元寇における各国の始末

Last-modified: 2014-10-19 (日) 19:06:38

民主党ですがこの秋一番の冷え込みです
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1383013207/

 
 

244 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:43:12.55 ID:???
面白い画像比較を

 

教科書で習った元寇
http://i.imgur.com/wbXYb6O.jpg
本当の元寇
http://i.imgur.com/1ySSd0C.jpg

 

256 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:53:09.17 ID:???
画像比較(改 )

 
 

教科書で習った元寇
http://i.imgur.com/wbXYb6O.jpg
本当の元寇
http://i.imgur.com/6kEnZHP.jpg

 

249 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:46:59.39 ID:???

>>244
元寇は最も悲惨な上陸戦(責める側から )

 

250 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:48:03.17 ID:???

>>244
さらに右側には騎馬武者の群れが描いてあるんじゃなかったっけ。
逃げる元軍を追撃戦してる場面が何故か元の先進的な戦法に武士が大苦戦、みたいに教科書には書いてあるんだよな。

 

252 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:49:52.35 ID:???

>>250
モンゴルは騎馬軍だからねぇ
強襲上陸では特性が生かせない罠

 

ところで~>>244の逃げてるやつの来てる鎧が思いっきり"朝鮮の”鎧に見えるのはおれだけだろうか

 

259 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:56:22.96 ID:???

>>252
確か対馬で民間人に残虐行為を働いたのは元の手先となった朝鮮人ではなかったか?

 

260 名前:オワタマン ◆cRI/uGm3bw [sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:57:14.66 ID:???

>>252
実際元寇での主力は征服したばかりの高麗の兵士だったらしいからねぇ
旧態依然の武士が苦戦ってのも「爺さん達がやってた作法に則った戦争ってのやってみようぜ!」とやってみたら作法なんてガン無視した戦争してくるんで
「ルール無用の残虐ファイトやっていいんですか!やったー!!」とスイッチON
昼も夜も容赦無く襲いかかって野営地にも襲撃するんで元軍がしかたなく沖合にまで逃げてたら運悪く台風の直撃喰らったんで撤退という運び

 

280 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:14:14.19 ID:???

>>260
むしろ高麗が進言したんじゃなかったっけ>日本攻略
あいつら生意気だから〆ましょうぜって。

 

283 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:17:02.13 ID:???

>>280
どっちにしろモンゴルの使節ガン無視なんて無礼なことしてたんだから来るだろ。

 

326 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:41:20.75 ID:???

>>283
くそう礼儀を知らん蛮族めでも懲らしめようにも海の果てだしもうほっとこうか・・・

 

となりかけたところを高麗の進言で侵攻を決めたとか聞いたがなあ。

 

361 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:55:17.77 ID:???

>>326
元史にある話だが趙彜という高麗人は可通、国交と通商を結んではと
進言しただけで侵略は進めていない
これを受けて元高官で南宋攻略の一つとして日本侵攻は検討されたが
時期尚早となり高麗王が介添えになり国交を結ぶ話が進む
しかし内容が大国の俺様が小国のお前と仲良くしてやんよという内容で
高麗王はただの友好関係だから安心してくださいと添え状をつける
羽目になっている
この時の使者は一年に渡り太宰府に留まり詳細な兵力や地形を記録している

 

日本側には記録が残ってないが大宰府から派遣された日本人使節団を
こちらを偵察に来たと元は見ている記録がある
また商人に偽装した日本軍偵察部隊が中国沿岸に出没しすでに両国の
戦闘は始まっていた

 

324 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:39:56.18 ID:???

>>280
当時は国内で大規模な反乱があったので、どっちかってーと、国内的な事情で攻略戦には反対し、何度も翻意する
よう使者を送っていたぐらいの状態だの。

 

286 名前:衛生兵 ◆LaBi18zCV. [sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:17:49.03 ID:???

>>252殿
当時の元・高麗それぞれの軍装をご存知なので?

 

292 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:19:58.29 ID:???

>>286
元は知らないけど、
ちょっと前にたぶんこのスレで朝鮮の鎧の画像が貼られてて、それが絵の中で逃げてる敵兵の着てるのとそっくりにみえる
たしか厚手の布を重ねた鎧だったっけか

 

263 名前:衛生兵 ◆LaBi18zCV. [sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:01:30.88 ID:???

>>244殿
このなんだか破裂してる兵器ですが
改めてみると武士サイドから上陸軍に向けられたものっぽいんですが
どうなんでやんしょね

 

298 名前:オワタマン ◆cRI/uGm3bw [sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:24:02.00 ID:???

