焦がれていた連合艦隊はただちに迎撃のため出陣した。


緒戦の駆け引き
旅順艦隊の目的は連合艦隊をかわして南東へ抜けて逃げ切ることだったが、連合艦隊の東郷はそれを知らなかった。
東郷が一番心配していたのは旅順艦隊が再び旅順港へ退却することであった。
それまでに旅順艦隊が外に出ようとしては小競り合いをしただけで引き上げることが幾度もあったからである。
従って東郷はまず敵を外洋に誘い出して、その上で旅順艦隊の北西方面を塞ぎ旅順へ戻れなくするように動いた。
旅順艦隊司令官ヴィトゲフト少将は東郷の意図を察知し、それを逆手にとり利用した。
すなわち、連合艦隊が外洋に誘い出そうとしたらその誘いに乗ったフリをして外洋に出た。
その後、連合艦隊が北西を塞ごうとしたところで、一気に南東へ加速し連合艦隊を引き離して逃亡をはかったのである。
東郷はここに至ってようやく敵の意図がウラジオストクに向かうことであると気付き、見事に出し抜かれたことを悟った。


日没までの攻防
連合艦隊は急いで旅順艦隊を追った。追撃開始が午後3時20分頃、追いついたのが午後5時30分頃である。
旅順艦隊側に機関不調の艦船がありそのため全体の速度が低下したこと、8月で日没が遅かったことが幸いした。
ともかく連合艦隊必死の攻撃が開始された。旅順艦隊も司令官ヴィトゲフト少将の巧みな指揮により反撃しながら逃げた。
旅順艦隊としては日没までさえ粘りきれば、その後は暗闇に紛れて逃げられるので勝ちである。
連合艦隊に追いつかれても、なお主導権はロシア側にあった。
東郷としては敵を逃がしてしまえば大失態であるが、もはやそれどころではない。
旅順艦隊がウラジオストクに逃げ、さらにバルチック艦隊が到着すれば、日本は制海権を失いかねず、そうなれば戦争は負けなのである。
もはや東郷は死ぬつもりでいたのかもしれない。戦艦三笠は十数発以上被弾し、東郷自身の近くにも着弾したが構わず攻撃を続けた。
運の悪いことに、この戦闘のあいだ連合艦隊側の艦船では腔発(砲弾が砲身内で暴発する事故)が相次いでおり、有効な砲撃数は少なかった。
太陽が西の海を赤く染めつつあり、このまま旅順艦隊が逃げ切るかに思われた。


旅順艦隊の敗北
しかし午後6時37分頃、命運を決める一撃がそれを覆した。
三笠からの砲撃が司令官ヴィトゲフト少将の旗艦ツェサレヴィチの司令塔を撃ち抜いたのである。


ヴィトゲフト少将は即死、艦長は重傷により昏倒、操舵手も即死、さらに砲弾の破片が舵輪を左一杯の状態で固定してしまった。制御を失った旗艦ツェサレヴィチは壊れたロボットのように急速に左にぐるぐると旋回を始め味方の列につっこんだ。
この一撃によって指令系統を失った旅順艦隊は大混乱に陥った。2番艦は一応旗艦の動きに追随したが、3番艦は旗艦が左旋回しながら全速でぶつかってくるので堪らず回避するしかなかった。そのため陣形を維持できなくなった。
4番艦ペレスヴィエトのウフトムスキー少将は次席指揮官だったので、旗艦ツェサレヴィチの異常に気づくと、指揮権がこちらにあることを他の艦船に伝えようとした。しかし掲げるべきマストが被弾により折れてしまっていた。やむなくそのマストを艦橋の側面に示したものの、あまり伝わらなかったため、混乱の収拾は大幅に遅れてしまった。
その混乱に乗じて連合艦隊はウラジオストクへの退路を抑えるとともに、距離を一気に詰めて敵を包囲攻撃する体制を整え、一斉攻撃を開始した。
旅順艦隊は全滅の危機に瀕した。


旅順艦隊の逃走
旅順艦隊はもはや当初の目的どころではなくなっていた。
戦艦レトヴィサンは味方を守るために突出して盾となり、味方が逃げるための時間を稼いだ。
艦隊の主力はウフトムスキー少将が立て直して西方へ逃走し、レトヴィサンもそれに続いた。
ノヴィークと巡洋艦アスコルドは南に活路を見出して敵の攻撃を突破して南へ向かった。
他の艦船もそれぞれ四散し逃走した。
元の旗艦ツェサレヴィチは被弾がもっとも激しかったが、それでも副艦長らがようやく立て直して逃走した。


そうこうしているうちに日が沈んで夜になった。
夜8時頃、東郷は戦闘中止を命令し、残敵掃討に駆逐艦と水雷艇を向かわせ、艦隊は南に移動させた。
残敵掃討に向かった駆逐艦と水雷艇は西の旅順艦隊主力を追撃したが彼らの魚雷は命中せず、成果は皆無だった。
かくして旅順艦隊の主力は旅順港への帰還を果たした。
旅順艦隊はその後旅順港を出ることなく、その兵装や乗員は旅順要塞の守備にまわされ、艦隊は無力化した。


