三毛別羆事件について

Last-modified: 2010-09-30 (木) 00:51:19
  • 2010/03/24 修正

三毛別ってドコ?

三毛別.GIF
北海道苫前郡にある、地図の青丸印の場所です。

事件の発端

【トウモロコシがうまかったから、3回盗み食いしたら撃たれた。】

 1915年(大正4年)11月中旬のある夜明け頃、日本海から内陸へ30kmほど入った北海道三毛別六線沢にある開拓村の池田という民家に巨大なヒグマが姿を現した。飼い馬が驚いて暴れたため、その時の被害は収穫したトウモロコシに止まった
 当時の三毛別は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなく、同月20日にふたたびヒグマが現れた。馬への被害を懸念した池田家の主人は、在所と隣村から二人のマタギを呼び、次男・亀太郎を加えた四人で待ち伏せた。そして30日三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。翌朝、鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕こそを確認できたもの、吹雪のためこれ以上の追撃を断念した。この時にはヒグマも人間の恐ろしさを認識しただろうと思われた。
 

12月9日 太田家の惨劇

【トウモロコシを食うつもりだったが、人間がうるさいので食った。うまかった。】

 秋から冬にかけて、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。三毛別のような僻地ではそれらは人力に頼らざるを得ず、自然男たちは出払い気味になっていた。まさにそのような時期の12月9日午前10時半頃、またも巨漢のヒグマが太田という民家の干しトウモロコシを狙って現れた。
 この時、ヒグマは勢い余ったか民家の壁をぶつかって壊し、家人にその姿を目撃されてしまった。家屋の中にいたのは内縁の妻・阿部マユと太田家に預けられていた小児・蓮見幹雄の二人だけ。彼らは恐怖におののき絶叫を上げたのだが、これがヒグマを刺激してしまった。ヒグマは逆上して襲い掛かり、幹雄は一撃のもとに首筋を抉られ、さらに頭に噛み付かれて即死薪を投げるなど必死に抵抗しつつ逃走を試みたマユだが、力の差は如何ともし難く、追いつかれて打ちのめされ、森へと引きずられていくしかなかった。後には、寝室に飛び散った血のりが残されていた。

 事件は昼、同家に寄宿していた伐採を仕事とする男・長松要吉(通称・オド)が飯を食べに戻り発覚した。三毛別川に架ける氷橋づくりに集まっていた村の男たちは知らせを受けて駆けつけ、無残な太田家の様子に衝撃を受けた。村人は対応策を話し合うため、川下の明景(みよけ)家へ集まった。話し合いの末、斉藤石五郎が役場と警察に連絡を、明景家の当主・安太郎が幹雄の実家である蓮見家への連絡をそれぞれ取る役を受けた。主人が家を留守にする両家の妻子は、明景家に集まり、オドも男手として同泊する手はずが取られた。

12月10日 捜索 

【人間たちが銃を持って保存食を奪いに来た。許さん。】

 早朝、斉藤石五郎と明景安太郎は村を後にした。残る男たちを中心に、討伐および太田マユの亡骸を収容すべく30人の捜索隊が結成され、彼らは森に入った150m程進んだあたりで、一行はヒグマと遭遇した
 襲い掛かるヒグマに鉄砲を持った5人が撃ち掛けたが、手入れが行き届かなかったため銃撃できたのはたった1丁だけだった。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害は無かった。
 改めてあたりを捜索した彼らは、トド松の根元にあった血に染まった雪の一画と、その下から頭部の一部と膝下の脚しか残されていないマユの遺体を発見した。あのヒグマが太田家を襲い、そして人間を喰らう獣となったことを証明していた。

太田家への再襲

【保存食を取り返しに行ったら待ち伏せされた。】

 あのヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの亡骸を雪に隠そうとしたのは保存食にしようとした行動だった。そして、奪われたモノを取り返しに来る。その習性を知る村人は、武器を携えて太田家の通夜に集まっていた。
 そして日も暮れた夜8時頃、ヒグマは再び現れた。予想していたと言え現場はパニックになってしまった。それでも、なんとか一人の男が銃を撃ち、さらに300m程離れた隣家に待機していた50人の討伐隊が駆けつけた頃にはヒグマは既に姿を消していた。犠牲者なしに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。しかし、そこには次の悲劇が待ち構えていることを予想できた者は誰もいなかった。