>>263
つーか爆発してるてつはうとその左隣の三人、ほかに比べて妙に色や線の太さが違うために後世に描き足された説がある

 

323 名前:オワタマン ◆cRI/uGm3bw [sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:39:23.13 ID:???

>>300
元々「敵強かったけど俺らこんだけ頑張ったんで恩賞いっぱいくだちい!」ってプレゼン用の絵だったけど、
「これじゃあどうも苦戦したって説得力に欠けるんでもうちょっと敵の数盛らね?」「盛るか」「じゃあここの空白部分に描いちゃえ!」となった説がある
まあその頃当の幕府は寺社連中から「この戦(ケンカ)、俺らの゜KITOU゜で勝ったんだよなぁ、あぁ!?」と謝礼がっぽり要求されてそれどころじゃなかったというオチがつくけど

 

573 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2013/10/29(火) 22:38:01.67 ID:rqaLhArg

>>323
この絵は恩賞をもらったあとにそんとき世話になった同僚に御礼するために描かれた絵のはず

 

261 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:59:56.62 ID:???
モンゴルからすると

 

北に行ったら自分たちより寒さに強い奴がいた(ノヴゴロド)
西に行ったら自分たちより砂漠とラクダに慣れている奴がいた(マムルーク朝)
南に行ったら自分たちよりジャングルの暑さになれた奴がいた(マジャパヒト)
東に行ったら沿岸でちょこまかしつこい奴がいた( 日本)

 

モンゴルお得意の機動戦ができない環境だと途端に負ける

 

264 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:01:47.38 ID:???
西国武士なんで、海賊対策で沿岸戦はかなり
慣れていたのでは?

 

322 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 20:37:24.20 ID:???
元寇の兵力編成
蒙古・漢軍2万5千
高麗軍8千
水夫6千7百

 

元軍は確かに初期計画で敵は島国で兵糧を蓄え地形を利用し、こちらは
補給線が伸び不利と諦めている
ただ元軍海軍はその後南宋との戦いで育っており最終的に南宋海軍を
壊滅させ高麗は降伏し、三別抄に対し渡河上陸戦を行ない勝利している
この元軍海軍部隊の指揮官が居並び
元軍の海上精鋭部隊が投入された
また補給問題を克服するために屯田兵を高麗に配し対応していた

 

>>264
太宰府は度々海賊軍と戦っており大規模な記録では新羅4千5百の
上陸軍や外国海賊軍数万を撃退するなど話を盛ってるにせよ九州の兵力を
指揮し外国の大規模上陸部隊との戦闘経験を有している

 

372 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 21:05:22.32 ID:???

>>322
何かかっこいい中二病こじらせたような作戦名みたいなのあったんだろうか。
それとも意外とシンプルにイ号作戦とかそういう感じなんだろうか。

 

たまには元寇やら朝鮮征伐を題材にした
敵兵を蹴散らす強い日本軍的な作品を見てみたい。

 
 
 

民主党ですが一番濃ゆいよ。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1395755027/

 
 

181 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 02:24:38.10 ID:UR+839G4
元寇の時に夜間に鎧着たまま泳いで敵船に乗り込んでジェロニモーしてたとか
船上戦で海に叩き落とした(普通溺死する)と思ったら平然とまた船にあがってきたとか
おまえらは河童かと<鎌倉YAKUZA

 

192 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 02:58:52.34 ID:Uxw8drrq

>>181
古式泳法なら今も伝わっておる…

 

が、今でも鎧着て泳げるんかねw

 

193 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 03:01:15.97 ID:DYlFZPZx

>>192
足に重りつけられたら為すすべもなく沈む自信あるけど
鎧ならもうちょっと頑張れる気がする

 

252 名前:非常勤職人 ◆DaL0FapeIs [sage] 投稿日:2014/03/26(水) 10:27:53.63 ID:+1xDMizm

>>192
泳ぐのも大変だけど、舟に上がれるってのが恐ろしい

 

ウェット着てウェイト付けた状態で、手漕ぎボートに這い上がるだけでも結構大変なんすよ

 

269 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 10:57:42.21 ID:PTZ9qDRh

>>181
しかも元寇の際の内陸育ちなモンゴル兵は基本泳げないから、鎧を着たまま海に落ちれば即死亡判定だったのに、
鎌倉武士は海に突き落としても平気でよじ登って第2ラウンド開始するし、鎧を着たまま直接泳いで元軍の船に
取り付くのだから、まるでゾンビを相手にしているような気分だったかも。

 