一方、南へ向かったノヴィークは、もともと速力で大きく上回っていたので敵の追撃を受けることなく膠州湾(山東省青島市)に到達、補給を受けた後そのまま出港した。
同じく南へ向かったアスコルドのほうは「明石」「須磨」「秋津洲」「和泉」の追撃を受けながらの逃走となった。どうにか彼らを振り切ったものの、損傷激しく燃料も少ないことから上海へ向かい、清国に抑留された。
駆逐艦「レシーテリヌイ」は途中で駆逐艦「朝潮」に捕獲された。
駆逐艦「ブールヌイ」は山東半島沿岸で擱座処分となった。
ツェサレヴィチやその他の艦は膠州湾や上海、サイゴンへ逃れ、それぞれ抑留された。


勝者なき戦い
このようにして黄海海戦は連合艦隊の勝利に終わった。
しかし戦闘レベルでは勝利したものの、戦略レベルでは日本は何も得ていなかった。
旅順艦隊の主力は旅順港へ逃走し、その戦力はまだ存在していた。
実際には前述のように旅順艦隊は無力化していたが日本軍はそれを知らなかった。
例外として陸軍の観測によりその報告はあったものの、裏付けがなかったためそれを信用するわけにはいかなかった。
そのため旅順艦隊の戦力は引き続き健在であるとの前提で日本軍は動かざるを得なかったのである。
海軍は陸軍に203高地の制圧を要請し、映画にもなった有名な203高地攻略戦は行われた。
多大な犠牲と引き換えに203高地は制圧され、そこから旅順港への砲撃が敢行されてついに旅順艦隊は葬られた。

宗谷沖海戦

宗谷沖海戦
ノヴィークの行方
旅順艦隊の主力を旅順港に逃してしまったこと以外に日本海軍の懸念はもう一つあった。
ノヴィークである。
ノヴィークが膠州湾で補給の後に出港したという情報は同盟国イギリスなどから日本にもたらされていた。
ノヴィークは黄海海戦の疲れを癒すこともなく、そのまま単独で当初の目的地ウラジオストクへ向かっていたのである。


日本海軍のノヴィーク警戒態勢
日本海軍の艦船より速力で優れるノヴィークが、当時ゲリラ的神出鬼没の戦術で日本を苦しめていたウラジオストク巡洋艦隊に合流するのは避けたいことだった。
日本側はノヴィークがどのルートでウラジオストクへ向かうか検討した。
常識的に対馬海峡を通るのが最短である。このルートの場合、ウラジオストク巡洋艦隊も呼応して動く懸念もあった。このため警戒のための戦力を上村中将率いる巡洋艦4隻「出雲」「磐手」「常盤」「吾妻」を出撃させた。
また、対馬海峡を避け日本列島の南側を迂回する可能性を検討し、その場合は津軽海峡を通るのではないかと考え、巡洋艦「対馬」「千歳」を函館に待機させた。
対馬海峡の上村中将の艦隊は、黄海海戦の報を知り旅順艦隊を支援しに来たウラジオストク巡洋艦隊と8月14日に遭遇し、巡洋艦1隻を撃沈し撃退している(蔚山沖海戦)。


ノヴィーク出現
8月19日、ノヴィークが国後水道を通過したとの急報を得た。
ノヴィークは日本列島の南を迂回していたが、高速で長距離を移動していたため、想定よりも石炭の消費量が多く、補給の必要からサハリンのコルサコフに向かったのである。
函館の「対馬」と「千歳」は急いで宗谷海峡へ向かった。


宗谷沖海戦
翌20日の16時頃、「対馬」はノヴィークをコルサコフ沖に発見し戦闘に移った。
1時間ほどの戦闘で「対馬」は損傷が激しく、「千歳」と交代するため退却した。
その後「千歳」が到着した頃には日没後で暗くなっており、またノヴィークはコルサコフ港へ退いていた。
そのため「千歳」は翌朝まで港外で待ち伏せることにした。


ノヴィーク力尽きる
ノヴィークは「対馬」との戦闘で被弾数は少なかったが、一つ一つの損傷は深く、浸水もしていて継戦不能であった。
そのため艦長マクシミリアン・フォン・シューリツはノヴィークを擱座処分とする決断をし、乗員は退避した。
翌朝、「千歳」と応急修理した「対馬」は擱座したノヴィークを見つけ、再利用できないように砲撃を加えたあと退却した。

通報艦「鈴谷」

通報艦「鈴谷」
日露戦争終結後、日本は南樺太を得た。
南樺太のコルサコフに擱座したままになっていたノヴィークも日本のものになったことから、日本海軍はこれを横須賀で修理することにした。
ところが損傷が激しく元どおりには修復できなかった。
特徴の速力は19ノットと大幅に低下することとなった。
このようにして、ロシア海軍巡洋艦ノヴィークは日本海軍通報艦「鈴谷」として蘇った。
活動の場はやはり旅順であった。そこで「鈴谷」は警備任務に従事した。
1913年解体のため売却された。

 

WG公式によるNovikの史実動画

loading...

小ネタ

編集待ち

編集用コメント

編集用のコメントはこちら

コメント欄