明景家の惨劇

【逃げていったらもう一軒見つけた。鬱憤晴らしに食いまくった。】

 当時の開拓村の家(再現)太田家の騒動は明景家にも伝わり、避難した女性や子供らは火を焚きつつ怯えながら時を過ごしていた。護衛の者たちは近隣に食事に出かけており、さらに太田家へのヒグマ出没の報を受けてそこに向かってしまい、守りがいなかった。太田家から逃れたヒグマは、まさにこの状態の明景家に向かっていた。
 背中に四男・梅吉を背負いながら、討伐隊の夜食を準備していた明景安太郎の妻・ヤヨは、土間で何かの物音を聞いた。次いで起こった地響きにヤヨが声をあげたのとほぼ同時に、窓を破ってヒグマが屋内に侵入して来た。囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、パニックの中ランプなどの灯かりも落ち、家の中は暗闇となった。ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖にすがりついた次男・勇次郎に足元を取られたよろけたところにヒグマが襲い掛かり、背負っていた梅吉に噛み付いた。そのまま三人は引きずり込まれ、ヤヨは頭部を齧られた
 その時、番として唯一家にいたオドが逃げようと戸口に走った姿に気を取られ、ヒグマは母子を離し、この隙に乗じヤヨは子供たちを連れて逃亡に成功した追われたオドは物影に隠れようとしたが叶わず、ヒグマの爪を腰のあたりに受けた。オドの悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、屋内に眼を向けた。そこには未だ7人が取り残されていた。ヒグマは明景家の三男・金蔵と斉藤家の四男・春義を一撃で撲殺し、さらに斉藤家三男・巌に噛み付いて床に叩きつけた
 この様子に、筵に隠れていた石五郎の妻・斉藤タケが顔を出してしまい、彼女もまたヒグマの標的となってしまった。迫るヒグマに身重のタケはお腹の子だけはと懇願するも、容赦無く襲いかかられ、上半身から食われ始めた

 川下に向かっていた討伐隊は、異様な雰囲気を察し急いだ。そこへ重傷のヤヨがたどり着き、一同は明景家で何が起こっているかを知った。途中オドを保護し、討伐隊は明景家を取り囲んだ。しかし、暗闇となった屋内にうかつに踏み込めない中からは、タケと思われる女の呻き声、そしてそれが聞こえなくなると肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。もう中の者は皆殺されただろうと、家に火をかける案も出たが、子供らの生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。
 討伐隊は二手に分かれ、一方は入り口近くに銃を構えた10名を中心に配置し、残りは家の裏手に廻った。そして空砲を合図に裏手の者が大声を上げてヒグマを脅かした。果たしてヒグマは表で待つ男たちの前に現れた。先頭にいた男が撃とうとしたが、またも不発。それどころか男がヒグマの前に居座る形になってしまい、他の者が撃ちかねている隙に、ヒグマはまたも姿を消した

 白樺の皮を松明に、明景家に入った者の眼に、その惨状が飛び込んできた。一面の血、無残に食いちぎられた二児とタケの遺体。余りのむごたらしさにいたたまれず、日露戦争を経験した者だけがその場に残った。
 上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、不思議とヒグマが手を出した様子は無く、その時には胎児は少し動いていたともいう。ただ、タケの願いも空しく、胎児も一時間後には死亡した。
 噛み付かれた巌は重傷ながら生きておりさらに恐怖に身が竦んでじっとしていたことが幸いしたのか、明景家長男・力蔵と長女・ヒサノは無事だった。村人は全員分教場へ避難し、重傷者も川下の辻家に収容した。だが、噛み付かれた巌は深夜に息絶え、この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われた

羆撃ちと「袈裟懸け」

【俺様に勝手に名前付けてる酔っ払いがいたなぁ。】

 一方、家族に襲い掛かった悲劇を知る由も無い斉藤石五郎は、役所と警察に太田家の事件を報告し、苫前に宿を取った。
 同じく明景安太郎はさらに足を伸ばし、道中噂を聞いたヒグマ撃ちの名手・山本兵吉を訪ねていた。日露戦争を経験し常に軍帽を身につけていた山本は、話を聞き、件のヒグマが以前女性三人を食い殺した「袈裟懸け」という異名を持つ獣だと直感したという。しかしその時、山本は鉄砲を質入れして酒代に換えていたため、安太郎の依頼を断った。仕方なく安太郎は鬼鹿(現:小平町)に泊まり、彼も自宅の惨状を知らぬまま床についた。