そして弘安の役の最終局面である「鷹島掃蕩戦」では、九州本土から叩き出された元軍残存部隊10万が立て篭もり、
鷹島の樹木を切り倒して撤退用の船団を再建しようとしていましたが、その矢先に鎌倉武士団主力が大挙襲来。

 

その前に元軍の高級指揮官の殆どが健在な船を徴用して鷹島から逃げ出しており、もはや武器も食料も底を尽き
指揮系統もグダグダな元軍は総崩れとなり、鎌倉軍に投降して捕虜となった2~3万人以外は尽く皆殺し。

 

その為元軍は鷹島を白骨山と呼び、今でも鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、
遠矢の原、前生死岩、後生死岩、と言った物騒極まりない地名が残されている有様です。

 

つまり本当の意味で元軍を壊滅させたのは神風と称する大嵐ではなく、鷹島での掃討戦だったのですが、日本国内の
戦闘でここまで一方的かつ大規模なスコアは稀でしょう。

 

そして鷹島で捕虜になった2~3万の兵士にしても、奴隷や奴婢となる事で助命されたのは南宋出身者の兵だけで、
それ以外の出身者は結局皆殺しでした。

 

303 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 12:20:27.90 ID:Uxw8drrq

>>269
なんだよ、ほぼ世界征服した元軍って弱かったんだな!!!111

 

まぁ陸戦中心だったらどうかわからんのだろうが。

 

305 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 12:36:21.87 ID:PTZ9qDRh

>>303
だって地続きの侵攻作戦と違い、元々海戦に不慣れで一切合財を船に積み込んで敵国に乗り込まねばならない
渡洋侵攻作戦とでは全く勝手が違いますからな。

 

何より、ただいるだけで狭い船倉のスペースを食い潰す(そして膨大な飼葉や真水を消費する)軍馬はごく少数しか
侵攻船団に入れられないので、モンゴル軍の最大の強みである集団騎馬戦術が使えないのは大きな弱点です。

 

309 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 12:38:20.64 ID:DYlFZPZx

>>303
あれだ、こっちが優勢な時に逃がさないのが重要なんだな
陸だと馬で逃げられるしな
接敵→劣勢→逃げる→接敵→劣勢→逃げる→接敵→優勢→ヒャッハー!
これがモンゴル流だしな 

 

272 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 11:02:47.15 ID:3YB1Op2F

>>269
>助命されたのは南宋出身者の兵だけで
どういう背景があって許されたんだ?

 

274 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 11:20:45.02 ID:DYlFZPZx

>>272
どういう経緯をたどったか鎌倉はちゃんと把握していて南宋出身者には同情的だった

 

276 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 11:27:01.26 ID:PTZ9qDRh

>>272
元寇前半戦の文永の役の頃は、未だに南宋は元に降伏しておらず大陸南部で抗戦を続けており、
日本に対しても南宋の商人は活発な交易を行う準同盟国状態でした。

 

しかし南宋も遂に元軍の総攻撃によって滅亡し、投降した旧南宋軍の兵士らは元軍に組み込まれて
鎌倉幕府軍と戦う羽目になるのですが、前述の通り旧南宋人は日本との交流があり、
「無理矢理元軍の支配下で戦わされた」という建前もあって、どうにか助命されたのです。

 

そして今でも博多には元寇で破れ日本の捕虜となり、日本に骨を埋める羽目になった旧南宋人の
遺構や伝承が残され、彼らが固まって住んだ街区も「唐人町」などと呼ばれました。

 

278 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 11:36:30.21 ID:jUMrTEdc

>>269

それ以外の出身者は結局皆殺しでした。

< ;`Д´><ウッ、ウリナラのチョッパリ討伐軍はどうなったニカ?・・・

 

296 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 12:07:05.72 ID:PTZ9qDRh

>>278
マジレスすると弘安の役での高麗軍の生還率は比較的高かったらしい。

 

元軍の船団は台風によって大損害を蒙ったものの、それでも全ての船団が壊滅した訳でなく、
朝鮮半島経由で侵攻した東路軍(それに含まれる高麗軍)の船団の停泊地は台風の中心から
逸れていたり、暴風雨の影響を受けにくい泊地だったり、事前に台風対策を取っていたりして
比較的少ない損害で神風を乗り切ったらしい。

 

そして元軍侵攻部隊の指導部が全軍撤退を決めるや、東路軍もいち早く撤収した為、台風の
直撃を蒙った(そして鷹島で孤立し壊滅した)江南軍と比べると、生還率は格段に高かったそうで。

 

418 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 16:20:25.69 ID:dk6Nwhpn

>>296
さすが、安定の疫病神だな>半島