12月11日

【人間どもが集まって何かやってるな、ほっとくか。】

 明景安太郎と斉藤石五郎は三毛別に戻ってきた。しかし、はるか下流の分教場に村人が集まっていることを訝しがり近づいた二人は、残してきた家族の受難を知るところとなった。慟哭し、怒り狂う二人。逃れたままのヒグマを放っては置けず精鋭を絞り込んで組む決死隊に両名も志願した
 太田家への再襲と同じく、ヒグマはその習性からまた姿を表すと踏み、隊は昨夜のままに放置された明景家へ向かった。一同は天井裏に忍び待ち伏せたが、その夜は徒労に終わった。

12月12日

【あからさまに怪しい罠を張ってる。俺様頭いいから、その手には乗らないぞ。】

 三毛別ヒグマ出没の連絡は北海道庁にもたらされ、羽幌村(現:羽幌町)警察分署の指導の下、討伐隊が組織される運びとなった。近隣の村々から銃の供出と志願者を募集し、帝室林野局(現:林野庁)からの人的協力も受けて結集した部隊は夕刻には三毛別に入った。分署長の菅警部は、決死隊の様子を確認しようと明景家をめざし六線沢を上ったが、途中下山する一同と出会った。
 ヒグマは来なかった。今後のことを考えれば何としても退治しなければならない討伐隊は検討を重ね、ある結論に至った。ヒグマは獲物を取り戻そうとする。そして今の明景家にその獲物は無い。そしてある策が提案された。誰もが眉を顰めるそれに、太田・斉藤・明景三家の当主は様々な思いをかみ殺し、村のためにと、そして復讐を果たすために苦渋の決断をした。こうして、犠牲者の遺体をエサにヒグマを誘き寄せるという前代未聞の作戦が採用された

 その日のうちに作戦は実行に移された。数名で編成された鉄砲の打ち手は、一度は依頼を断った山本兵吉が加わり6名で編成された。彼らは、居間に置かれた遺体が放つ死臭の中、補強した梁の上に張り込んでヒグマを待った。夜、森の中から姿を現し近づいてきたヒグマに一同固唾を呑んでチャンスを待った。しかし、家の寸前でヒグマは歩みを止め、中を警戒する。そして、そのまま踵を返すと来た森へ引き返していった。男たちはさらに待ち伏せたが、よもやヒグマは現れず、作戦は失敗に終わった。

12月13日

【銃持ったヤツが出て行ったから、村中荒らしまわってやった。チクショー! 女が食いてー。】

 明けて、村内を捜索した一行は、太田家が三度荒らされているのを発見した。越冬用に備蓄した食糧を食い荒らし、室内で執拗に暴れまわった形跡が見られた
 この日、村外からの応援と60丁もの鉄砲が届いたことに気を強くした菅警部は、山狩りを実行に移し、同時に六線沢への通路を確保するために中断していた三毛別川の氷橋作りも再開させた。
 一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし廻っていた。飼われていた鶏を食い殺し、食べ物を荒らし、さらに、服や寝具などをずたぼろにしていた。特徴的なことは、女性が使っていた枕などに異様な程の執着を示しており、これを知った山本は、件のヒグマがやはり「袈裟懸け」だとの確信を強く持った。この被害に遭った家は8軒以上にのぼったが、山狩り隊や単独行動を取る山本もヒグマを発見するには至らなかった

 しかし、その暴れぶりからも「袈裟懸け」の行動は慎重さを欠き始めていた。味を占めた獲物が見つからず、昼間に関わらず大胆に人家に踏み込むなど警戒心が薄れていた。そして、行動域が段々と下流まで伸びており、発見されるリスクの高まりを認識出来ていなかった。これを読み取った菅警部は、氷橋を防衛線とし、ここに撃ち手を配置し警戒に当てた。

 そして夜、橋で警備に就いていた一人が、対岸の切り株の影に不審を感じた。本数を数えると明らかに1本多く、しかも微かに動いているものがある。報告を受けた菅警部が、人間かも知れないと大声で話しかけるも返答が無い。意を決し、命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放った。すると怪しい影は動き出し、闇に紛れて姿を消した。やはり「袈裟懸け」だったのだと仕留めそこないを悔やむ声も上がったが、警部は手応えを感じ取っていた。

12月14日

【いてて、もうとんずらするか。また上手くまいてやるもんね。俺様って頭いいなあ。あ・・・?】

 空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。銃弾を受けていれば動きが鈍るはず。雪が舞い始めた空模様を睨み、足跡を追えるうちにと急ぎ討伐隊を差し向ける決定が下された
 いち早く山に入ったのは、池田亀次郎を案内に連れた山本だった。歩みが遅くなりがちな集団行動を嫌う彼は、また降雪が足跡を消してしまうことを恐れていた。「袈裟懸け」の老練さを熟知した山本は、追っ手を錯乱させるヒグマ独特の足取りをことごとく見破り、慎重に風下に廻りこみながら、静かに標的に迫っていた

 「袈裟懸け」はナラの木につかまり、身体を休めていた。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、忍びつつ近づく山本の存在には全く気づいていない。20mほどまで近づいた山本はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。そして、凍てつく空気の中、銃声が響いた。一発目の弾は「袈裟懸け」の心臓を正確に撃ちぬいた。即座に次の弾を込め、すばやく放たれた二発目は頭部を射抜いた。急ぎ駆けつけた討伐隊の男たちが見たものは、村を恐怖の底に叩き落した悪魔の、屠られた姿だった。

 吹雪が急に勢いを増す中、死骸は麓まで運ばれた。重さ380kg、身の丈2.7mにおよぶ巨体を前に、六線沢の人々は怒りや恨みを爆発させたという。その後解剖された時、胃袋から犠牲者の痕跡が多く見つかり、皆は悲しみを新たにした。頭蓋骨や毛皮は残されたが、後にすべて失われ今に伝わってはいない

その後

【10人食ってやったら10倍返しされた】

 頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せたヤヨは順調に回復したが、背負われたまま噛み付かれた明景梅吉は、その後遺症に苦しみつつ2年8ヶ月後に死亡した。この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。オドも回復し仕事に戻ったが、翌年の春、川に転落して死亡した。ヒグマに受けた傷が影響したのかは定かではない。悲惨な事件の後、六線沢の村人はひとりまたひとりと去り、最終的に集落は無人の地に帰した。

 事件当時、三毛別村長の当時7歳の息子・大川春義は、長じて名だてのヒグマ撃ちとなったこれは、犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを仕留めるという誓いによるもので、62年をかけ102頭を数えたところで引退し、亡くなった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を建立した。また、春義の息子・高義は、1980年に体重500kgというヒグマ「北海太郎」を8年がかりの追跡の上仕留めている

事件の記録

 旭川・古丹別の営林署に勤務していた農林技官・木村盛武は、1961年から事件を記録として残すべく、調査を開始した。既に46年が経過し、しかもほとんど資料が残されていない中、木村は当時三毛別に住んでいた人々を辿り、入念な聞き取りを行った。多くの当事者は既に世を去っており、また存命の人々も辛い過去を穿り返す取材に協力的でない者も多かったらしいが、足掛け4年の調査を経て、報告「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」を纏めた。これは1980年に復刻され、さらに1994年には共同文化社から『慟哭の谷 The Devil's Valley』(ISBN 4905664896)として出版された。作家の吉村昭も事件を取材し、これを小説に纏めている。取材には木村盛武をはじめ、当時在郷した人々から事件あらましを聞いている。

事件の分析

 事件は、冬眠に失敗したいわゆる「穴持たず」が、空腹に凶暴性を増し引き起こした例と判断されていた。しかしその後、冬季にヒグマが人里を襲う例はその後発生しておらず、近年ではこの説には多くの疑問が呈されている。むしろ江戸時代後期から魚肥用にニシンを加工する際に使用する薪を得るために続いた森林伐採と、明治以降の内陸部開拓が相いまり、野生動物と人間の活動範囲が重なった結果が引き起こした事件とも言及されている。

今に残る事件の記憶

 事件が起こった六線沢には、町民の手によって当時の情景が再現された「三毛別羆事件復元現地」がある。鬱蒼と木々が茂る一画に、当時の生活を再現した家屋の復元、事件を解説する看板、犠牲者の慰霊碑、そして、民家に襲いかかろうとするヒグマの像がある。場所は、国道239号古丹別交差点から北海道道1049号を南に入り約16km、三毛別川に架かるその名も「撃ち止め橋」の先にある。

                                                       参考資料→~ウィキペディアより引用~

(隊長加筆)
まあ、このようにとおおおおおっても悲惨な事件が過去北海道で起こっていたんですね(TT)

羆について調べてるうちにこの記事が目に留まったので参考までにここに掲載しておきました。

みなさんも渓流釣など羆のテリトリーに入っていく場合はちゃんとそれなりの対処法
(鈴、笛などで予め羆に所在を知らせる。出会ったら騒いだり走ったりせず、しばらく睨み返してからゆっくり後ずさりする。物を取られたら絶対に取り返さない)
と装備(熊避けスプレーで助かった人は居ない。振りやすい大きさの鉈が最善)
とあと、覚悟(威嚇でなく、本当に襲ってきたら応戦する。決して弱みを見せない)を
決めてフィシングライフをエンジョイしてください。。。。